140. あいのはは Μητέρα της Αγάπης
「……おとうさまとエレクトラさま、そして“聖別の儀の相手”と相手方のお父様とお母様……そしてわたくしだけです。
わたくしが誰よりも愛するきょうだいたちにすら打ち明けていません。」
でも私には話してくれた……あぁ、また勘違いしそうになる。
……ん?……聖別の儀?
「……聖別の儀の相手で貴女がアニマ・アニマになったってことは……相手は獣神体か……“アニムス・アニムス”になったはず。」
「はい。」
「そして、貴女はいつもある者に怯えている。
……その娘は貴女に異常な執着をみせている。」
「……えぇ。」
パズルのピースがはまっていく。
そうか、だから――だからアイツは……!!
「――アイ……貴女の聖別の儀の相手は――」
……あぁ、頭の後ろに靄がかかったように嫌な気分だ。そうに決まっているのに、どうしても自分の推理が外れていて欲しいと願ってしまう。
「――ええ……春日春日ちゃんです。」
◆◆◆
アイが獣神体に絡みつく姿は、皮肉なことに、哀しいことに……実母の“娼婦”……サクラ・マグダレーナにとても良く似ていた――。
◆◆◆
「……なるほど、それで全て合点がいったわ。貴女に会ってから貴女しか……“貴女自身”しか見ていなかったから忘れていたけど。」
アイは私の“貴女自身”という言葉に気を良くした猫のように喉を鳴らした。かわいい。
「……私が出会う前の貴女に抱いていたイメージは……その、かなり……。」
周りに持て囃されて調子に乗った高慢ちきな子だと思っていた。
なにより、親友と……オトメアンのオルレと決別しなかった、成功した世界線の私のようで……気に食わなかった。
言い淀んだ私にアイは助け舟を出す。
「いいんですよ。“慣れっこ”です。
わたくしもラアルさまと同じ、国の中枢に生まれてしまった者です。
色眼鏡で見られたり、あることないこと言われたり……“こころ”ではなく“外見”ばかり見られることにも慣れてきました。
……この感覚はむしろラアルさまのほうがよくご存知ですよね?」
アイは“慣れた”とは言ったが決して“苦しくない”とは言わなかった。
私は倦怠を吐き出すようにため息をつきながら同意する。
「ええ、脈絡と文脈を無視して、私の発言の一つを切り取って、
『王女がこう言っているんだから、公王派は“全員が”こういう考えだ。』
だとか。私個人の発言の主語を勝手に大きくして吹聴されたり、恣意的な曲解を混ぜて喧伝されたり……。
でもいちばん面倒なのは、私の発言や行動……できないことを評われて、ツエールカフィー公王に迷惑をかけようとする者ね。
彼らは娘の私を使ってお母様を攻撃しようとするの……お母様の権威を失墜させようと。
例えば――
『公王の娘がこんな失敗をした、娘もまともに教育できない者に国の統治などできるものか。』とか、
『公王の娘が“公王の建てた”チグ神学校で問題を起こして転校したのは、母であるツエールカフィー公王とその政治思想を異にしているからだ。』
だとか……非道いものだと、
『ファンタジア王女殿下の心の射程距離が短いのは、彼女の心が狭いからだ、そして、心が狭いということは母である公王は“政治と宗教”にかまけて、自らの子へ“愛情”を注いでこなかったんだろう。』とかね。」
アイのうつくしい顔に罪悪の色が浮かぶ。きっと私が愚痴を零している辺境伯派の行いに、責任を感じてしまっているのだろう。
――なんでこころのうつくしい子が他人の罪にまで罪悪感を覚えて苦しみ、こころのみにくい者達は自分の罪悪さえ全て他責してのうのうと笑って生きていられるのだろう?
……非道いものだと自分の犯した罪を武勇伝のように誇らしげに語る人たちまでいる。
私はアイに罪悪を感じて欲しくはない。
でも私の言葉で彼女の肩から荷をおろす事は出来るのだろうか?
いや出来るかどうかではない。お母様がいつも言ってくれていたではないか。
『チグ神の祝福を人より多くは与えられた貴女は、人のために尽くしてほしいの。
……もちろん、貴女がしあわせな範囲でね?
だって貴女が悲しいとおかーさんだって悲しくなっちゃうんだから。』と。
私はアイを元気づけようと言葉を続ける。
「アイ……私が一番辛かったことは何だと思う?」
まずは自分の弱みを見せて、アイに胸襟を開いて貰わないと。
アイは少し逡巡したあとに、そのちいさな唇から言葉を零した。
「……自分のせいで、お母様にご迷惑がかかってしまうことですか?」
……なるほど、もしかしたらアイの一番つらいことはそうなのかしら?
「……そうね。それもあるわ。
……でも、もっとつらいのは……どれだけ私のせいでお母様が悪く言われしまっても……決してお母様は娘を……私を責めてくれないことよ。
お母様は私が悪いことをしたり、道を間違えそうになったら“叱って”はくれるわ。
でも私が失敗しちゃって自分を責めている時は……絶対に“叱って”くれないの。……それに“怒って”もくれないの。
私はお母様が家族に対して“叱った”ところは見てたことがあっても、“怒った”ところは見たことがないわ。……一度もよ……?
私が自分のせいでお母様の名誉を傷つけてしまって落ち込んでいると、お母様は決まってマドレーヌを自分で作ってお紅茶を持ってきてくれるの。
貴族が、それも公王が料理なんてヘンでしょう?でも……うれしいの。
私が落ち込んでる時は、決まって魔法のミルクティーをくれるの。いつもよりミルクたっぷり、ハチミツを垂らして、お砂糖も一つ多く。
そうして私の隣に座って……正面じゃなくていっつも隣なの……それで、ただ肩を抱き寄せて頭を撫でてくれる。何も言わないで。
……でも私がポツリポツリと話し始めたら絶対にちゃんと相槌を打って聞いてくれるの。うん、うんって……。」
アイの瞳に憧憬のような、悲しみのような色が映る。
しかしその表情は私が生涯で持ち得た言葉では形容できなかった。きっと私の矮小な人生では経験できない哀しみをそのちいさな背中に背負っているのだろう。
「……それで、公王様は話を聞いてくださって……それから?」
今のアイに私のしあわせな話を聞かせることは酷に思えたが、私はどうしても伝えたい。
私もアイと、“私とお母様のような関係”になりたいと。つらい時は寄り添って、しあわせな時は笑い合って……かなしい時は手をつないで。
「……お母様は言ってくださるの。
『……ラアルちゃん、悲しいのは悪いことじゃないのよ。』って。
『悲しみを押し殺すより、ちゃんと悲しめる人のほうが、きっと他人を優しく抱きしめられるから。』って……。」
そう言って、お母様は私の涙を拭ってくれた。
その手は、“政を動かす者”のものではなく、ただの“母”の手だった。
温かくて、柔らかくて……それに、少しミルクとハチミツの香りがしたの。」
アイは黙っていた。
静かに、胸の前で両手を組んで、まるで祈るように目を伏せていた。
長い黒髪が頬にかかり、わずかに震える唇の端から、ようやく言葉が落ちる。
「……ラアルさまのおかあさまは、とてもおやさしい方なんですね。
……きっと、“あい”を信じられる方なんだと思います。」
私は頷く。
「ええ。
……でも、それでも人は、“愛される自信”を失うときがあるのよ。」
アイははっとしたように顔を上げた。
その蒼玉の瞳がわずかに潤んで、揺れた。
「……親の望んだ性別になれなかったわたくしに……人間体のわたくしに、親の夢を叶えられないわたくしに……愛される価値はあるのでしょうか?
……そう思っていつも試してしまうんです。これを頑張れば愛してくれる。もっと役に立てば愛してくれるかも知れないって……。」
その告白は、ほとんど吐息のようだった。言葉を紡ぐたび、アイの小さな肩がかすかに震える。
私はそっと手を伸ばし、彼女の手を包み込む。冷たい。
――それでも、その冷たさごと抱きしめたかった。
「……大丈夫よ、アイ。
――もう、誰も貴女を“試さなくてもいい場所”に連れていくわ。
今度の林間学校が終わったら……アイを“私の家”に連れて行く。
貴女をお母様に紹介するわ……。
私の――」
――好きな娘だって。
「……大切な友達だって。」
その瞬間、アイの唇がわずかに動いた。
祈るように、願うように。
そして小さく、でも確かに、微笑んだ。
「そして、貴女を連れ出してみせるわ。この狭い狭い世界から――。」
私はアイに向けて手を差し出し……アイはおずおずと、しかし確かにその手を取ってくれた。
そのちいさな手で――。
◇◆◇
ラアルが目を覚まさないアイを前にこの出来事を思い出したのには理由があった。
ラアルは眠り続けるアイのチョーカーを外した。アイが人間体なら、獣神体の自分なら……この眠り姫を口吻一つで起こすことができるかもしれないと思ったからだ。




