184. 民は我が血なり! My People Are My Blood!
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ありがとうございます。
残されたのは、荒れ果てた広間と、傷ついた二人だけだった。かげろうは壁に寄りかかり、息を荒げながら立ち上がる。アイは膝をつき、骨の心をゆっくりと収めていく。白い骨が霧のように散り、彼女の身体に傷だけが残る。
静寂が戻る。
だが、二人の胸には、怒りと疑問と、そして得体の知れない不安が残った。
アヴドーチヤ・カラコーゾフ。
その名が、脳裏に焼き付く。
彼女は何を求めていたのか。
骨の心を、なぜ確認したかったのか。
広間の外では、崩壊の音がまだ続いていた。
だが、二人はただ、互いの傷を確かめ合い、立ち尽くすしかなかった。
戦いは終わった。
しかし、何かが始まったばかりだという予感が、二人を包んでいた。
◇◆◇
アイたちは王座の間から外へ踏み出した。重厚な扉が軋みを残して閉じられ、広大な回廊が視界に開ける。空気は熱く、血と煙の匂いが絡み合い、遠くで断末魔のような叫びがこだまする。
ラアル王女の大さな手が、アイの袖を強く握りしめていた。だが、その指先は微塵も震えていない。王女は大人びた顔を上げ、毅然とした態度を崩さない。彼女は守られるだけの存在ではない。アイを守るために、背筋を伸ばし、唇を引き結び、赤い瞳を鋭く輝かせている。暴動の嵐の中で、王女の大きな身体は、まるで一本の若木のように揺るがなかった。
そこに、ツエールカフィー公王が立っていた。金色の髪が乱れながらもなお輝き、陽光を浴びた麦穂のように優しく揺れている。嵐の只中に立つ一人の“王”。
圧倒的な心が、彼女を中心に渦を巻き、暴走した貴族たちを鎮めていた。公王の瞳は、赤いルビーのように深く妖しく輝き、ただそこに在るだけで、全てを包み込んでいた。
過激派の者たちが、次々と膝を折る。剣を振り上げた男の腕が、突然力なく垂れ下がる。愛の心が、柔らかな光となって広がり、怪我人を癒していた。切り裂かれた傷口が音もなく塞がり、折れた骨が静かにゆっくりと元の形を取り戻す。苦痛の叫びが、感謝の吐息へと変わる。
公王は静かに、しかし確かな声で告げた。
「――私の“愛”はこの国を覆うほど広い。」
その言葉は春風となり、回廊を駆け抜け、暴徒たちの心を優しく包み込む。だが、過激派の首領は歯を食いしばり、嘲るように叫んだ。
「女の甘い言葉で、俺たちを縛れると思うな!」
公王の表情は変わらない。金髪が微かに揺れ、赤いルビーの瞳が静かに燃える。娘であるラアル王女を、何よりも強い愛の心で包み込む。透明な膜のような力が王女の周囲を覆い、決して一指も触れさせぬ守護を施す。
しかしラアルは、その守護をただ受け入れるだけではない。彼女は母の背後から一歩踏み出し、アイの前に身体を滑り込ませるように立ち塞がった。大きな肩を張り、毅然と前を見据える。過激派の視線が彼女に注がれても、睫毛一つ動かさない。王女の頰は緊張で白く、だがその瞳は母と同じ赤いルビーの色を宿し、決して怯まなかった。
アイはその姿に、息を呑んだ。王女は自分を守るために、ここまで強い態度を保っている。大きな身体で、震えを押し殺し、ただ守るという意志だけを燃やしている。これが獣神体。
過激派の一人が、心の斧を振り下ろす。風を切り裂く鋭い音が響き、公王の肩を狙う。だが、次の瞬間、茨の心が地を這い、男の足首を絡め取った。鋭い棘が肉を抉り、血が噴き上がる。男は悲鳴を上げて転倒し、床に叩きつけられる。公王はゆっくりと歩み寄り、倒れた男を見下ろす。赤い瞳が、冷たく光る。
「我が娘を危険に晒したことを後悔させてやる。」
声は静かで、しかし底知れぬ怒りを孕んでいた。男の瞳が恐怖に歪む。公王の心がさらに広がり、王宮の隅々まで愛と茨の心が満ち渡る。暴れる者たちは次々と茨に拘束され、棘が腕を貫き、脚を固定し、血を滴らせる。叫びが交錯し、回廊は赤く染まっていく。
公王は癒しの心を解き放つ。皆を癒す、母なる愛の力。
「母の愛。」
柔らかな金色の光が王宮全体を包み込む。怪我人の傷が癒え、痛みが消えていく。過激派でさえ、棘の痛みを和らげられ、抵抗の意志を失う。慈母の慈悲と、母の獅子のような激情が同居する、絶対の力だった。
残党が集まってくる。十数人の男たちが槍を構え、公王を取り囲む。首領格の男が、嘲笑を浮かべて叫んだ。
「こんなに巨大な城中に心を配れるわけなんてない! 女の力など、所詮は限界がある!」
「はぁ……第一性偏重主義者か……。」
公王の金髪が微かに揺れ、赤いルビーの瞳が深く輝いた。唇に薄い笑みが浮かぶ。
「ただ権威だけで王家が存続してきたと思うのか?……ファンタジア家がファンタジア王国を築けた理由……そして、私たちが辺境のパンドラ公国を任されたのは……その“強さ”故だ……!」
その言葉と同時に、茨の心が爆発的に膨張する。地面から無数の棘が噴き上がり、過激派を襲う。棘は鋭く、肉を裂き、骨を砕き、血飛沫を散らす。一人の男が胸を貫かれ、鮮血を吐きながら倒れる。別の男は棘の鞭に打たれ、背中が深く引き裂かれ、肉片が飛び散る。槍を投げた者には、茨の壁がそれを弾き返し、逆に喉を貫いた。血が噴水のように噴き上がり、壁と床を赤く染める。
公王は歩みを進めず、膝を立てて座り込み、ただ心を操るのみ。棘の蔓が首を締め上げ、男の顔が紫に変色し、目が飛び出す。剣を振り上げた者の腕は根元から切り落とされ、断面から血が迸る。叫びは絶叫へと変わり、絶叫は断末魔へと変わる。回廊は血と肉片の海と化した。
最後に残った首領が、よろめきながら剣を握りしめる。だが、茨がその剣を絡め取り、粉々に砕く。次の瞬間、無数の棘が男の体を貫いた。胸、腹、肩、脚――血が四方八方に飛び散り、男はゆっくりと膝をつき、倒れる。
公王は静かに、金髪を風になびかせながら告げた。
「私の心でこの王宮全部を覆った。私の国民たちを傷つけた事を後悔しながら散華しろ。」
その声は穏やかで、しかし絶対だった。過激派の全員が、容易く制圧される。棘は体を絡め、動きを封じ、痛みと恐怖を刻み込む。回廊に残るのは、血の匂いと、静寂だけ。
ラアル王女は母の背後に戻りながらも、最後まで毅然とした態度を崩さなかった。アイを守るために保ち続けた強さが、ようやく静かに解け、王女は小さく息を吐く。だがその瞳には、まだ守る者の意志が残っていた。
金色の髪が夕陽のように優しく輝き、赤いルビーの瞳が静かに王宮を見渡す。平和が、ゆっくりと戻り始めていた。
すべてが終わった。
戦いの余韻が王宮の回廊に重く沈殿する中、ツエールカフィー公王はゆっくりと息を吐いた。金色の髪に絡まった血の飛沫が、微かな風に散り、床へと落ちる。赤いルビーの瞳はまだ鋭く燃えていたが、その炎は徐々に穏やかな灯火へと変わり始めていた。
彼女はまず、茨の心を静かに収めていく。地面に這っていた棘が、音もなく土へと還り、拘束されていた過激派の体から離れる。血に塗れた蔓は花弁のように萎れ、消えていった。回廊に満ちていた緊張の糸が、一本、また一本と切れていく音が、耳に届くようだった。
公王は振り返った。そこに立つ娘と、娘の傍らで息を詰めているアイの姿を捉える。瞬間、彼女の顔から王の威厳が剥がれ落ちる。眉間に刻まれていた深い皺が溶けるように消え、唇の端が柔らかく上がる。赤い瞳の奥にあった冷たい光が、温かな蜜のようにとろりと変わった。それは、戦場を統べる“王”の顔から、ただ一人の“母”の顔へと、まるで仮面を脱ぐように移ろっていく。
彼女はゆっくりと膝を折り、ラアルとアイと同じ高さになった。金色の髪が肩から滑り落ち、血の匂いを帯びながらも、なお優しい香りを放つ。公王は両手を広げ、まるで壊れやすい硝子細工を抱くように、二人をそっと胸に引き寄せた。
「もう、大丈夫よ。」




