134. こころのこり Beginning of Love
「……うるせぇ。アイのクセにナマイキだ!」
ザミールが照れ隠しにアイの髪をぐしゃぐしゃと撫でつける。
「……おい……また、ぶっ飛ばしますよ?」
「くくっ……やってみろよ。
……先刻負けたのはどっちだったかな?くくくっ!」
◇◆◇
「まぁ……とにかく俺は此処からトンズラこかせてもらうぜ……ありがとうな。
エゴペー・ミルヒシュトラーセ……そして、俺の好敵手よ……!!」
ザミールが胸の中にいたアイを持ち上げ、地面において、お尻についた草をパッパと撫で払う。
アイにはエゴペーが同じ事をした。
「おう、さっさと逃げたほうがいい。おにさまはマジでパンドラ最強だからな。」
歩き出していたザミールがピタと止まり、振り返って戻ってきた。
「……?だからさっさと――」
「――アイ。
『人間体は決して殴らねぇ』が俺の信条だ。」
ザミールがかがみ込んでアイの耳元で、エゴペーに聞こえないようにひそひそ話をする。
「だが……俺はアニマ・アニマのお前の……それも顔に傷をつけた。もしそのせいで貰い手がいなくなっちまったら……責任は取る。……結婚しよう。」
「……?……!……??……!!……はぁ!?」
「おいっ!……声が大きいぞ、アイ。」
アイとザミールはお互いに顔を真っ赤にしながら小声でひそひそと言い合いをする。
「……いや、責任って!たしかにわたくしはブン殴られましたけど……!」ヒソヒソ
「だから、獣神体の俺には責任がある。知らなかったとはいえ、人間体の身体に傷をつけたんだ……。」ヒソヒソ
「いや!心の傷は時間が経てば全部消えるでしょう?愛の心ならもっと早く治せますし!」ヒソヒソ
「あぁ、まだ習ってねぇのか……心でつけられた傷でも治らねぇことがある。
俺のこの顔の傷を見ろ。これは心でつけられたモンだ……。
……これみたいに、“心的外傷”になったら、心の傷でも――」ヒソヒソ
「――というかいきなり結婚って!責任を取るって!そういうのはもっと段取りを――」
アイがさらに真っ赤になって大きな声を出してしまう。
……そのとき、小声で話す二人に、ちいさな、しかし確かな重みを含んだ声がした。
「――ねぇ、二人とも……?今、“結婚”がどうだとか、“責任をとる”だとか聞こえたんだけど……?」
アイとザミールがバッと振り返ると、黒い影を顔に射した笑顔のエゴペーがいた。
「……おねえ、さま?」
「……やべっ!」
アイの腕がグッと引き寄せられエゴペーに抱きしめられる。それと同時に、地面から伸びた肋骨の棘がザミールの顎に突きつけられる。
「わ!わー!おねえさま!お待ち下さい!」
必死で制止するアイの頭が優しく撫でられる。
「アイちゃんはいい子だから静かにしててね。
……ザミール・カマラード、貴女まさか……アイちゃんに手を出したの?
……発言には気をつけたほうがいいわ。
じゃないと貴女の首が飛ぶわよ。」
ザミールが両手を上げて答える。
「いや確かに手は出したが、そういう意味の手を出したじゃねぇ!」
「まだちいさいアイちゃんを……!この子は成人もしてないのよ……!!砂漠の黒死病……許すまじ……!!」
「だから!ヘンな意味で手はだしてねぇって!」
「――おねえさまおねえさまっ……!」
「アイちゃん?いい子だから今は静かにね。
あとでいっぱいかまってあげるからね?」
「ザミールとは戦いましたが、それ以外は特に何もありませんでしたよ、エゴおねえさまの勘違いです……!ただ一夜限りのカンケイというかっ!」
エゴペーの髪が怒りの心でワナワナと震える。
「一夜限り……?ザミール・カマラード……キサマァ……!!」
「だぁー!ちげえって!アイも言葉の意味わからねぇで使ってるだろ!!」
◇◆◇
ぷりぷりと怒っているエゴペーから少し離れて、ザミールとアイは会話していた。
「……すみません。ザミール……。」
「いや、オマエが謝ることじゃねぇよ。それに勘違いで人間体を殴ったのは事実だしな……。
俺はオマエに傷をつけちまった。だから、オマエにその気があれば――」
アイが背伸びしてザミールの唇に人差し指を当てる。
「――その話は今はなしです。それにどうせわたくしは――」
「……なんだよ?」
アイのサファイアの瞳が深淵に染まる。
「……いえ。いえ、なんでもありません。なにも。」
アイが哀そうに笑う。
「ザミール!」
「うん?」
今度は花の咲うように。
傷だらけで、でもとてもうつくしい、太陽にも負けない笑みで。
「気が向いたらいつか結婚してあげますよっ!」
「ハァ〜……ほんと〜っに!口が減らねぇなお前は。
……まぁ、とにかくアイ!」
ザミールが膝をついて、立っているアイと視線を合わせる。そしてアイの胸を、握った手の拳で触る。
「この先お前が誰を敵に回しても、この世にただ一人は味方がいるってことを……。
……俺がお前のダチだってことは忘れんなよ!」
そういうとザミールはアイに背を向けて、きらきらと輝く朝露の方へ歩き出す。
アイも知らぬ間に夜が明けていたようだ。
「ザミール!貴女もですよ!」
アイはザミールの背中に向かって言葉をかける。
「“”何を”、かは言わなくても分かりますね!」
ザミールは答えなかった。
だが前を向いたまま、右手をひらひらとふった。
二人にはそれだけで十分だった。
こころを分かち合った二人には……。
◇◆◇
「……で?アイちゃん?あの人と何があったの?
説明してくれる約束よね?」
エゴペーはアイを問い詰めようと抱きあげる。
「エゴ……おねえさま、それ、は……。」
アイの身体から急速に力が抜ける。
「アイちゃん!」
エゴペーが慌ててアイを愛の心で包み込みながら、その顔を覗き込むと、すぅすぅと寝息をたてていた。
「……びっ……くりしたぁ……。
……アイちゃん……よく頑張ったね……たった独りで。」
エゴペーがアイの顔にかかった前髪を指でどけると、赤ん坊のような顔ですやすやと眠る、あどけなくもうつくしい顔が現れる。
エゴペーは周りに誰もいないことを確認して、アイがしっかりと眠っていることを確認して……独りごちる。
「もし……私がこのまま死んだら、この呪いはアイちゃんが受け継ぐことになる……。
それだけはさせない、絶対にさせないわよ……エレクトラ……。」
◇◆◇
アイは夢を見ていた母の胎内にいる夢だ。それがエレクトラの胎内かサクラの物かは分からない。ただ……エレクトラのアイの心が注ぎ込まれるのを感じる。
――あぁ……あいは、産まれる前からおかあさまの愛の心を浴びていたのか……もしかして、だからあいは、おかあさまを――
……なら、もしかしておにいさまたちも――?
◇◆◇
ゲアーターは十二人の忠実なる騎士とアガ・ハナシュの仲間であろう大勢の者たちの前に、立ちはだかっていた。
ニヤニヤと余裕の笑みを浮かべながらゲアーターは話し出す。
「テメェらぁ……この文学界の“天なる父”と“母なる大地”をつなぎとめる物は何か知ってるかぁ……?」
ゲアーターが左手を掌を下にして前に突き出し、その上に握り込んだ右手を置く。
「ミルヒシュトラーセの天なるオイディプス様とエレクトラ様である大地を繋ぎ止めるのは――」
……天から大きな十二本の雷霆と無数の小さな落雷が降り注ぐ。
「――“雨”と“雷”さ。
……つまり、雨と雷だ。」
……話終わったゲアーターの前にはもう人はいなかった。……生きた人は一人も――。
ただ彼らの影だけが暗く地面にこびりついていた。逃げ惑いのたうち回ったであろう彼らの影が――。
「これは……“雷神エレクトラ”を怒らせた罰……。
そしてアイのお兄様の逆鱗に触れたのがオマエラの罪だ……。」
◇◆◇
……こうして、後に“マンソンジュ軍士官学校林間学校襲撃事件”と呼ばれるこの事件は幕を下ろした――
――多くの人々に、大きな変化をもたらして……。
ある者たちのこころには“友”を、
ある者のこころには“勇気”を、
ある者のこころには“変わらぬ信仰”を、
ある者のこころには“疑うことを覚えた信仰”を、
ある者のこころには“愛情の痛み”を、
ある者のこころには“変わらぬ愛情”を――
――そして……ある者のこころには“変わってしまった友情”を――。




