102. 不良少年とキリスト
「――“砂漠の黒死病”さんよぉ……!!」
体制側が勝手につけた蔑称で呼ばれたザミールも、瞳を黒く染めながら言う。
「……黙れ……差別主義者が……!!」
「今ならテメェへの憎しみで幾らでも心の込もった言葉が言えそうだぜぇ……これで終わらせてやる――」
ポツポツと音がした。何かが夜の闇のなかで暗い地面をさらに黒く染め上げていく。
……アイが言葉を天のように降らせる。
「――《黒い雨》――。」
◇◆◇
眼の前のアイ・ミルヒシュトラーセが話し出す。
「雨ってのぁ……おれが性別決まる前に初めて顕現させた大規模な心でよぉ……。それで、おれがこころをもつものだって判明したんだがよぉ……。
あの時と違って……世界を知っちまったおれぁ――
――もうクソみてぇにきたねぇ黒い雨しか降らせねぇのかもなぁ……?」
何が喋ってやがるが、取り敢えず全身を心で覆って黒い雨から身を守る。地面が溶けたり焼けたりする様子はねぇが、恐らく人体には影響があるんだろう……。
――いや、心で全身を守っても、もし吸い込んだらアウトだったらどうする?
気化した雨を吸い込んじまったら?
なら、さっさと決めるしかねぇ……!
◇◆◇
脚に心を溜めて、奴に突進する為に地面が蹴り飛ばす。するとアイ・ミルヒシュトラーセは、地面を右腕を振りかぶって殴りつけた。
するとやっと俺の間に、地面から土の壁がドォンドォン!!と縦に十枚ほど突き出してくる。構わずそれらをブッ壊しながら直線的に突き進む。
そう判断を下したのは、もう方向転換ができなかったというのと……先刻の戦り合いで分かったが、心の強度で言やぁ……俺のほうが遥かに強からだ。
――もっと言やぁ……さっさとこのクソ女の顔を……ジョンウのことを嫐り殺しにした、アイ・ミルヒシュトラーセの顔を、とにかくさっさとぶっ飛ばしたかっただけだ。
土の壁を九つ弾け飛ばしたところで、かなり勢いを殺された……心の硬度で遥かに優れてる俺が、だ。
「チッ……この“黒い雨”の効果か……!
ひどく地面が泥濘んでやがって腰が入らねぇし、身体がドンドン重くなってやがる……!!」
最後の1枚を左手で貫いてそのままクソ女の顔面を殴ろうとしたが、最後の1枚に阻まれて、俺の拳が丁度奴の顔の前で止まる。すると、突き破った土の壁の孔が狭まって、俺の腕をギチギチと締め付けやがる。
自分の眼前に敵の攻撃が迫っているというのに、奴は腫れ上がった顔で瞬き一つせずに言った。
「……惜しかったなぁ……?」
◇◆◇
奴は地面が叩きつけていた拳から、人差し指と中指だけを立てて、今度はそれを思い切り上に上に向かって弾く。
――すると地面から1つの岩の柱が突き出してくる――!
「……あ?……がっ!?」
顎に衝撃が走り、視界が揺れる、脳が揺れる。たまらず跪くと、顔面に心を纏った蹴りが飛んでくる。
……次来るとしたらぁ、そりゃあ顔だろうなぁ……!!全身に纏っていた心を顔に集中させていた俺は、その足を逆に思い切り頭突きしてぶち壊してやる。
「……あ?……ぐぁぁあ!?」
右足をやられ後ろに倒れ込んだアイ・ミルヒシュトラーセが左脚の心を爆発させ、後ろに飛んで距離を取ろうとする。しかし、それは飛んだと言うよりは、身体のいろんな箇所をぶつけながら、地面を転がると言う方が正しかった。
自分を自己愛の心で癒しながら考える。
――終わった。俺の勝ちだ。
ただ、疑問が残る……此奴はなんで、頑なに自分を癒さねぇ……?
――愛するものに生まれて、さぞ人を癒すのは得意だろう?
ミルヒシュトラーセ家に生まれて、さぞ恵まれてきたんだろう?
権力者のガキに生まれて、さぞ自分が大好きだろう?自己愛の塊だろう?
……なのに何故他の自己愛性人格障害みてぇに自分を癒しながら闘わねぇ?
人格に障害がねぇなら、なぜ人を嫐り殺しにして、死体を辱められる?
……!……まさか、此奴は――
……いやありえねぇ、そんなことは――
◇◆◇
「終わってみればあっさりだったなぁ……?
俺この通り無傷で、お前は満身創痍で……左手と右足の骨が粉々だ。
……アイ・ミルヒシュトラーセ、殺す前に聞いてやる。オマエが嬲り殺しにした俺の部下に詫びる気はあるか?
……お前が死体を――」
もう完全に勝負はついた。あとはコイツに、この地球人野郎に……!!
「――何をぶつくさくっちゃべってやがる?
確かにおれぁ左手が潰れちまって、右足もほらこの通り……お陀仏だ……。
……でも――
――だからなんだ?」
アイ・ミルヒシュトラーセが、泥だらけで倒れた体勢から、土にまみれて蹲り、砂にまみれた顔で跪いた。
そして、ボロボロに腫れ上がった顔で、先刻まで倒れていた、しかし決して斃れていない青いサファイアのようなギラついた瞳で此方を睨見つける。
◇◆◇
「反政府組織のリーダー……砂漠の黒死病っていやぁ、バカみてぇに強くて、超危険人物だってのぁミルヒシュトラーセ家なら誰でも知ってる。
それに比べておれぁ……?おれはなんだ?
おれはゴミみてぇな人間で、いや人間にすらなかった糞で、自分を殺したいほど憎んでるから、愛するもののクセにこんな傷の一つも癒せねぇ糞カス野郎だ。
そんなの生まれたときから知ってる……。
そんななの産まれたときから知ってる!!
だからなんなんだよ……!!
おれみてぇな人間失格者が、テメェみてぇな“人間様”には勝てねぇことぐらい……!
この世の誰よりも生きる価値がねぇおれが、上司の夢を笑われたらブチ切れるほど……ソンジュっつったかぁ……!?
……あんないい部下に慕われてるオマエに……!
勝てねぇことぐらい……生まれたときから勝てねぇことぐれぇ、知ってんだよ!!
こちとらァ……とっくに承知で生きてんだよ!!」
――俺がいい部下に恵まれてる?
此奴はソンジュのことをいい部下と思っている?
この世で一番生きる価値のないゴミ?
そう自分のことを思っている?
差別をすることと民草を苦しめるのが生き甲斐のミルヒシュトラーセの奴が……?
「……だがなぁ……!
勝てる相手にだけ立ち向かうのが“勇気”か……!?
安全圏から石を投げんのが勇気かよ!?
……違う、違う違う!!
そんなものが“人間”であっていいはずがない!!
人間ってのはァ……おれがガキの頃憧れた地獄文学のなかの人間ってのはもっと美しかった!!
地獄哲学ってのぁ……もっと輝きをおびていた筈だ!!
それは人間がほんとうに“人間的に”なった時に放たれる閃光!!」
◇◆◇
何故だ?
なんで俺は今、ハナシュの……伝え聞いた部下の言葉より、眼の前の敵の生き様に圧倒されている……?
アイ・ミルヒシュトラーセは華奢な体躯で、怪我だらけと身体で、傷だらけの心で……無理やり立ち上がる。
「絶対に勝てない俺に、自分でも闘やぁ死ぬしかねぇと分かってるオレに……なんでオマエはそれでも挑んでくる?
……なんで何度ぶっ飛ばしても立ち上がる……?」
アイ・ミルヒシュトラーセは、研ぎ澄まされた刃のように一閃、閃いて夜の闇を切り裂く言葉を放つ。
「おれが……自分の事を人間だと思いてぇからだ……!!」
俺には……その言葉が暮れなずむ空の残光のように光った。口から自然と言葉が溢れた。泪のように溢れた。それは初めて泣いた日の少年の日の思い出のような泪だった。
「絶対に勝てねぇと分かっていて、なぜ俺に、人生に……オマエは勝とうとする?
なんの“信仰”がそうさせる?
どんな“死の哲学”がオマエを立ち上がらせる……?」
「おれぁ地獄のドストエフスキーみてぇに自分でキリストを拵える気はねぇ……自分自身が救世主になる気もない。
――ただ……ただ、“人間”でいたいんだ……!」
アイ・ミルヒシュトラーセは立っているのもやっとだろうに、揺ら揺らと陽炎のように揺れながら、両腕を無理やり上げて、ファイティングポーズを取る。
まるで、
「おれはまだ死んじゃあいねぇぞ!!」
と叫ぶように。
折れた左腕には心を通して無理やり動かしてるらしい……そんな事をすりゃあ泣き叫びたいほどの激痛が襲ってるはずだ。
◇◆◇
「……生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはしねぇ。あれは、オモチャだ。
然し、生きていると、疲れるなぁ。かく言うおれも、時に、無に帰そうと思う時が、あるぜ。
戦いぬく、言うは易く、クソみてぇに疲れる。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくぜ。そして、戦う。決して、負けねぇ。
負けねぇとは、戦う、ということだ。
それ以外に、勝負など、ありやしねぇ。戦っていれば、負けはしない。決して、勝てはしねぇ。人間は、決して、勝ちはしない。たゞ、負けねぇんだよ。
勝とうなんて、思っちゃ、いねぇんだよ。勝てる筈が、ねぇだろうが。
誰に、何者に、勝つつもりなんだ。」
……なぜ今、アイ・ミルヒシュトラーセの“ことば”を聞いて、俺の“ことば”は溢れる?
「……アイ・ミルヒシュトラーセ……オマエは――」
……なぜ今、此奴の“こころ”をみて、俺の“こころ”は踊っている?
「――おれは勝ちたいんじゃない、負けたくないんだ。
……敵を打ち滅ぼしたいんじゃあねぇ、自分が正しかったと証明したいんだ――。」




