175. 失われた愛を求めて À la recherche du temps perdu
「エレクトラ辺境伯からの直接の命令だ。サクラちゃん、お前は公王派の本拠地である王宮へ行って、内部の動きを詳細に探り、証拠を掴んでこい。僕が伝令役さ。幸い、キミはラアル王女殿下の公の友人だろ? 王宮へはやすやすと入れる。
『王女殿下に会いに行く』という名目で正門から堂々と入ればいい。そこから奥へ自然に近づけるはずだ。」
最後の言葉に、からかいの色は薄れていた。わたくしは息を呑み、静かに立ち上がった。公に知られているのは、ラアルさまの「友人」という関係のみ。それ以上の深い絆――“番”の真実は、ラアルさまご本人とわたくし、そしてツエールカフィー公王殿下の三人だけが知る絶対の秘密。表向きの友人という立場が、今回、完璧な隠れ蓑になる。
「わかりました。でも、わたくしは小さくありません。決して、小さくありません。それと……エレクトラ辺境伯の命令であれば、従います。でも、先輩、わたくしをからかうのは、もうおやめください。」
彼は軽く手を振って笑ったが、鱗がきらりと光り、わたくしの心はすでに王宮の華やかな光とその裏の闇に囚われていた。夕陽が完全に沈み、庭は薄闇に包まれる。わたくしは寮へと急ぐ足を速めた。エゴおねえさまに、このことをどうお伝えしようか。いや、お伝えしない方がいいのかもしれない。胸の奥に、不安の種が静かに芽吹いていく。
◇◆◇
寮に戻り、部屋の柔らかな灯りに迎えられると、わたくしはベッドに腰を下ろし、窓の外の闇を見つめた。公の友人として、ラアルさまに会いに行く――それは何度も繰り返してきたこと。宮廷の誰もが微笑んで迎え入れ、衛兵は敬礼し、側近たちは自然にわたくしを通す。だが今度は、その信頼を裏切る形で証拠を探さねばならない。罪悪感が、胸の奥で静かに疼く。
夜が深まるにつれ、心は王宮への訪問を繰り返し描く。あの壮大な宮殿、金色に輝く大広間、厚い絨毯の奥に隠された秘密の回廊。今回は正門から堂々と。ラアルさまに謁見を申し込み、彼女と過ごす時間の中で、側近たちの会話に耳を澄まし、公王派の幹部が訪れる隙を窺う。
けれど、怖い。ラアルさまの優しい瞳に、わたくしの本心を隠さなければならない。彼女に嘘をつくような形になる。エゴおねえさまの温もりが、恋しくなる。あの中庭での会話が、胸を締めつける。
『一緒にいれば、何が来ても乗り越えられる』
――おねえさまの言葉が、わたくしの支え。でも、今は独りで王宮へ向かう。
翌朝、わたくしは正式な手続きを取った。王宮への訪問申請――ラアル王女に会うため。軍士官学校の生徒として、休暇を申請し、すぐに許可が下りた。カラコーゾフから受け取った小型の記録装置を、ドレスの内側に隠す。
王都へ向かう馬車の中で、わたくしは窓から流れる景色を眺めた。黒髪を丁寧に結い上げ、軍服ではなく上品なドレスを着て。王女の友人として、相応しい姿で。
王宮の正門に着くと、衛兵たちが笑顔で敬礼した。「王女殿下のお友達」と知られるわたくしは、特別な待遇を受ける。門をくぐり、大理石の廊下を進む。華やかなシャンデリア、壁に飾られた肖像画。すべてが懐かしく、しかし今は重い。
ラアルさまの私室に通されると、彼女は優雅に微笑んで迎えてくれた。金色の髪、透き通るような肌。わたくしの手を優しく取り、頰に軽く口づけを。
「アイ、久しぶりね。学業でお疲れでしょうに、わざわざ来てくれて嬉しいわ。」
「ふふっ、久しぶりって……一昨日も学園で会ったではないですか。」
「アイに会えないと一分でも久しぶりなの!」
わたくしは微笑みを返し、心の中で罪悪感を押し殺した。彼女との時間を過ごしながら、側近たちの会話に耳を傾け、公王派の幹部が訪れる隙を窺う。
王宮の東翼にある小さな応接室は、午後の陽光が柔らかく差し込み、暖かな空気に満ちていた。窓辺のテーブルには、紅茶の香りが立ち上り、焼き立てのマドレーヌとチョコレート菓子が並んでいる。
ラアルさまが自ら選んだ甘いものばかりだ。わたくしはソファに腰を下ろし、向かいに座るラアルさまと公王様を前に、少し緊張しながらも心を落ち着かせていた。
ラアルさまは、金色の髪を優雅に束ね、淡いブルーのドレスをまとっておられた。学園では制服姿ばかり見ていたので、こうして私服でお会いすると、いつもより少し大人びて見えて、わたくしはどきりと胸が高鳴る。彼女はカップを手に取り、優しい笑みを浮かべてわたくしを見つめた。
「アイ、今日は来てくれてありがとう。学園では毎日顔を合わせてるのに、こうして王宮でお茶するのって、なんだか新鮮よね。」
その声は、いつものように柔らかく、わたくしの心を優しく溶かす。わたくしは小さく頭を下げ、微笑み返した。
「ラアルさまこそ、お忙しいのに時間を割いてくださってありがとうございます。学園では授業や訓練でゆっくりお話しできないので、こうしてゆったりお茶できるのが、とても嬉しいです。」
隣に座っておられた公王様が、優雅に笑いながらお茶を注いでくださった。公王様はラアルさまによく似た金色の髪を緩やかに流し、深い紫のドレスをお召しだ。気品に満ちたお顔立ちは、年齢を感じさせず、まるで姉妹のようにお美しい。
「まあ、アイちゃんったら。遠慮しすぎよ。あなたはラアルちゃんの大切な番なんだから、いつ来ても大歓迎なのよ。ここはあなたの第二の家だと思って、くつろいでちょうだい。」
公王様の声は穏やかで、まるで包み込むような優しさがあった。わたくしは頰が熱くなるのを感じ、慌ててお辞儀をした。
「公王様、ありがとうございます。そんな風に言っていただけて、わたくし、とても幸せです。」
ラアルさまが、少し照れたように目を伏せながら、マドレーヌをわたくしの皿にそっと乗せてくださった。公王様がそれを掴んでわたくしの口に運んでくださる。
――マドレーヌ……あの日エレクトラさまが手ずから食べさせて下さった涙味のマドレーヌを今でも覚えている。あの時と同じような状況だ……。
「アイ、これ食べて。あなた、甘いものがお好きでしょう? 今日のマドレーヌはバニラを多めにして、あなたの好みに合わせてもらったの。学園の食堂のものより、ずっと美味しいはずよ。」
その気遣いに、わたくしの心がきゅっと締めつけられる。ラアルさまは学園でも、休み時間にわたくしの好きなチョコレートを分けてくださったりするけれど、こうして王宮でまで覚えていてくださるなんて。
「ラアルさま……ありがとうございます。こんなにしていただいて、わたくし、申し訳なくて……でも、とても嬉しいですわ。」
わたくしが一口かじると、バニラの甘い香りが口いっぱいに広がった。ラアルさまはわたくしの表情を見て、満足げに目を細められた。その瞳に、いつもより少し深い光が宿っているように感じて、わたくしは胸がどきどきした。公王様が、楽しそうに目を細めておっしゃる。
「ふふ、ラアルちゃんったら。アイちゃんのことになると、本当に熱心よね。学園の話を聞くたび、あなたがアイちゃんの話ばかりするから、私までアイちゃんがどんなに可愛いかよくわかってるわ。」
ラアルさまが慌てて頰を赤らめ、カップで顔を隠すようにした。
「お、お母様ったら……そんな、ただの友達……いや、親友兼、番ですわ。それに……アイが……その、かわいいから、つい気になって……。」
公王様はくすくすと笑いながら、ラアルさまの頭を優しく撫でられた。
「わかってるわよ、ラアルちゃん。でも、アイちゃんをこんなに大事にしてくれるなんて、お母様は嬉しいの。アイちゃんも、ラアルちゃんにたくさん甘えていいんだからね。」
わたくしは二人のやり取りを見て、心がほのぼのと温かくなった。公王様のラアルさまへの愛情は、いつも溢れんばかりで、見ているだけで幸せな気持ちになる。
――エレクトラさまとわたくしの姿をそこに写してみるが、全くしっくりこない……はは、当たり前か……。




