9-①. 罪と罰と、ちいさな聖母の無垢なる祈り。Crime and Punishment with Prayer of the Very Little Virgin
ひまりのことばは確かにアイのこころに触れた。こころのいちばん深いところに。埃をかぶって凍りついていたところに。しかし、ひまりが企図したこととは真逆の温度でもって。
アイの最後の言い訳を、アイが生きていていい言い訳を、やさしい陽だまりのなかでゆっくりと溶かしていた。
◇◆◇
それから3人はおしゃべりして、お菓子を食べ楽しく過ごした。楽しく笑いあいながら、アイはこんな事を考えた。きっと、このひまりは愛されて育ってきたんだ。
愛されて育ってきたから、愛情に飢え喘いでいる人のことなど理解できないのだ、と。こうしてまた新しい言い訳を拵えて、アイは醜く延命するのだった。
でも、今日はじめて会った自分に、わが子のように――決してわが子と同等にではないが――それでもわが子のようにやさしくしてくれる人を侮辱してまで作った生きていてもいい理由に、意味なんぞあるのかと。やさしい人を踏み台にして生きながらえる自分がいつもよりもっと、もっとずっと……醜く感じられるのだった。そしてきっと、それは間違いではないのだろう。自分の母親に対して罪悪を感じたあとは、友の母に対して罪悪感を覚える。
アイの人生とはそういうものだった。罪悪と罪悪感があざなえる縄のように交互に訪れる。そして、その降り積もる罪悪の雪の重みを片時も忘れることなく生きている。そんな生だった。アイの敬愛する先生は、『恋は罪悪ですよ』と言っていたが、アイにとっては“生こそが罪悪”で、“罪悪こそが生”だった。
◇◆◇
はるひがお風呂に行ったのを見計らって、お風呂から上がったアイにひまりが声をかける。
「アイちゃんアイちゃん、こっちおいで。」
ひまりが右手を動かす。しっしと追い払われることしかない人生なので、最初はそうされているのかと思ったが、いつもと見る手の動きと、動作が逆なことに気がついた。おいでおいでと手招きしているのだった。
おっかなびっくり控えめに、けれども着実に、ひまりの居る方へハイハイで近づいていく。その膝に吸い寄せられたのだった。怪我をしてニンゲンにおびえる子猫のようだった。向かい合ってひまりに抱っこされる。
「……?あの?」
「いや、なんとなくね?……なんとなく、今日は1日アイちゃんを眺めていたら、……ほんとうになんとはなしにね、抱きしめたくなったんだ。……今から手を上に上げるからね、怯えないでね。」
そうして、アイを怯えさせないようにだろう、とても徐ろに手を上げる。そうして、アイの黒髪を右手で撫で始める。アイにはひまりがなんでそうするのかが分からなかった。なんでなんの役にも立ってないのに、なにもあげられてないのに、抱きしめてくれて、撫でてくれるのか、ほんとうにわからなかった。
でも何も聞かなかった。もし理由を問うたらこの時間が終わってしまう気がして。今はただ何も考えずに、この陽だまりを享受していたかった。ほかには何もいらなかった。さっき感じた罪悪感が溶けていくようだった、でも罪悪の方は決して溶けてはくれないのだろうと、そう悟った。
◇◆◇
暫く2人とも無言だった。心地良いい静寂の中で、お互いの心臓の音だけを聞いていた。御言葉なんぞはこの場所には要らないのだった。溶けて、体温が混ざって、自分と相手との境界が分からなくなった。でもそれも心地よいのだった。
「……アイちゃんさ……。」
ピタリとくっついているから、声がひまりの身体から振動して直接聞こえてくる。その声につつまれるような感があった。
「……うん……。」
幼子に戻ったようだった。今でも幼子だが、もっと昔。まだ、世界をそのまま受け入れて、信じて疑わなかったときよような心地。世界にまだお母さんしかいなかった時代。チョコレートとジャムしかなかった世界。なんにも心配なことなんて、なんにもむずかしいことなんかなかった頃。
「さっきアイちゃんのお母さんと話したんだけどね?アイちゃんをうちにお泊りさせてもいいですか?って。」
「……うん。」
「もし……つらいことがあるなら。……アイちゃんのおうちに、かなしいことがあるなら、いつでもうちにきていいんだからね?」
「……うん……。」
「それに、もしアイちゃんとはるひが聖別の儀の勢いのまま結婚でもしたら、私たち、家族になるんだしね!アイちゃんの……お義母さん……楽しいだろうね。」
「……おかあさん。」
アイははっとした、自分のお母様に不義理を働いているような気がしたのだ。誰かを母と慕うということは、自分の母を傷つけはしないかと。万に一つもおかあさまは悲しまないと知っているのに、悲しんでくれないと。
でも、アイにとっては十分だった、万に一つで十分だった。どんなに小さくても、自分のせいでおかあさまをかなしませる可能性があるのなら、それを排除したいと思うのだった。おかあさまのしわあせを切に願うのだった。それほどアイは母を愛しているのだ。
理由なんてなかった。おかあさまがアイのおかあさまだから、愛している。たといおかあさまがアイをこどもだからという理由で、無条件には愛してくれないと知っていても。アイは愛してしまうのだった。さっき“母親は子を愛するのだ”と聞かされて、虫唾が走ったのに。アイは“子は無条件に母を愛するのだ”と思ってしまうのだった。おかあさまがアイのおかあさまだから、どんなにきらわれても、なぐられても、あいすることはやめられないのだった。
◇◆◇
「ただいま〜、おかーさんとアイくん、すっかり仲良しだねぇ。」
はるひが湯気の立つ頭を拭きながら帰ってきた。その言葉は少しの嫉妬をはらんでいた。
「あら〜!はるひ妬いてるの?ねえねえ!大丈夫よ!わたしははるひのお母さんなんだから!」
「おかーさん!うっとおしいっ!」
「っ……かっ帰ります!」
――これ以上ここにいてはいけない、自分は2人にとって邪魔な存在だし、またしあわせな家族の不純物になるところだった。それに、ここにいると、自分のお母様への愛情を疑ってしまいそうになる。
「えっ!泊まっていこうよ〜!」
「そうねぇ、それ外を見て、雪が降っているわ、それも大雪よ。こんなに降り積もって。今から帰るのは危ないわよ?……お父さん大丈夫かしら?」
――雪?しかもこんな大雪が。雪が降る気配なんてなかったのに、この国でこの季節に雪があんなふうに積もったりするか?
「あっ……ご、ごめんなさい……。ごめんなさいぃ……。」
雪を目に捉えた瞬間に、突然蹲って謝り始めたアイに2人ともぎょっとしてしまう。
「ど、どうしたの?アイくん?ただの雪だよ?アイくんがなんで謝るのさ。」
「確かにこんな大雪は見たことないけど、アイちゃんのせいじゃないでしょ?」
ふるふるとアイは首を振る。
「いいえ、違うんです。これはわたくしのせいなのです。きっと。帰らないとって思っているのに、迷惑だと分かっているのに。わたくしの、このおうちを、ひまりさんと離れがたいと言う気持ちが、雪となって降り積もっているのです。遣らずの雨のように。しんしんと、ここにいたいという気持ちが降り積もっているのです。」
「……確かにアイちゃんはこころをもつものだけど……ここまでのことができるのかしら?」
「そうだよ!ただのいじょーきしょーだよ!アイくんのせいじゃないよ!」
◇◆◇
2人の言葉にゆっくりと面を上げたアイの、その顔をみたはるひは感じた。その、自責の念と申し訳なさに彩られた、震えるまつげの上目遣いみた時に、たった一度だけアイの涙をみたときと、同じ気持ちになった。熱を帯び、ピリッと電気が走る身体。前髪の影に隠れたはるひの眼光が温度を増す。無意識に上がった口角を右手で覆い隠す。
――あぁ、これがみたかったのだと。
――でも、どうしてだろう?すきなひとの悲しい顔がみたいなんて、ふつうはえがおがみたくなるっておかーさんもさっきいっていのにな。わたしってふつうじゃないのかな?




