7-③. 愛と陽だまりの出会い I meet the Sunny Spot.
「Make yourself at home!《くつろいでね!》よ」
「!……ありがとう……ございます。」
「ごめんね、アイくん、おかーさんミーハーで。最近英国系地獄人の書いた小説にはまってるみたいなの。」
興味なさげにソファに寝そべり、胸の上で自分の心を弄りながら補足する。
「あ、あいも!……わたくしも大好きです、地獄文学……!」
アイは初めて自分と同じ趣味の人に出会えた喜びでつい口調が崩れる。それどころか好きな作家を捲し立ててしまう。
「ウィリアム・シェイクスピアですか?それともルイス・キャロル?それともそれともっチャールズ・ディケンズ?ジョナサン・スウィフト!まさか……トマス・モア!?
……あっすっすみません……つい喋りすぎてしまいました、ふ、不快にさせなたら大変申し訳ありません……。」
いつもは殴られないように気を張って発言や行動に自分を出さないようにしているのに、この家にいると何故か気が緩んでしまう。その理由がまだ分からなかった。
「不快なんて!アイちゃんはいっぱい難しいことをしってて偉いね〜。なでなで〜。」
頭を撫でようと手を上げると、アイの身体はまたビクッと大袈裟に震えて、頭を庇うように両手を上げてしまう。来たるべき衝撃に備えて――。
「……。」
それをみたひまりは、瞳にかなしみと慈しみをたたえていたが、目を閉じているアイには分からなかった。
そしてアイのその姿を見て、はるひの胸の上にある心がざわざわと形を変えていることにも気がつけなかった。
◇◆◇
「……?」
いつまでたっても予想した痛みが来ないので、不思議に思っていると、ふわりと頭に柔らかく触れるものがあった。思考と現実との間隙があまりにも大きすぎて、理解できない。脳が理解を拒否している。
「……よしよし、この世界は、そんなにこわがらなくても大丈夫だよ……?」
抱きしめられながら、やさしく撫でられているのだと、理解した。理解したが、認めたくなかった。アイが最初に感じたのは喜びでも幸せでもなく、怒りだった。それも抑えきれない程の憤怒であった。
あれほど渇望して、先日生まれて初めて、こころをもつものにまでなって初めて、おかあさまの役に立って初めて、母に与えられた抱擁と愛情を、他人の母親からいとも容易く、こんなにも簡単に、与えられるということが、認められなかった、許せなかった。
だって、じゃあ今まで耐え忍んできたのは、今まで頑張ってきたのは、あんなにも切望していたのは、なんだったのだ?みんなはこんなに簡単に愛情を与えられるのか?じゃあ自分は?なんで自分は?なんで自分だけが……自分だけが。
「なでなで、アイちゃん大丈夫だからね。はい、トントン……これをするとはるひはすぐに泣き止むんだよ?アイちゃんは今泣いてるわけじゃないけど、泣いてるように見える。泣いてるように聞こえるよ。」
殆どのの母親がそうするように、抱きしめながらやさしく背中をトントンと心臓の鼓動のリズムでたたかれる。そこからたくさんのあんしんなきもちと、ぽかぽかとあたたかいいもちがながれこんでくる――。
◇◆◇
アイは決して泣かなかった、もっともっと小さい頃、虐められて親に泣きついたとき、父親には『男は泣くんじゃない』と殴られた。母親には『気持ち悪いから泣くんじゃねぇ』と蹴られた。
だからアイは決して人前では泣かないのだ、泣けないのだ。アイは今すぐこのさっき会ったばかりの友達の母親に抱きつきたかった。泣いて縋りたかった。『こんなに悲しいことがあったの』といいたかった。甘えさせてほしかった。泣きたかった。でも永い間涙を堪えてきたから、人前では絶対泣かなかったから、泣けなかった。泣かなかったのではなく、泣けなかった。アイの身体はもう泣けなくなっていのだ。
まるで涙が『今まで自分を“恥ずべきもの”として扱ってきたのに手のひらを返すな』といっているように。今までひどい扱いをしてきたじゃないかと訴えるように。その時アイは気づいた。
自分はどこか自分が酷いことをされてきたのだと、“自分は“被害者”だときめて高を括っていた”のだと。父親に、母親に、周りの人たちに、殴られるたびに、蹴られるたびに、詰られるたびに、自分を“かわいそうな人間”だと思うことで自分を守ってきたのだと。そして、自分は決してそんなことをする側にはならないと決めていた。それをしないことが唯一の生きていてもいい理由だった。誰にも愛されない自分の唯一の。
でも自分は自分のかなしみに、涙に酷いことをしてきたのだ。親に『お前は見苦しいから、離れに一生隠れていろ』と、家に人が来るたびに言われていた。同じことをしていんだ。涙に。『お前は見苦しいから、人前では決して流れるな』と。何年も。自分はされてほんとうに苦しかったのに。自分がされてほんとうに嫌だったことだったのに。それをのうのうと自分のことを憐れみながら、していたのだ。だから泣けないのだ。泣く資格など自分にはないのだ。涙を大切にしてこなかったんだから。あっちにいけと追い返してきたのだから。
◇◆◇
「ぎゅー。アイちゃんは抱き心地がいいねぇ。こうやって抱きしめてさ。そうやって人は愛しさを分け合うんだよ?幸せな気持ちになってこない?」
幸せだった。あたたかかった。でも決してアイは抱きしめ返さなかった。その気持ちを認めなかった。だってそうすることに罪悪感があったから。もしここではるひのお母さんからの愛情を認めると、抱きしめ返してしまうと、お母様が悲しむ気がした。
そんなことはないと分かっているけど。でも、他人に抱きしめられて愛情感じているのが、申し訳なかった、お母様に。お母様に泣いて謝りたかった。認めると、お母様を裏切ってしまう気がした。お母様以外から愛情を受け取ってしまうことは、お母様の愛情を要らないと言ってしまうことのように思えた。だから、ほんとうに、ほんとうに抱きしめかえしたかったけど、与えてくれた分のお返しをしたかったけど、アイにはできなかった。
「……ありがとう、ございます。もう落ち着きました。すみませんでした。」
「いいんだよ?まだ小さい子供なんだしさ。それに子供じゃなくたって、大きな大人だって抱きしめられて泣いていいんだよ。だって人間なんだから。泣いちゃいけない人なんて、抱きしめられちゃいけなくなる年齢なんて、ないんだから。」
はるひの目は一部始終を醒めた目で眺めていた。それは“母を取られた嫉妬”からか、好きな人の哀しい姿をみたからか、それとも――。
「よしっじゃあお料理しよお料理!あっ、わたしが好きなのは“ブロンテ姉妹”でした!」
「『嵐が丘』『ジェイン・エア』ですね……!」
「おっ流石アイちゃん知ってるねー!元気も出てきたかな?じゃあまずは――」
◇◆◇
しばらくアイとひまりは仲睦まじく――まるで本当の母と息子のように――料理をした。そして、それをはるひは手の中の心を弄りながら眺めていた。彼女のこころは誰も知らない。
アイは幸せを感じそうになるたびにチクチクとお母様への罪悪感で胸が締め付けられるのだった。
◇◆◇
「できたー!」
「はい……!」
「いやーアイちゃんがここまで料理上手だとは思わなかったよ!すごく助けられちゃった!ありがとうね。」
――“助けられた”。
――“ありがとう”。
ずっとずっとお母様から欲しかった言葉だった。こんなに簡単に。……こんなにさらっと。
「い、いえ、薫陶を承り――」
「――アイちゃん!」
叱責されるかと思って身構えるアイ、どんなにここがやわらかい場所であっても、長年染みついた癖はそう簡単には剥がれ落ちてはくれない。
「また、堅苦しくなってる!ほら!」
「えっと、すっごくたのしかったです。……あ、ありがとう。」
「うんうん、こちらこそありがとうだよー。しめしめ……もう少しで敬語も無くせるなぁ。」
最後はアイに聞こえないように小声で、悪い顔を添えて発せられた。
◇◆◇
「ほら!はるひもみてみて!将来のこんなにかわいい旦那ちゃんが!は・る・ひ、のために!!はるひのためだけに!作ってくれたんだよ!ほらほらよく見て、なんかいってあげて!」
寝そべって何か暗い目で、アイの一挙手一投足を見つめていたはるひを引きずってくる。
「おかーさん!わかったから!ひっぱんないで!……えーとそうだね、私の大好物のハンバーグ、ほんとにおいしそうで……アイくん本当に料理上手だったんだね。貴族なのに自分で料理する人なんか春日家くらいだと思ってたよ。」
「ありがとうは!?本当に、“ありがとう言わない星人”だよこの子は!ほら!ありがとうは!『わたしに毎日オミソシルを作ってください』は!地獄ではプロポーズのときこう言うんだよ!おかーさん知ってる!『私のかわいい旦那ちゃんになって下さい』って!」
耳元で、でも決して小さくない声でまくし立てる。
「おかーさん!!うるさいうるさい!えっと、私のためにありがとう。わたしはお料理はからっきしだから……アイちゃんさえよければ、これから私に毎日オミソシル?がなにか分かんないけど……地獄の料理なのかな?
……私に“毎日オミソシルを作って”ください!
それで、私の“かわいい旦那ちゃん”になって下さい!!」
捨鉢になって腰を90度曲げて右手を前に突き出す。
「……あはは!うふふっあはっあはははは!」
アイがこらえきれなくなったように、鈴の音がコロコロ転がるように笑い出す。親と子でこんな気安いやりとりを見たのが初めてだったからだ。
「「あ、アイ……くん(ちゃん)?」」
「うふふっ!はい、『ふつつか者ですが、こちらこそよろしくおねがいします!』あはっ!」
「「…………。」」
不快感を与えないための笑みではなく、初めてのアイの日が昇ったような笑みに照らさせて、親子は全く同じリアクションでポカーンとしてしまう。しかし、考えていること、感じていることは真逆であった――。
◇◆◇
――アイちゃんってこんなふうに笑える子だったのね!本当にかわいくて、花が咲いたように咲う子だったんだ。かわいいなぁ。よしっ!このおうちにいる間にもっともっとアイちゃんを笑わせよう!大笑いさせてやろう!もっといろんなアイちゃんをみたいわっ!
――アイくんってこんなふうに笑える子だったんだ……。確かにかわいいけど、泣いた顔はもっともっと綺麗だった……。アイくんは本当は“かわいいじゃなくて綺麗”なのに。あの、世界でいちばんきれいな泣き顔がまた見たい。それか、あのかなしみをたたえた微笑を――。
◇◆◇
……それに、アイくんはさっきから自分の軽はずみな言動が私のおかーさんを傷つけているということに、気がついていないんだ……お金持ちだから、偉いから……。
――なんで好きなのに嫌いな気持ちになるんだろう?もしかして、嫌いだけど好きなのかな?どっちが私の“ほんとうのこころ”なんだろう?




