10-①. こゝろ - 先生とわたくし Phantom in the Flower.
さくら――桜?――サクラ、おかあさまがわたくしを折檻するときに、偶にこぼす言葉だった。なぜ、春日さんが?その言葉を、いやその名前?を。サクラとは人名なのか?だとしたら、それは誰だ――?
◇◆◇
春日家から帰って数日、アイは別宅にある心の教室に来ていた。教室といっても生徒はアイ1人で、そこは先生の部屋だった。アイが心を覚えてから、すぐに1人の教師が充てがわれた。彼はアイに心の使い方を教え、別宅に籠もりこの世界の常識に疎いアイに、様々なことを教える。しかし、エレクトラがアイに教えてもいいと許可した、“選ばれた真実”のみを、だが。
ノックをしても返事がないので、恐る恐る部屋に入るアイ。
「先生?……失礼、致します。」
入るやいなや細い布の目隠しがアイに巻き付いてくる。
「きゃっ!」
アイはよろけて床に跪いてしまう。
「……いい加減慣れろ。」
地を這う蛇のような低い声が耳元から聞こえる。
「……ファントム先生、いらしていたのですね。」
「黙れ。初めて講義をした際に決めたルールを言え。」
「無駄口はきかない。この部屋にいる間は目を閉じて、決して開けない。必ず目隠しをつける。毎回目隠しを付けられたら、部屋を出るまでそれを外そうとはしない。
――決して“先生の姿”を知ろうとしない。……決して先生の目は見ない。」
「……よろしい。では本日の講義を始めよう。」
周りが見えないのでおっかなびっくり歩いているアイの手を引いて、椅子に座らせる。アイには何故ファントムがこんな事をさせるのか分からなかったが、従うしかなかった。
「今回は心における禁忌のことだ。前回私は何と教えた?答えろ。」
「はい。心における禁忌とは、まず、“現した心を売買してはならない”、買うことも売ることも罪に問われますが、“心を売り渡すこと”のほうがより強い禁則事項とされます。
そして、“他人の心を盗んではならない”。心は揮発性のものですが、稀に長く世界に印象が残り続けるものがあります。それを盗むことも大きな罪となります。そして――」
「そして、何よりも許されざる、死罪となってもおかしくはない、禁忌は?」
気配でファントムがにじり寄ってくるのを感じる。その後はまんじりともしていない。顔を見られているような気がする。
「この世で1番許されざることは、“心で人間を模したもの、人間を作ろうとする”ことです。たとえそれが“人間の身体の一部だけ”であったとしても、死罪になりえます。」
顔のすぐ近くで声がする。
「……理由は何故だと思う?」
「理由?ですかそれはまだ、ご教授頂いてないので……。」
今度は後ろ髪の側から。
「答えろ。教えてもらった事を答えるだけが学びか?学んだことを元に自分の頭を使わねば、一生莫迦のままだ。私は莫迦は嫌いではないが、莫迦である自分に甘んじているやつは殺したいほど嫌いだ。答えろ。」
「はい、……ええと。もし人間を作ったら、それは心でできているわけですから、新しく心を、つまり自我を持つかもしれません。ですが、物質世界では心はたちどころに消えゆく運命にあります。生まれてすぐに死ぬというのは、あまりにも哀れだから、……ですか?」
髪を一房持ち上げられる。
「では、我々はどうだ。私たち人間は?我々の人生は永いとお前は考えるのだな?」
「……どうでしょう、確かに死産や夭折する者もいますし、人間の生は、もし永らえたとしても……いや……。答えは何なのでしょうか?」
「教えない。軽々しく真理を求めようとするな。真理を求めるなら、“彷徨える跛行者”となる覚悟を持て。この世の問で正解があるものなど、数えるほどしかない。重要なことは、答えのない問いに自分で答えること、もしくは死ぬまで答えを求め続けることだ。
教師の仕事は答えを教えることではない、“答えの求め方を教える”のだ。そして、真理を探し続けるという道を指し示すのみだ。自分の足で歩く方法を教える。手を引いて連れて行ったりはしない。」
「なるほど……。」
頭の両側に垂れていた二房の髪を後で結ばれる。
「ファントム先生、1つ質問をしても宜しいでしょうか?」
「何だ。答えるとは限らないが、言ってみろ。」
「……さくら、という人物、若しくは物について何か知っていますでしょうか?」
腰に回されていた手が、ピタリと止まる。
「どこでその名を聞いた。」
「……ある友人のお家でです。」
「友人?お前に友なんぞを作れるとは思えないが……。まぁいい、そんなことは忘れてしまえ、そして2度と考えようとも思うな。」
「しかし、先ほど先生は、知ろうとすることが肝要だと……。」
「黙れ。何にでも例外はある。好奇心がお前を殺すことになる。1番最初に会った日に教えたことを覚えているか……?」
気配がどこにも感じられなくなった。教壇の方へ戻ったのだろうか。
「恋は罪悪である、ということですよね。」
「そうだ、恋を知ればお前も身を滅ぼすことになる。だから先程の質問の答えや、恋なんぞというものは、求めるな。これは先駆者からの忠告だ。」
「しかし、先生恋とはしようとしてするものではなく、気がついた時には落ちているものなのでは?知らずにいようと抗っても結局時が来たら避けられないものなのでは。」
一歩近づいてくる気配。
「ほう、驚いた。お前は恋を求めているのか?」
怒りをはらんだような声に、すこし身が竦む。
「いえ、そんなことはありえません。穢れたわたくしなんぞに恋をされては、その相手は水仙の花にでもなってしまいたいと願うでしょう。わたくしなんぞが恋を抱くということこそ、罪悪というものでしょう。」
先程とは違い穏やかな足取りで近づいてくる。
「それでいい、お前はそんなものを知る必要はないし、そんなものに穢される必要もない。」
「穢れたわたくしめが、これ以上穢れるということがあるのでしょうか?」
「黙れ。自己卑下は卑しい人間のすることだ。お前はサファイアのような瞳以外は、どこも穢れてなどはいない。これから穢すことも許さない。」
腑に落ちなかったが、首肯する。
「それでいい、さぁ今日の講義は終わりだ。さっさとでていけ。躓いて私の部屋を散らかすなよ。」
◇◆◇
目隠しをされているので、暗闇のなかで震える仔犬のように歩くアイをみて、ファントムがため息混じりに声を掛ける。
「はぁ……いや、まて、今日はお前に暗闇のなかを歩くすべを教えよう。」
急に肩に手を置かれビクッと反応する。
「……はい?先程のお話の続きですか……?」
「いや、先刻のように精神的な話ではない。実際に暗闇のなかを歩く方法だ。」




