180. 信者は心者 The Believer und Die Herzer
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「かげろー、ちょっと寒いかも……。」
小さな呟きに、かげろうは自分の外套を脱ぎ、アイの肩にかけた。大きな布が小さな彼を包み、かげろうの匂いが混じる。アイはそれを引き寄せ、顔を半分埋めて微笑んだ。
「あったかい……かげろうの匂い、好きだよ。」
無自覚な言葉に、かげろうの耳が熱くなる。彼はアイの髪に指を滑らせ、そっと撫でた。アイはくすぐったそうに身じろぎし、かげろうの胸に額を押しつける。二人は言葉を交わさず、ただ寄り添っていた。月光の下、無意識の甘さが静かに漂う。
やがてアイが小さく息を吐き、かげろうの指を握った。絡まった指は離れず、夜風が二人の体温を優しく混ぜ合わせた。
◇◆◇
王宮の回廊は、午後の陽光がステンドグラスを通し、色とりどりの光の粒子を散らしていた。絨毯の柔らかな感触が足元に優しく、遠くから聞こえる噴水の音が、静かな調べのように響く。
わたくしはラアルさまと公王様とのお茶の時間を終え、一人で散策を楽しんでいた。あの応接室での穏やかな笑い声が、まだ胸に残る。甘いマドレーヌの香りと、ラアルさまの優しい瞳。公王様の包み込むような温もり。そんな幸せな余韻に浸りながら、回廊をゆっくりと歩いていた。
突然、前方の曲がり角から、二つの人影が現れた。一人は長身で太陽のようなオレンジ色の髪が輝くかげろう、もう一人は赤髪の竜人の特徴的な鱗と角が光るカラコーゾフ先輩。わたくしは目を丸くし、足を止めた。彼らもわたくしに気づき、軽く頭を下げた。
「かげろう、カラコーゾフ先輩……ここで会うなんて、奇遇ですね。なぜ、王宮にいらっしゃるのですか?」
わたくしの問いかけに、かげろうは穏やかに微笑んだ。彼の瞳はいつも通り、静かな深みを湛えている。オレンジ色の髪が陽光に映え、まるで炎のように揺れる。
「アイ様、こちらこそ。お会いできて光栄です。私は不知火陽炎連合の次期藩主として、王宮の視察に来ております。公王様のご厚意で、内部を見学させていただいているのです。」
その言葉に、わたくしは頷いた。かげろうの家系は、古くからミルヒシュトラーセ辺境伯家に忠誠を誓う連合藩。視察とは、未来の役割を学ぶためのものだろう。次に、わたくしはカラコーゾフに視線を移した。彼の赤髪が鮮やかに輝き、竜人の鱗が赤くきらめく。黒い瞳が、嘲るように細くなる。
「先輩、あなたは? 公王派の情報屋として、何か企んでいるのでは?」
カラコーゾフは肩をすくめ、鱗が陽光に反射した。
「サクラちゃん、そんな怖い顔しないでよ。ただの散策さ。美しい王宮を眺めにきただけだよ。思惑? そんなものないない。ないないないだ。」
彼の言葉はいつも通り、はぐらかす調子だ。わたくしは唇を尖らせ、追及しようとしたが、彼は笑って手を振った。
「まあ、細かいことは気にしないで。せっかく三人揃ったんだから、少しおしゃべりしようよ。」
三人で回廊のベンチに腰を下ろした。陽光が三人を優しく包み、遠くの庭園から花の香りが漂う。かげろうは静かに周囲を見回し、カラコーゾフは軽口を叩き、わたくしは二人の間で微笑んだ。
だが、心のどこかで、不安の種が芽吹く。カラコーゾフの思惑が不明瞭なのが、気にかかる。しばらくして、わたくしは立ち上がり、庭園の方へ歩き出した。かげろうとカラコーゾフもついてくる。
会話は軽やかだったが、ふと気づくと、カラコーゾフの姿が消えていた。いつの間にか、影のようにいなくなっていた。彼の竜人の敏捷さが、こんな時に発揮されたのか。わたくしはかげろうに視線を向け、首を傾げた。
「かげろう、カラコーゾフ先輩がいなくなったね。どこに行ったのかしら。」
かげろうは周囲を警戒し、低く答えた。オレンジ色の髪が風に揺れる。
「アイ様、気をつけてください。あの男の行動は、予測しにくい。」
二人は庭園の奥へ進んだ。花々が陽光に輝く中、突然、低い声が聞こえてきた。茂みの向こうから、複数の人影が話し合う気配。わたくしとかげろうは身を低くし、息を潜めて覗いた。
そこにいたのは、公王派の過激派と思しき者たち。黒いマントに身を包み、剣を帯びている。一人の赤髪の竜人の女が、中央で声を上げていた。彼女の鱗は赤く輝き、瞳に狂気が宿る。
「アイ・サクラサクラ―ノヴナ・フォン・ミルヒシュトラーセを誅殺せよ。あの娘が辺境伯のスパイとして、王宮に潜り込んでいる。公王派の計画を台無しにする前に、始末するのだ。」
その言葉に、わたくしの背筋が凍りついた。過激派の計画――わたくしの命を狙う陰謀。赤髪の女は剣を抜き、仲間たちに指示を飛ばす。わたくしはかげろうの袖を握り、震えた。
「かげろう……。」
かげろうの瞳が、鋭く細くなった。彼は静かに立ち上がり、影のように茂みから飛び出した。過激派たちが気づき、剣を構える。赤髪の女が先頭に立ち、咆哮を上げた。
「誰だ!」
かげろうは一瞬で間合いを詰め、心の剣を振るった。話し合いの中心にいた一人の男――公王派の幹部らしき人物――の喉が、音もなく裂かれた。血が噴き出し、男は倒れる。わたくしは目を見開き、驚愕した。かげろうの剣が、陽光に赤く染まる。
「かげろう……!?」
わたくしの声が、震えて響いた。かげろうは振り返らず、残りの過激派に視線を向けた。赤髪の女が剣を振り上げ、襲いかかる。わたくしは立ちすくみ、心が凍りつく。かげろうの行動が、わたくしの世界を一瞬で変えてしまった。驚愕の波が、胸を覆う。
「かげろう……かげろー……何を……。」
わたくしの声は震え、足が後ずさる。かげろうは剣を払い、血を振り落とした。残りの過激派たちが剣を構え、赤髪の女が咆哮を上げる中、彼は平然と立っていた。オレンジ色の髪が陽光に輝き、表情に動揺の欠片もない。まるで、雑草を抜いたかのように。
赤髪の女が襲いかかり、剣が交錯する。わたくしは体が凍りつき、動けない。かげろうの動きは流れる水のように滑らかで、過激派の一人をかわし、もう一人の胸を刺した。血の臭いが風に乗り、わたくしの鼻を突く。恐怖が胸を締めつけ、わたくしは後退りした。かげろうが、人を殺した。平然と、息も乱さずに。
赤髪の竜人女と過激派たちが逃げ散る中、かげろうは剣を収め、わたくしの方を振り返った。太陽のような笑顔が、顔に広がる。オレンジ色の髪が優しく揺れ、瞳に穏やかな光が宿る。
「アイ様、ご心配なく。あのような者ども、死んで当たり前です。貴方を殺そうと計画した輩など、生きる価値などありません。」
その言葉に、わたくしは息を呑んだ。おびえが体を震わせ、かげろうの笑顔が恐ろしく見える。彼はわたくしの怯えに気づき、首を傾げた。心底、不思議そうな様子で。
「アイ様、どうかなさいましたか。何に怯えておられるのです。」
かげろうの声は純粋で、わたくしの恐怖を理解できないようだった。太陽のような笑顔が、血の臭いの中で輝く。わたくしは唇を噛み、言葉を失った。彼の平然さが、わたくしの心をさらに凍らせる。




