136. 藍には王女がいる。 Indigo has the Royal Lady.
◇◆◇……視点切り替わり
◆◆◆……過去回想
「アイたん……キミはほんとうに無茶ばっかりして、困った教え子だよ……。
……キミは周りが騒ぎ立てるような救世主なんかじゃない……ただの人間だよ……。
ボクのおばあちゃんみたいにやさしくて……かわいくて……ただの、ただのかわいいかわいいボクの教え子さ……。
だから早く……目を覚まして……またボクに笑いかけてよ。いつもみたいに、『チェルせんせー!』って呼んで……駆け寄ってきてよ……いつもみたいに、仔犬みたいにさ……。」
ナウチチェルカはアイの手を取り自分の顔のタトゥーを、“探究者の証”を撫でさせる。
勿論眠っているアイには届かない。
◇◆◇
――そして、アイの二人の親友が、部屋を訪れる。
……アルタークとラアルが部屋に、アイの眠り続ける、愛しい人が眠り続けるその部屋に……訪れた――。
◇◆◇
「……アイちゃん……私たち、“いちばんの”親友だよね……?“私の声で”目を覚ましてよ、私のアイちゃんの“いちばんの”親友……アルターク、“アルちゃん”のさ。
いつもみたいに“アルちゃん”って笑いかけてよ。名前を呼んでよ……!
『アルちゃんはわたくしのいちばんの親友だよ!』
って……!……そう、言ってよ!ねぇ!!アイちゃん!!!」
アルタークは死人のように眠るアイに向けて、大きな声で騒ぎ立てる。ひどく自分善がりな大声で。
……勿論、眠っているアイには届かない。
◇◆◇
そのとき、アルタークの大声に呼応したように、病室の白いドアが横に開かれる。ひどくやさしく、音を立てないように。
「アイ・ミルヒシュトラーセは居る?」
ラアル自身でもはっきりとわかる、友情や親愛、心配……そして愛情などの綯い交ぜになった手で、ドアを小さな音を立てて閉めながら、ラアルはアイのいる病室に足を踏み入れる。
――こうして、辺境伯爵の息子と公王の娘、自己卑下の塊と自尊心の塊、自分を憎む者と自分を愛するもの、母に殺された子と母に愛された子、美しい黒髪と金髪、哀しみに満ちた眼と優しさに満ちた眼、サファイアの瞳とルビーの瞳、正反対の2人の人生は、しかし同じ様に踏み捨てられ重なる落ち葉のように、交わったのである。
……もう一度。
勿論眠っているアイには届かない。
◇◆◇
アイは夢をみていた。
ザミールが仲間に誘ってくれたこと。この世に自分を必要としてくれる人がいると、そう証明してくれた。
……プロポーズまでして。
そして、突然あることを思い出していた。
紅い夕焼けがリビングに射すように、あることがこころにフワリと浮かんだ。
ふわりと豊かな金髪の、ルビーの香りがしたからだ。
アイは少し前のことを思い出していた。
◆◆◆
「アイ・ミルヒシュトラーセは居る!?」
ラアル自身にもわからない、怒りや嫉妬、屈辱……そして羨望などの綯い交ぜになった手で、ドアを大きな音を立てて弾きながら、ラアルはアイのいる教室に足を踏み入れる。
「アイ・ミルヒシュトラーセはいるかしら!美しいこの私!ラアル・ツエールカフィーナ・フォン・ファンタジア様がわざわざ会いに来てあげたわよ!」
「高位の者が自ら下位の者に会いに来るという、普通は絶対にあり得ない僥倖を!分かっていないのかしら?これがどれだけ恵まれたことなのか!王族への礼を欠く気かしら?アイ・ミルヒシュトラーセ!!」
「あっ!あのっ!申し訳ありません!えっと、わたくしがっ!」
「アイちゃん様!しっー!いい子だからっ!静かにしてっ!絶対ヤバイって!」
◆◆◆
「……ラアル様……。何をしに来たんです……?」
アルタークの瞳は天の泪を吸い込んだ泥のように暗かった。
ラアルはその言葉をものともせずに、静寂を切り裂くように、確かな足取りで病室の中央へ入ってくる。
「……アイ・ミルヒシュトラーセはいるかしら。
美しいこの私……。
……ラアル・ツエールカフィーナ・フォン・ファンタジア様がわざわざ会いに来てあげたわよ。」
勿論眠っているアイには届かない。
ラアルはこの娘が自分の世界には必要だという、確かな足取りでアイの眠るそばによる。
――射す夕日の茜色が、病室を支配していた。
その茜色を切り裂くように、二つのルビーがアイのそばで開かれる。
「……まったく貴女って娘は……。
……高位の者が自ら下位の者に会いに来るという、普通は絶対にあり得ない僥倖を……。
……分かっていないのかしら?
これがどれだけ恵まれたことなのか……。
……王族への礼を欠く気かしら?
アイ・ミルヒシュトラーセ……!」
……勿論眠っているアイには届かない。
しかし、窓から風が入り込み、ふわりと純白のカーテンが踊るように揺れる。
死人のように、眠っていたアイの顔がひだまりに照らされる。きめ細かくうつくしい、白い肌が輝きをおびる。
ラアルが暗い岩戸の中に閉じ込められたサファイアを思い浮かべながら、やさしくアイの首についたチョーカーに触れる。
「……?……何を……?」
アルタークが不審がって声を出す。
◆◆◆
あの放課後。
アイへのはるひの行いをめぐって、ラアルとはるひが教室で諍いを起こしたあと、何故ラアルは再びはるひに決闘を挑まなかったのか?
アイがラアルを庇ってはるひに殴られたあと、アイとラアルが何を話したのか。ラアルがアイに何を伝えたのか。アイがラアルに何を伝えなかったのか。それは誰も知らない。
曰く、“ふたりのヒミツ”だったから、だ。
「アイ……何で、あんな娘を庇うの?庇ったの?……自分が、怪我までして。貴女は自分が春日春日に何をされたかまでは決して教えてくれないし……それもあの娘を慮ってのことなんでしょ?」
ラアルが頬を怪我をしたアイを椅子に座らせて、自身も向かい合って座り、愛の心で癒しながら聞く。
――教室には茜が射していた。
茜の中に、ルビーとサファイアが二つずつ、転がっていた。
「……それ、は……。」
アイは相手の信念に満ちたルビーの瞳の輝きが眩しすぎて、視界に収めるものを自分のスカートとその上でかたく握り込んだ両手だけにした。
そうして、こころをかたくして閉じこもった。
ラアルは決して無理やりアイに何があったか聞き出そうとはしなかった。
◆◆◆
教室で俯くわたくしの視界の端から白く輝くうつくしい手が伸びてくる。それはわたくしの両手の上に乗せられた。
そうして、人肌の温もりが伝わってくる。
愛しいものを触るように、とても、とてもやさしく撫でられ、両手を握り込まれる。ラアルさまの体温がわたくしの身体に伝わってくる。
……そうして、こころがぽかぽかあたたかくなる。
「……アイ。」
やさしい声がする。
それはおねえさまのようでもなく、エゴおねえさまのようにでもなく――
――太陽の光のようだった。
やわらかくて、眩しくて、触れても決して消え去ってしまわないと確信させてくれるほどに。
「……ラアル、さま。」
唇が震えた。
声にならない言葉をこぼすと、ラアルさまはただ静かに微笑んだ。
「無理に言わなくていいわよ。
……でもね、アイ。貴女が誰かの痛みを代わりに引き受けてしまうのは、きっと、貴女の“愛”のかたちなんだと思う。」
――愛。
その言葉が胸の奥に沈んでいく。
深く、静かに。
その沈みゆく先に、幼い日の、聖別の儀の日にみた、はるひちゃんの泣き顔が浮かんだ。
あの日――。
あの娘の目には、怯えと後悔と、それから……“助けて”があった。
だから、わたくしは、手を伸ばしてしまったのだ。
それがどんなに愚かで、どんなに痛い結末になるとわかっていても。
……そのせいでおかあさまに堕胎告知を下されると知っていても。
わたくしは――。
「……あの娘を、憎めなかったんです。」
アイは小さく呟いた。
その言葉が、教室の中で冬の光に溶けていった。
ラアルの指先が、そっとアイの手を包み直した。
逃げられないようにでもなく、縛るようにでもなく。
まるで、折れそうな羽根を支えるように。
「貴女は優しすぎる。
……でもね、優しさって、時々、残酷でもあるよよ……。」
ラアルの瞳の奥に、淡い痛みがあった。
それは、誰かを救おうとして、救えなかった人間の目だった。旧友を思い出しているかのような、そんな瞳。
「……ラアルさまは、知っているのですね。“優しさ”のせいで、誰かが傷つくことを。」
「……ええ、“前の学校で”思い知ったわ……。」
その瞬間、茜の光がふたりを包んだ。
机の上のルビーとサファイアが、夕陽に照らされて赤と青の輝きをこぼす。
――その輝きのどちらが、愛のものなのか。
それとも、痛みのものなのか。
まだ、わたくしにはわからなかった。
ただ、ラアルさまの掌の温もりだけが、確かにそこにあった。
冷たくなりかけた心の底を、やさしく灯すように。
この三連休(10/11-10/13)は毎日更新します。




