67. その名の意味はーー“愛に感謝する” Ἰούδας ὁ Ἰσκαριώτης
其処にいたのは、敵でも……かげろうでもはるひくんでも、ラアルさまでもなくて――
――イダくんだった。
◇◆◇
夜の薄暗闇のなかを、わたくしが開いたドアから漏れる微かな光を受けて立っている。暗くて最初は彼だと分からなかったほどだ。イダくんとかげろうは似ても似つかないのに、何故だか、かげろうだと勘違いしそうになった。暗さがそうさせたんだろうか?
ただ黙って淡い光のなかを立っているので、強い日差しの下の陽炎の様にユラユラと消えてしまいそうだった。彼がいるのは太陽のもとではなく、闇のなかだったが。
……闇に揺れる陽炎のように見えた。
「……どうしたの?こんな夜更けに……。……?イダくん……?」
うんともすんとも言わない。告解室で罪の告白を躊躇う信者のように黙り込んでいる。手を握って、顔をのぞき込んだ。
◇◆◇
其処には深淵があった。純黒の深淵が。彼の顔は真っ黒で、顔に穴が空いているのかと思った。しかし、むしろ彼の顔には宇宙が広がっているようにも見えた。
わたくしがその深淵を見つめていると、彼もわたくしを見ているような気がした。
彼は“神を見た犬”のようにも、
“情熱の兄と愛の弟を持つカラマーゾフの無神論者”のようにも思われた。
「……イダくん。わたくしとお話しを……“対話”をしませんか?」
しゅんじつさんのように対話をすれば、彼の顔にこびりつく深淵の正体が分かるかもしれない。
「……アイ様、そのような時間はありません。」
「時間が、ない?」
「我々には時間は残されていないのです。時は風とともに去って二度とは帰らない。……逃げましょう、アイ様。僕と2人で、2人独りで……!」
彼の深淵がうねうねと揺らいでいる。感情の昂ぶりに呼応しているようだ。
「……逃げるって、何から……?」
「この世界です。この文学界から……!!」
一步後ずさる。世界?……余りにも大仰だ。
「なんで?何故世界から目を背け、逃げ出す必要があるの?」
「この世界は歪められているからです……!捻れているのです!元々世界はこんなじゃなかった!!文学界は平和で、人間たちは宇宙の子として自然と調和していたんです。此処には悪意はあっても、厭味はなかった!!」
厭味?……掴まれた肩が痛い。
「――落ち着いて、イダくん!いったい何を――」
「もくすぐ此処は地獄とかします!敵の軍勢は迫っています!すぐ其処まで迫っています!だから!早く僕とアイ様の2人独りで逃げまし――」
……何かが燃える匂いがする。何かが焦げるような。そうだ!心を配――
全てが爆発する。周りの空間全てが。全てが――。
◇◆◇
咄嗟にイダくんに抱きついて心で覆うのが精一杯だった。あつい、いたい、くるしい。でも、そんなことよりも――
「アルちゃん!!!」
焦げ燃えて煙のなかに横たわる部屋のなかに、焼け焦げたドアを心でぶち壊しながら入る。
「アルちゃん!アルターク!!無事!?アルちゃん!!」
煙を掻き分けて叫ぶ、炎で喉が焼けるがどうでもいい。
――アルちゃんが、倒れている。
「アルちゃん!アルちゃん!返事をして!」
掻き抱いて、抱き起こす。火傷を負っている。
「……ア゙……ア゙イ゙、ちゃん……。」
「!……アルちゃん!今治すから!」
急いで全身を愛で包み込む。アルちゃん、アルちゃん――!
◇◆◇
誰かが肩にふれる。咄嗟に攻撃しようとして気がつく。
「……イダくん。」
「アイ様!此処は危険です。いつ寮舎崩れ落ちるかもしれません。急いで離れましょう!」
「……でも、アルちゃんが……。」
「危険が迫っているのは、貴方です!今は他の者は捨て置いて、僕と――!」
「嫌。絶対に。わたくしは友達を置いて逃げたりなんかしない。そんなのは人間じゃない。」
此れがわたくしがあの問いに出した答えだ。此れを無くせばもうわたくしをわたくしたらしめる物はこの世に無くなってしまう。イダくんは少し逡巡して、直ぐに答えた。
「分かりました。その者は僕が運びます。アイ様の力では無理です。とにかく一緒に此処から逃げましょう!」
「……うん……!」
◇◆◇
わたくしの愛に包まれたアルちゃんを背負ったイダくんと、寮舎から走り出る。火、火、火、煙、辺りは地獄絵図だった。もう真夜中なのに、地を食らう焔のせいで、煌々と空が照らされている。夜の底が紅くなっている。寮舎はすべて燃え立ち、焼け落ち、唯のあばらと化している。
みんなは――!?……いや、まずはアルちゃんの安全だ。イダくんについていくと、驚くほど簡単に寮舎たちをその腕で抱いていた火の手から逃げることができた。なんで包囲の穴を知っているんだろう?そういえば先刻も――
◇◆◇
「アイ様!取り敢えず此処なら安全なはずです!」
炎に縁取られた地獄を見渡せる小高い丘まできて、イダくんが言った。
「ですが、直ぐに此処からも離れたほうが賢明です。辺境伯の守護が及ぶ地まで走りましょう!」
アルちゃんを木にもたれ掛からせて、此方を見ずに話す。
……なんで?先刻からおかしい。
「……なんで、そんなことが分かるの?なんで、逃げ道を知っていたの?なんで――」
アルちゃんの前に跪いていたイダくんが、暗闇の速度で振り返る。
「――わたくしたちが襲われると知っていたの?」
◇◆◇
顔の左側は炎に煌々とてらされて、しかし右側は暗闇のなかで瞳だけが光っていた。その明るい部分が少しずつ暗闇の宇宙に閉ざされていく。
先刻相対した時は分からなかったが、この顔を覆う宇宙は彼の心だ。
「――待って、暗闇のなかに逃げないで、宇宙の向こうに逃避しないで。わたくしの目を見て、わたくしと話して。」
顔に手を添えて、目を合わせる。すると、宇宙が剥がれていき、白い砂漠のような彼の顔が姿を現す。
「アイ……様。」
「答えて。」
「できません……僕は、僕の神に背いても、貴方に背いても、貴女を元の貴方に……!あの頃の貴方に――!」
柄に燃えるルビーのついた、短刀を顕現させる。其れを低い位置にある頸にあてがう。
「このわたくし、“アイ・ミルヒシュトラーセ”が……“この地を守護する”ミルヒシュトラーセ家の人間として問います。貴方が知っていることを答えなさい。
貴方の信奉するイダヤ教では、嘘は美徳とはされませんよ。
……答えなさい、イダ。いいえ――」
遠くで鶏の鳴く声が3度、聞こえた。
「――ユスカリオテの……イダ。」
ユスカリオテのイダは救世主の弟子のように、跪いたまま、告白した――。
「僕は!元の貴方に戻って欲しかったのです!僕の愛した!僕がイダヤの神よりも信じた!僕だけの貴方に!
貴方はこの罪深き姦淫女に出会って変わってしまった!師よ!貴方は全人類を救うおつもりかもしれませんが、人間体の女などは救いようがありません!石を投げて追い返すべきです!それを伴にするなど――」
……あぁ、ほんとうに厭になる。……性別がどうだから、身分が違うから……だから友にはすべきではない?共には居られない?……あぁ、反吐が出る。
なんでどいつもこいつも同じことしか言わない?わたくしの愛する家族も、大好きな友達も。なんで家族を愛するように、友を愛するように、虐げられた人々を思えない?家族は愛するくせに、友は思いやれるくせに。
……いい加減、我慢の限界だ。
「――黙れ。わたくしの友を侮辱するな。それも性別だけを理由に。あと一言でも侮蔑の言葉を吐けば、お前の信仰ごと舌を切り取ってやる。お前の頭が此処に転がることになるぞ……。
最後に問う……わたくしに同じ質問を3度させたらどうなるか……わかるな?
……ユスカリオテのイダ。
……襲撃者の狙いは?数は?正体は?」
「狙いは……貴方です。我が神よ……。」
――わたくしが、狙われている――?




