176. 愛の母、アイの番、iの―― Mother of Love, Ai's mate, i's――
「お、お母様ったら……そんな、ただの友達……いや、親友兼、番ですわ。それに……アイが……その、かわいいから、つい気になって……。」
公王様はくすくすと笑いながら、ラアルさまの頭を優しく撫でられた。
「わかってるわよ、ラアルちゃん。でも、アイちゃんをこんなに大事にしてくれるなんて、お母様は嬉しいの。アイちゃんも、ラアルちゃんにたくさん甘えていいんだからね。」
わたくしは二人のやり取りを見て、心がほのぼのと温かくなった。公王様のラアルさまへの愛情は、いつも溢れんばかりで、見ているだけで幸せな気持ちになる。
――エレクトラさまとわたくしの姿をそこに写してみるが、全くしっくりこない……はは、当たり前か……。
◇◆◇
「公王様、ラアルさまは本当に優しい方です。学園でも、わたくしが訓練で疲れていると、すぐに気づいてくださって……今日も、こうして甘いお菓子を用意してくださったり、本当に感謝しております。」
ラアルさまが、少し恥ずかしそうに微笑みながら、わたくしの手を取られた。その手の温もりに、わたくしは驚いて目を丸くした。
「アイ、そんなに感謝しなくていいのよ。あなたが学園で頑張ってる姿を見てるだけで、私……とても嬉しいんだから。毎日一緒にいられるのに、もっと話したいって思っちゃうの。」
その言葉の最後の部分が、少し震えていたように感じた。ラアルさまの瞳が、いつもより真剣で、わたくしをまっすぐに見つめている。わたくしは胸がどきどきして、言葉が詰まってしまった。公王様が、優しく微笑みながらおっしゃる。
「ほら、ラアルちゃん。アイちゃんが困ってるじゃない。もう少し控えめにしないと、アイちゃんが照れちゃうわよ。押してダメなら引いてみろってね!」
ラアルさまが慌てて手を離し、顔を真っ赤にされた。
「ご、ごめんなさい、アイ! つい、嬉しくて……。」
わたくしは首を振って、笑顔で答えた。
「いいえ、ラアルさま。わたくし、嬉しいです。ラアルさまにそう思っていただけて……わたくしも、ラアルさまと毎日一緒にいられるのが、とても幸せです。」
その言葉に、ラアルさまの瞳が一瞬、大きく見開かれた。そして、ゆっくりと、幸せそうな笑みが広がる。公王様が、満足げに紅茶をすすりながらおっしゃった。
「ふふ、二人とも本当に可愛いわね。アイちゃん、ラアルちゃんはね、あなたと知り合ってからから、毎日楽しそうに話すのよ。訓練の話も、授業の話も、全部アイちゃんのことばかり。」
「お母様! そんなこと言わないでください!」
ラアルさまが真っ赤になって抗議されるが、公王様は楽しそうに笑うだけだった。わたくしも、思わずくすくすと笑ってしまった。
「ラアルさま、そんなにわたくしの話を……わたくし、もっと頑張らなくてはなりませんね。」
ラアルさまが、慌てて首を振られた。
「そんなことないわ、アイ。あなたはいつだって素敵よ。学園の制服姿も、今日のドレスも……全部、似合ってる。世界でいちばんうつくしいわ……。」
公王様が、にこにことおっしゃる。
「そうよね、アイちゃんは本当に愛らしいわ。ラアルちゃんと同じくらい、私もアイちゃんが大好きよ。まるで、もう一人の娘ができたみたいで、嬉しいの。」
その言葉に、わたくしの胸がじんと熱くなった。公王様の優しさが、わたくしの心の奥まで染み渡る。ラアルさまも、そっとわたくしの手を握り直して、優しく微笑まれた。
三人で笑い合いながら、甘いお菓子を頰張り、紅茶を味わう。この穏やかな時間が、いつまでも続けばいいと、心から願った。
数日の滞在で、わたくしは自然に宮内を動き回った。私室の隣の書斎、会議室の近くの回廊。記録装置に、密会の声を収める。
「改革派を排除せねば……」
武器の隠し場所も、側近の不用意な言葉から突き止めた。すべてを記録し、写真に収める。
別れの時、ラアル王女はわたくしの手を強く握った。
「また早く来てね、アイ。あなたがいないと、寂しいわ。」
公王様もわたくしを抱きしめてくださった。
「そうよ〜!アイちゃんはもう私の娘みたいなものなんだから!」
わたくしは頷き、胸の痛みを隠した。
学校に戻り、カラコーゾフに証拠を渡す。彼の黒い瞳が満足げに細まる。
「よくやったな、サクラちゃん。王女の友人という立場が、こんなに役立つとはね。」
「これで、やっと……終わりますか。」
彼は首を振り、嘲るように笑った。
「いや、まだ始まったばかりだよ、サクラちゃん。」
わたくしの反発を、秋風が運び去る。ラアル王女の温かな手と、エゴおねえさまの微笑みが、心の中で交錯する。公の友情と秘めた絆の狭間で、天の川から垂れた蜘蛛の糸が、わたくしをさらに深く絡め取っていく。エゴおねえさま、待っていてください。
学校に戻ったわたくしは、寮の部屋で一人、ベッドに腰を下ろした。窓から差し込む夕陽が、記録装置を置いた机を赤く染めている。カラコーゾフに渡したのはコピー、――本物の証拠は、わたくしのドレスの内ポケットに、まだしっかりと隠してある。エレクトラ辺境伯への報告は、直接でなければ意味がない。カラコーゾフはただの伝令役に過ぎないと、わたくしは知っている。
胸の奥が、ずきりと痛む。ラアルさまの最後の言葉が、耳に残っている。『あなたがいないと、寂しいわ。』あの瞳の奥に浮かんだ、ほんのわずかな翳り。あれは、わたくしの任務を知らないからこその純粋な想いだった。それを裏切るような形で、わたくしは王宮の秘密を盗み出してきた。公の友人として迎え入れられた信頼を、利用してしまった。
――ごめんなさい、ラアルさま。
心の中で呟いても、罪悪感は消えない。公王様の温かな抱擁も、まるで実の娘のように可愛がってくださった言葉も、すべてがわたくしの胸を締めつける。ラアルさまが『お母様ったら』と恥ずかしがる姿、甘いマドレーヌをわたくしのために選んでくださった気遣い。あの応接室の柔らかな陽光の中で、三人で笑い合った時間が、今は遠い夢のように感じられる。
机の上の記録装置を手に取り、わたくしはそっと開いた。密会の声、武器の写真――これがパンドラ公国を揺るがす証拠になる。辺境伯派中の改革派と公王派の対立が、血を流す争いへと変わる前に、食い止められるかもしれない。エレクトラ辺境伯はそうおっしゃる。でも、わたくしには、それが本当に正しいのか、わからなくなっていた。彼女が本当にそう思っているのかすら。
ラアルさまは公王派の中心にいる。もしこの証拠が公王派の失脚を招けば、ラアルさまの立場も危うくなる。公王様の優しい笑顔も、もう見られなくなるかもしれない。あの穏やかなお茶の時間は、二度と戻らない。
指先が震える。装置を握りしめ、わたくしは目を閉じた。エゴおねえさまの顔が浮かぶ。あの中庭のベンチで、肩を寄せ合った夕暮れ。おねえさまは、わたくしに『どんな代償を払っても守る』とおっしゃった。でも今、わたくしは誰を守ればいいのか。ラアルさまを? エゴおねえさまを? それとも……パンドラ公国を?
部屋の扉が、軽くノックされた。驚いて振り返ると、窓から差し込む夕陽の中に、誰かの影が立っている。学園の規則で、夜間は外出禁止。こんな時間に訪ねてくる者など――。
「サクラちゃん、開けてくれよ。重要な話だ。」




