89. 障害者は人間か? Are disabled people human?
「チェルせんせー!」
アイは暇があれば学園内のナウチチェルカの研究室に入り浸るようになっていた。
そうしていると、委員会で帰るのが遅くなりがちなシュベスターや、しらぬいと一緒に帰られるからというのもある……
が……一番の理由は単純にナウチチェルカのことが好きだったからだ。
◇◆◇
「おや、アイたんじゃあないか、今日はどうしたんだい?」
ナウチチェルカもそれがうれしいようで、アイが来るやいなやすぐに繙いていた地獄本をパタンと閉じて、身体を相手の方へ向け聴く体勢に入る。
普段なら文献に目を向けながら空返事をしているであろうあのナウチチェルカが、である。
「今日もご迷惑でなければ、お話をと。」
「いいね、いいね。正直アイたんほど地獄の学問に明るい人は大人でも少ないから、とても楽しいよ。
アイたんと話す時間は……モノクロの日々のなかに色を与えてくれるのさ。退屈な本に彩りを添える鮮やかな栞みたいなもんさぁ……。」
足を広げ膝の間をポンポンと叩きながら、ナウチチェルカが伝える。そこがアイの定位置なのだった。そうして、座ったアイを自分の白衣やローブでいつも包み込んで、頭にあごを乗せるのがナウチチェルカは好きだった。
◇◆◇
「おっ……今日は男性体なんだねぃ……。」
「はい、なんとなく……気分で。」
「アイたんも珍しいよねぇ……両性具有者社会だと……公の場ではどちらか一方の姿しか見せないらしいよ?
両性の姿を見せるのは、家族や恋人の前だけだって。」
「そう、らしいですねぇ……。
……なんでなんでしょうか?」
アイのちいさな両の手を、細い指先で包みながら答える。
「まぁ……自分の全部……というか“ほんとうの姿”を見せるのはやっぱり気を許した人じゃないと嫌なんじゃあないかな。」
「なる……ほど?」
「あとは……。」
頬と頬を合わせてニヤリと笑いながら、イタズラっぽく言葉を続けるナウチチェルカ。
彼女のこんな顔を見たのは学園始まって以来、アイだけだろう。
「……悪い事……言っちゃえば、犯罪がしやすいからね。」
なすがままにされていたアイの身体が少し強張る。
「はんざい……ですか?」
「あぁ、例えばどっちでもいいんだけど、夜な夜な女性体で人を殺してまわって、指名手配されたら……昼はのうのうと男性体で他人のふりをするとか。」
「そんな……。」
「それか……その逆をするかだね。例えば夜は男性体で身体を売って、昼は女性体でどっかの組織の重役についてるとかね。」
「……確かに、はるひくんも男性体と女性体で髪色や瞳の色など似ているところはあっても……体格は全然違いますしね……。
彼が両性具有者だと知っていなければ、わたくしも同一人物だと気が付かないかも知れません……。」
春日春日の名前を口にしたときに、アイの身体がかすかに震えたのをナウチチェルカは感じ取った。
「……アイたんぐらいじゃない?
両性で全然見た目が変わらないの。もちろんの骨格や胸は男性体と女性体で全然違うけど、顔はほぼ一緒だし……。」
「ふふっ……じゃあわたくしは、悪いことはできませんね?」
「ふふふ……そうだね。まぁ、ボクの生徒が悪い道に走ろうとしたら、体を張ってでも止めてみせるから安心してグレなさいな〜。」
「グレる……ですか。そんなことをしたらいよいよ、おかあ……エレクトラ様に文字通り殺されてしまいますね。」
アイが口に手を当ててなんてことのないように笑い飛ばす。
「おぅ……急にヘビーだねぇ。」
◇◆◇
「でも……そう考えると不良になったり、グレたりできる人は、何をしても親は自分を見捨てないという確信があるから、そういう行動に出られるのかもしれませんねぇ……。」
遠くを見つめてアイが言う。ここではない何処かを見ているようだ。
「……春日春日くんとか?」
その名前を出すと、またアイの身体が震えたので熱を分けふようによりぎゅっと抱きしめる。
「はるひくん……ですか。そうかもしれませんね。はるひくんは……ひまりさんとしゅんじつさんに甘えているんでしょうか?」
「まぁ、先生の立場から言わせてもらうと、素行不良になるタイプの生徒は、親の気を引きたいんだよね。
『もっと僕をみてほしいとか。』
『怒られるのでも、無視されるよりはマシ。』
『どうせ好かれないなら、とことん嫌われて相手の心に残りたい』
とか考えているのが多いかな。まぁ、本人たちにそんな自覚はなくて、現状への不満を周りの人間にぶつけてるだけなんだけどね〜。」
アイは得心がいったような、でも何か1つだけ納得いかないことがあるように呟いた。
「……親に憎まれるほうが……無関心でいられるよりマシ……?」
「アイたん?」
「……。……あぁ……いや……なんでもないです……。すみません……。」
◇◆◇
「それで、今日は何について議論しようか?」
「え~と、この前は地獄哲学の効用について、その前は地獄文学の変遷について、さらに前は形而上学的命題の実用性について……。」
「ふむ、そうだねぇ……いつもかなり広範な範囲について議論しているから、今日のテーマはもう少しとミクロな視点のものにしてみようか……。」
「いいですね!……それじゃあ……どうしましょうか?」
徐ろに、とてもゆったりとした動きでアイの脇をつかんで、猫のように持ち上げた。そして、ホワイトボードの前まで歩いていく。
「アイたんや……今から言うことを書いていってくれるかい?」
「……?……はい!」
アイは持ち上げられたままペンを取り、キャップを外して準備をする。
「こころを……」
「こ、こ、ろ、を。」
一文字ずつ口に出しながら書いていく。
「亡くした……」
「亡、く、し、た。」
おばあちゃんと子ども、若しくは年の離れたお姉ちゃんと弟のようだった。
「……人は、人間と……呼べるのか……だね。」
「ひと、は、にんげ――と、呼べるの、か。
……なかなか興味深いテーマですね。」
「ふふ……だろう?
答えのない問いこそ、学究の求めるものだからね。」
アイを抱えたまま、ナウチチェルカが言う。
「アイたんはどっちだと思う?
『こころを亡くした人は、人間と呼べるのか。』
という命題について。」
アイがまたキュポンとペンの蓋を取り、ナウチチェルカに問う。
「まずは条件を整理しましょう。
ここでいう、『こころを亡くした』とは、非人間的な……つまり、“ひどい人間”のことですか?
それとも、心による攻撃、若しくは心を使い切って、“こころを亡くした人”のことですか?」
アイが“人道 or 心?”と書く。
「……いい問いだ。
……ここでは後者としよう。」
アイが“人道”にバツをつけて消す。
◇◆◇
「……心で相手の“こころを殺す”方法を、この前教えたね?
……ちゃんと理解出来きているか……一度……自分自身の言葉で、説明してみてくれるかい?」
アイをストンと下ろして、問う。
「そうですね……。
まず……相手の“脳髄もしくは心の臓を心で完膚なきまでに潰す”こと。」
アイは板書をしながら、自分の考えをまとめていく。
「……そして――?」
「――そして、相手の“こころを完全に挫くような事”をする。
これは、“相手の大切な人を殺す”。“大切にしているものを壊す”。“生き甲斐を奪う”……などでもできます。
しかし、前者のやり方と違って相手の心の拠り所が何処にあるかを探し出すのは、大変難しいことなので、政治的争い……政争ではこの方法も取られますが……結局戦争では直接相手の身体を破壊する方法が殆どです。
……そして、それをされた相手は――
――死にはしませんが……“こころを亡い”ます。
つまり、感情を持たない人間になる……。」
◇◆◇
「そうだね。
働きかければ一定の反応はするが能動的には何もせず……“ただ生命維持に必要な活動をする人間”になるか。
若しくは“植物人間”になるか。
……それとも……一生ベットの上から起き上がれない――
――地獄でいうところの、
……“鬱状態”の人間になる。」




