8-①. 原始、母は太陽であった。 Death Sentence filled with Love
――3人で食べたご飯はほんとうに、ほんとうにおいしかった。涙がこぼれそうになるくらい。
いつもマナーを間違えないようにとか、使用人に何か盛られていないかとか、人を不快させちゃいけないとか、そんなことばかり考えていて、いつしかお料理の味はしなくなっていた。
でも、春日家で食べたご飯は久しぶりに、本当に久しぶりに、味がした。おいしかった。ずっと笑いあいながら、どうでもいい話をして、ご飯を食べていたかった。生まれたときから、ご飯を食べるときは口を開くな、人を不快にさせるな、オマエみたいな穀潰しを養ってやっているんだから、申し訳ないと思って食べろ、と言われてきて、そのとおりに生きてきた。
だから、ほんとうに、ほんとうに、おいしかった、しあわせだった、しあわせの味がした――。
◇◆◇
「アイちゃん今日うちに泊まっていったら?」
なんの気なしに言われてアイはドキッとする。
「お、お泊りですか?……聞いたことがあります!仲良しな友達はお泊りをするって……!!」
「アイちゃんお泊りしたことないの?!ミルヒシュトラーセ家ともなるとそうなのかなぁ?友達のおうちじゃなくても、旅行でお泊りはあるでしょ?」
「あっ……いえ、家族旅行はいつもあい以外の皆で行くので……。それとずっと離れにいて仲のいいお友達もいなかったから、それもしたことがなくて……。すみません。」
アイはとても恥ずかしいこと、恥ずべきことを告白するかのように真っ赤になって答え、しまいには謝罪までしてしまう。みんなが当たり前のようにやっていることが、できていないことが恥ずかしいのだ。たとえ、それが自分ではどうしょうもない家庭環境のせいだったとしても、本人にとっては恥ずかしいし、常に人の上下を気にして生きている人間にとっては相手を馬鹿にしていい格好の理由になるのだ。
「なんであやまるのよ!じゃあじゃあ今日は尚更お泊りしましょ!だってアイちゃん元々は春日に会いに来たんでしょ?
うちの人最近どんどん立場が変わるせいで、どんどん忙しくなっちゃって帰ってこない日も多いのよ!アイちゃんが居てくれるなら淋しくないわ!
それに明日なら旦那も帰ってくるだろうし、アイちゃんも会えるわよ?」
「そう、ですね……もしよかったら、もしお邪魔でないのなら是非……!」
遠慮しつつもキラキラとした瞳の輝きが隠せておらず、期待しているのが母娘には丸わかりだった。その事を口にするほど無粋ではなかったが。
「じゃあ、アイちゃんの親御さんに連絡しないとね〜。」
「あ……いえ、大丈夫だと思います。お父様もお母様も、わたくしが居ないことに気づかないと思いますし、居ないと知っても、むしろ喜んで頂けると思います。」
◇◆◇
小さい頃アイが離れを抜けだして、3日間森の中に隠れたことがあった。自分に全く関心がないように見える両親の気を引きたかったのだ。
――きっと、おとうさまもおかあさまも迎えに来て下さる。アイをみたらしんぱいだったと抱きしめて下さるかも。しんぱいしたんだぞと、しかってもらえるかも。あいを見て下さるかも……!
そう思っていたが、1日、2日、3日とたっても誰もこない。アイは夜の森が思ったよりこわくて、ひとりの夜が思ったよりこわくて――ひとりには慣れてるはずなのに――とうとう泣き出してしまった。そして、泣きながらどうにか本邸まで帰ってきた、ひとりで。
そこで目にしたのは、アイを心配している両親などではなく、うれしそうに酒盛りをしている2人だった。あんなにしあわせそうなおかあさまははじめてみた。アイの前ではみせないしあわせな笑顔だった。太陽のような、笑顔だった。
「アイがこのまま帰って来なくなったら、面倒事が1つ減って儲けもんだなぁ!はははぁ!なぁ!オイディプスよ!」
「えらく上機嫌だな、エレクトラ。まぁ、アイツも男だ、いつかは帰ってくるだろう……俺もよく親父に悪いことをして森に放り込まれたもんだ。男子たるもの一人で生きていけるようになれとな。」
「オイオイ、帰ってるくるなんて不吉な事をいうんじゃねぇよ、今はこのしあわせを祝わねぇと、酒神バッコスに失礼ってもんだ!」
「ウマル・ハイヤームにもな。」
「げはは!ちげぇねぇ!呑め呑め!これで我が家唯一の汚点が消えたんだぜぇ、何度殺そうと思ったか……でもそうするっとぉ敵対勢力のボケどもが煩く騒ぎ立てるからなぁ……あの虫けらどもがぁ……。
でも自分で消えてくれるなら世話ねぇぜ!これでオレとオマエの喧嘩の種もなくなった!あいしてるぜぇ、愛しいオイディプスよ!毎年アイツの誕生日にいちいちイライラする日々ともサヨナラだ!!あはははっ!」
「……エレクトラ、すこし酔いすぎだ。あれでもアイは俺たちの――」
「――たち?」
逃げだした。限界だった。やさしく抱きしめてくれると思った。心配したんだぞと叱ってくれると思ってた。いつも怒らせてしまうけど、でも親子なんだし、心の何処かではアイのことを愛してくれてると、思ってた。でも違った。2人ともしんぱいなんかしてなかった。うれしそうだった。しあわせそうだった。
……何より、何よりもアイのこころを2度と元には戻らないほど、粉々に打ち砕いたのは。2人がほんとうにきれいだったことだ。
しあわせな夫婦の原風景がそこにはあった。愛し合う夫婦とはこういうものだという理想の姿を見せつけられるようだった。いつもアイの前で翳っている表情の2人は太陽のように笑っていた。お互いに対して笑い合っていた。その太陽に眼を灼かれてしまった。生まれてこの方そんな煌めきをみたことがなかったからだ。そうして、そうして理解してしまったのだ。
いつも両親の顔が翳っていたのは、2人が元々そういう人だからではなく、アイのせいだと。アイこそが美しい月にかかる叢雲、アイこそが、愛している人、しあわせでいてほしい人から、笑顔を、しあわせを奪う人間だったのだ。自分こそが両親の不和の原因であり、喧嘩の理由であり、完璧な夫婦の間にのうのうと生きている不純物だった。
2人の目がいつも濁っているのは、それがアイに向けられたものだったからだ。アイをみていたからだ。自分がいるときの2人しか知らなかった。自分がいないと家族は皆あんなふうに笑い合っていたのか。
思えばその時がはじめてだったかもしれない、アイの人生に自殺するという光明が、希望が、唯一の夢が現れたのは。それは解決策だった。生まれながらに他者を不快にするという業を背負ったものに、唯一許された自由だった。生きているだけで他人に迷惑をかける人間の、たった1つの、光だった。
◇◆◇
「「……。」」
――お二人が黙り込んでいる。また考え込んでいた、わたくしの悪い癖だ。目の前にいてくれる人間を軽視して、自分を哀れんでばかりいる。塵屑野郎のすることだ。自己憐憫は最も卑劣な行為だと知っているのに。
だからこんな自分が嫌いだ。おれだって嫌いだ。みんなが嫌うこんな気持ちわりぃやつが。おれがいちばんきらいだ。これだって唯の言い訳だ。
同情してほしいんだ。かわいそうだと思われたいんだ。つらかったねと、よしよししてほしいんだ。きもちわりぃ。人間野郎が。みんなとおんなじ距離でアイのことが嫌いだから。ちゃんと自分のことが嫌いだから。だから、だからもうこれ以上いじめないで、なぐらないで、なにより――きらわないでくれ。
そう言いたいだけなんだ。自分が嫌いなんでただのポーズだ。パフォーマンスなんだ。ちゃんと自分が嫌いだから。もう許してくれよ。そんなに言わなくても、毎日毎日言わなくても。声で視線で態度で心で表されなくたって分かってるから。みんなに嫌われてることなんておれが一番わかってるんだ。だからもういわないでくれ。いわないでください。おねがいだから。




