9-④. 罪と罰と、ちいさな聖母の無垢なる祈り。Crime and Punishment with Prayer of the Very Little Virgin
「なるほど、それが君の言う友か……了解した。して、そうやって定義づけられた君の答えとは――?」
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「罪悪のお話でしたね。わたくしは罪悪は確かにこの世に存すると思います。そしてそれには罰が伴うものだと思います。たとい必ずしも罰が与えられなかったとしても。そして何を罪悪と思うか、ですよね。そうですね……まず、恋は罪悪だと思います――」
「ふむ、例えば持たざる者が持つ者から奪うことは?……君はどう考える?」
「それは例えば、“苦学生が高利貸しの老婆を斧で殺す”ような場合ですね。友の1人フョードルが論じていました。わたくしはそれも罰を与えられるべき罪だと考えます。
しかし、わたくしが考える罰とは救いです。罪を犯したのに、罰を与えてもらえないというのは、恐ろしいことです。許されないからです。許しを得たいというのは、人間の根源的な欲求です。なぜなら罰を与えられるまでは、自分が犯した罪が発覚しないか、責め咎められることがないか、なによりその罪を犯したおかげで得た幸福を、その罪自体が打ち砕きはしないか、ということを朝起きるたびに、愛しい人と過ごしているときにふと、または夜の安らかな安息のなかで、一生怯えて暮らすことになるのです。
だからこそ、罪を犯してもいないのに罰を求める人が現れたりするのだと思います。罰を得ることで自分の中の罪悪を消したいと願うのです。もっともそれで消えるのは罪悪ではなく、罪悪感だけかもしれませんが。」
「つまり、罪を犯したのに罰を与えられないのは不幸だと。なぜなら罰を受け入れて初めて人間は許され、安寧を得られるからと……ふむ。」
――俺もいつか罰を受けるのか?いや、俺は罪を犯してはいない、嫁と娘をより幸せなところに連れていきたいだけだ。それに、そもそも俺は罰を求めているのか?だがこのサファイアの瞳に見つめられると、オイディプスが理想を語る眼を思い出す。
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「君はどうしたい?何百もの深い見識のある友たちとの対話で、君の思想はどう変わったのだ?」
「わたくしがしたい事と、わたくしがするべき事は違います。書物の中の友たちや先生は、わたくしが“変えられるものと変えられぬものを見分ける洞察”を授けてくれました。“変えるべきものを変える胆力”も。そしてなにより、“変えられぬものを受け入れる勇気”も。友はわたくしがするべき事を教えてくれました。
しかし、わたくしがこれからの人生で行うのは、わたくしがしたいことでございます。友の意見とは関係がありません。……かなしいですが。友の、先生の忠告に従わない路を往くことを選んだのです。わたくしが選び取るのはわたくしがしたいことでございます。」
「……して、それは?」
「おかあさまの望みを叶えることです。お父様のお役に立つことです。そして、その見返りとして、わたくしを愛して頂くことです。それがわたくし、アイ・ミルヒシュトラーセの唯一手ずから選んだことです。生きる道です。」
アイの全てを貫くような、だか何物も見えてはいないサファイアの眼が、何よりも雄弁にしゅんじつに伝えた。
「……それではさっき君の言った、ほんとうの愛とは自家撞着しているように聞こえるが。」
――この子は、自分で唯一選んだことだと言っているが、それさえ実を言うと他人に選ばされているということに、気がついていない。
「そのとおりです。わたくしの思想、信念、信仰、哲学、世界観、その全てと対立する生き方です。わたくしは自身の信仰に背いているのです。わたくしは独りの背教者なのです。」
「……何故だ?自ら背信者となってまで、何故に父母に棹さして生きることを選ぶ?それは自分が1番つらい道だと知っているだろう?自分に嘘をついて生きるなど。」
――この子がエレクトラの思惑通りに動いてくれたら、我が家にとっても利益となる。だのに何故俺はこんな……それをやめさせるような言葉を吐いている。感心だな、と褒めて臆病な自尊心を慰めてやればいいではないか。なぜおれは――
今まで流れる水が如く理路整然と論理を並び立てていたアイが、初めてその言葉を詰まらせる。まるで言葉を愛しているように。わが子のように、言葉を――。
「……はい……そのとおりです。……ですが、わたくしにはこの道しかないのです……。……わたくしには、わたくしには……。わたくしの唯一の師、本の中の師、ルシウスは、彼の母を愛していました。たといコルシカ島に流されても、自分を慰めることなく、自己憐憫にふけることもなく、その地で研究を続け、母に手紙を書いたのです。わたくしは師から、自分がどんな目に遭っても、母を思う心、そして家族を愛することを学びました。」
「しかし、聖別の儀だって、君をさらに軍事的に利用できるしようと、エレクトラが考えたものだぞ?君を愛してのことじゃない。そんな母を何故愛する?」
――やめろ、儀式の相手をはるひにするのだって骨を折ったのに。俺もエレクトラの片棒を担いだのに。俺もこの子を利用しているのに、何故こんな事を聞く?俺は何がしたいんだ?
「おかあさまが……そして、おとうさまも、わたくしを愛して下さっていないのは重々承知です。そんなことは物心つく前に、身体に教え込まれました。
でも、それがなんだと言うのです?愛情とは愛してくれるという確信が持てる相手だけを愛することでしょうか?この人は私に与えてくれる、だから返してやってもいいだろうなんてものは愛情ではあり得ません。
愛情とは、ほんとうの愛とは――相手に憎まれていても、嫌われていても、愛してくれているかどうか分からなくても、それでも愛することです。The Art of Loving〈愛するということ〉はそういうことです。条件なんぞ愛の前には存し得ないのです。わたくしは、ただわたくしがおかあさまの子だから、おかあさまを愛するのです。」
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「それは、あまりにも、つらい……。」
「……!哀しんで下さるのですね。こんなわたくしのために。貴方はお優しいかたです。ひまりさんやはるひさんがやさしい人なのも、得心がいきます。」
――ちがう、やめてくれ、俺はこの子の母親と一緒になってこの子供利用しているだけだ。やさしい人なんかじゃない。
「ですから、わたくしはたとえ条件付きの愛情でも、ほんとうの愛とは呼べないものでも、おとうさまとおかあさまからそれが、一滴でもいいからそれが、ほしいと願わずにはいられないのです。この渇望は全てに優越します。其処には合理は必要ありません。
わたくしはただ、おとうさまとおかあさまの子供だから、お二人を愛するのです。このこころの前には、道理なんぞ露と消えてしまいます。子はその親の子供だから、親を愛するのです。それが全てなんです。それがわたくしの全てで。わたくしの世界の全てなのです。」
――親を愛していない子供なんぞいくらでもいる、俺もそんなことは知っている。だが、この子にはそんなことは、ひとえに風の前の塵と同じなのだろう。
この子はこんな俺を、この俺をつらまえて、やさしいひとだと、そう、言った。この子の最愛の母と共に、この子の地獄への道を、この両の手で舗装し、背中を押し、あちらへ行けと指を差す、この俺を。家族を守るためなら何だってしてきた。家族にさえ分かってもらえれば、それでいいと思っていた。
だか――この子は俺に罰を与えてはくれないだろう、こころやさしいこの子は。こころかなしいこの子は。だが――この子は、――この子は俺を赦してくれるだろうか?俺の罪を――。
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「アイ、おれは春日、春日春日だ。いつか、この俺のことも、祈ってはくれないか。何にでもいい、君が信じるものなら、君が奉じるものなであるのならば、『あなたの僕、春日』と。……それだけでいいのだから。」
アイには彼が赦しを求めているのだと分かった。それは、アイがずっと求めているものでもあったからだ。それが自分に与えられるのなら、与えないわけはない、とアイは勢い込んだ。
「わたくし、この先ずっとあなたのことを、お祈りします。」
少年は熱っぽい調子でそういうと、ふいに笑いだし、彼に近づき、低く垂れた彼の頭を、しっかり胸に抱きしめた。
――その姿はまるで、孤児に抱擁を与える、聖母のようであった――
◇◆◇
アイの耳は孤児の声を聞いた。
「ああ……サクラ――」
――さくら――?




