75. 人間の条件 Vita activa oder vom tätigen Leben
「……いや、そうしゃなくて、別の問題が。いや、問題というよりむしろうれしいんだけどっ!
……っじゃなくて!」
「……?」
――奥でアイちゃんへの恋心を見透かしたように『クククッ』っとジョンウが笑うのが聞こえた。
彼奴……やっぱり、ぶっ飛ばしてもらえばよかった。
◇◆◇
アイちゃんが小さな手で僕の無骨な手を握って、愛情を直接渡してくれる。
愛の心に包まれていた先刻よりも、ふわりと和らいだ羽のように、より気持ちが軽くなる。母鳥の羽に包まれて“あんしんな気持ち”で寝るひな鳥になった気分だ。
安心すると、先刻まで何処かに追いやっていた恐怖が歩いて帰ってくる。ポロポロと涙を流してしまう。戦っていたときの強がりの殻が剥がれて、ポロポロと落ちていく。
アイちゃんはやさしく、ほんとうにやさしくそっと僕の頭をその胸に抱いた。そしてお母さんが小さな頃にそうしてくていたように、背中を心臓の鼓動でポンポンと柔らかに叩く。
顔で感じるアイちゃんの脈動と、胸で感じる自分の鼓動、そして背中に触れるひだまりのちいさな手のリズム。お母さんの腕のなかでまだ何もこわからずに気がついたら寝ていた頃の時分を思い出した。その頃の自分に戻った心持ちだった。
気がつけばわんわんとないていた。その僕よりもずっとずっと華奢でちいさな背中に縋り付いて、力いっぱい抱きしめて、アイちゃんはきっと痛かっただろう。でも何も言わずにずっと抱きしめてくれた。
◇◆◇
暫くして、僕が落ち着くまでまってくれたのか、“こころ”のこもった“ことば”をかけてくれる。
「よしよし……よくがんばったね……クレくん。こわかったね。痛かったね。
でももうあんしんだからね?わたくしのが居るからね。だいじょうぶ、だいじょうぶ。
……かっこよかったよ?」
そう言いながらずっと背中をトントンと叩いてぎゅうと包みこんでくれる。過去の事ように話して今はもう大丈夫だと、できるだけ僕を安心させようとしてくれている。
「かっこよくなんてないよ……。
そこに居るジョンウにも勝てなかったし、あの女には手も足も出なかったし……それにボロボロ泣いて戦ってたんだ。」
「……でも戦ったでしょう?」
「……たたかった……。」
「ここに来る途中に逃げてきたクラスメイトから聞きましたよ。
『クレジェンテが自分から、敵を引きつけると言った。」って。」
「でもそれは……!」
「泣いてるのからってカッコ悪いとは思わないよ。わたくしにはもう泪は流せないけど、でもだからこそその大切さが分かってるつもり。
もし涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになっても、その人をわたくしは愚者だとは思わないよ。みっともないとも思わない。
むしろすっごくかっこいいと思うよ。だってそんなにこわいのに立ち向かったんだから。むしろもっともっとすごいことだよ?」
桜の樹のしたから、空を見上げて花の隙間から差し込む木洩れ日のような言葉だった。
「でも……結局アイちゃんに助けてもらった。
……あのときに、トイレであんなに怒りをぶつけたのに、『二度と僕に話しかけるな。』って罵倒したのに……助けてもらうことしかできなかった。
僕はほんとうは……最初から自分が負けると思って戦ってたんだ。時間稼ぎができたらいいなって。
……アイちゃんは僕の100倍つよいよ……。
……かっこいいよ。」
自分の口に人差し指をつけて、アイちゃんが少し考えたあとに言う。
「うーん……じゃあクレくんは、わたくしの100倍勇気があるってことだね!」
悪戯っぽく咲う。
「へ……?」
「だってそうでしょ?
クレくんはわたくしと同じ相手に立ち向かったんだよ?クレくんよりも100倍もつよいわたくしと。わたくしが何とか斃したあの人に立ち向かったんだよ?じゃあ、あの人もクレくんより100倍は強いってこになるよねぇ……?
わたくしは勝てる相手に立ち向かっただけなの。でもクレくんは自分よりも100倍も強い相手に立ち向かったんだよ?それも最初から勝てないと思っていたのに。
ということは、クレくんはわたくしの100倍勇気があるということになります!
はいっ!かんぺきな理論です!ふふーんっ!」
お道化て僕を元気づけようとする。見上げれば木洩れ日が差すということは、その桜はもう満開ではなく……自身も散り往っているはずなのに。
自分もこわかったはずなのに。
「……アイ……ちゃん。きみは……。
……!?」
不意に顔を寄せられてドキッとする。口を僕の耳に近づけて話す。どうやらこしょこしょ話がしたかったらしい。2人しかいないのに。右頬にサラサラな髪とモチモチなほっぺが当たってドギマギする。いい匂いだってするし。
……内容入ってくるかなぁ……?
「あの女の人には『絶対に勝てない相手』みたいに言ったけど、実はわたくし、あの人に勝てると思ってたんだ。あの人より強いってね。」
――これはきっと地獄本で読んだ“やさしい嘘”というものだろう。
「……だから、勝てると分かってた相手とだけ戦ったわたくしよりも、勝てないと知ってた相手に立ち向かったクレくんのほうが……」
あぁ、教室の揺れるカーテンの横の席で話したときに戻ったみたいだ。心地よい風の吹く、あの午睡の微睡みのなかへ――。
「……100倍、かっこいいよ。」
「……ありがとう。
……そのことばで僕のこころは救われるよ……。」
今度は小動物のように頬を擦り付けながら伝えてくれる。
「……どうか、クレくんは……そのままでいてね?
そのままで、ありのままの……クレくんが、当たり前の事のように人のしあわせを願える貴方が、わたくしは大好きだから。
でも、無理だけはしないで……どうか死なないでね……。この“残酷な世界”からわたくしよりもずっとずっと“生きる価値のあるやさしい人”が居なくなるのは、とってもかなしいことだから。」
おそるおそる、アイちゃんの体に触れる。やさしく、今にも散ってしまいそうな儚さごと抱きしめる。
「アイちゃんもね……そのままで、かわいい……。ありのままでやさしい、当たり前の事のように人のしあわせを願える貴女が、僕は大好きだから……。」
アイちゃんははにかみながら、でも少し泣きそうに、伝う。
「……ありが、とう……。今までずっと人に好かれたくて、おかあさまに愛されたくて……。
……自分を嫌って、他人になろうと頑張ってきたけど。
“ありのまま”、かぁ……。なんだか、泣きそうなくらい……うれしいねぇ……。」
◇◆◇
「クレくんの傷もある程度治せたみたいだし……わたくしは行くね……。……往かなくちゃならない。ラアルさまをお守りしに、彼女はまだ転校してきたばかりで、殆ど戦闘訓練を受けてないから。
――わたくしの友達だから。」
アイは『この国の王女だから』とは言わなかった。
「うん。頑張ってねアイちゃん。僕はもう少し自分を心で癒して戦線復帰できるようになったら追いかけるよ。」
「……うん。でもほんとうに無理はしないでね?クレく……!?
あっ!ごめんなさいっ!わたくし先刻からずっと前みたいにクレくんって!ごめんねカタルシスさ――」
「――クレくんでいいよ、獣神体至上主義委員会のことも、何か理由があるんでしょ?」
「……それは……ちがうよ、わたくしが、悪い人間だから、悪いことをしてるだけ……。」
「悪い人間は自分が差別してることを、“悪いこと”、なんて言わないよ。むしろ差別してることを誇らしげに自慢したりするんだから。」
「……それは……!」
「いいよ。今は何も聞かない。ファンタジア王女殿下のところに行ってあげて。」
「うん。行ってくるね……。」
アイが振り返ると、ハナシュが姿を消していた。
「……!?あの女の人がいない……!」
「……!!」
ずっと蚊帳の外だったジョンウが言う。
「安心してください。彼女のこころは貴女によって粉砕されました。まだ習ってないかも知れませんが……そうなると暫くは心を使えません。
彼女が自分のこころをすぐに癒せる“ナルシシスト”……他人は癒せない、自分だけの“愛するものー”だった場合は別ですが。
しかしおそらく彼女の性格を考えると仲間をみんな見捨てて我先にと敗走したのでしょう。」
「……クレくん。この人の言う事、信じる……?」
「……うん。」
「……ふぅ……クレくんが信じるなら分かったよ……。
……行ってくるね。」
◇◆◇
アイが去ったあと、クレジェンテは自分を心で癒しながら、ジョンウの横に座り込む。
「そんなに近くに来てもいいんですか?不意を打って殺されるかもしれませんよ?」
「貴方はもう動けないだろう?それに汚い手を使うやつは敵にそんなアドバイスはしない。」
「なるほど……そうですかそうですか、
……それで?」
「……?“それで”、とは?」
「あの子との馴れ初めは?
どこが好きなんです?
いつから好きになったんです?
もう付き合ってるんです?
まだならいつ告白するんですか?」
「………………うるさい。」




