4-①.小春日和と陽炎月夜 Der Altweibersommer et Brum de chaleur
運命――だと、おもった。その姿を見た瞬間に、その声を聴いたときに。その、花のように笑う声を――。
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かげろうがアイのどこにそんなに執着しているかと問われれば、間髪をいれずに全てと答えるだろう。
だが本人にも分かっていないのだ。かげろうの心に触れたのは、アイの笑顔だった。初めて見たはにかみをたたえた笑顔。まだぎこちない笑顔。すこし慣れてきて柔らかくなった笑顔。殊の外得意気にパンドラの文学について語る笑顔。
かげろうはアイの笑顔に、――皮肉なことに、アイを最も脅かしている――太陽を見いだしたのだ。だからこそかげろうにとってアイは唯一無二であり唯一神でもあった。
そのやわらかな微笑をみるたびに、愛くるしい笑顔に照らされるたびに、もっと笑わせてみたいと思い。アイの表情に物憂げな夕暮れを感じると、その顔に太陽を昇らせたいと。その陽炎のような儚さを。その寂しげな顔を笑顔に変えたいと、願わずにはいられないのであった。
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アイが折檻されてから目を覚ますと、いつもひとりでに傷が治っていた。完全にではなくズキズキと内側は痛み傷も残っていたがが……最低限立ち上がれる程には。たぶん外聞を気にしたお母様が医者の心者を呼んで治させていたのだろう、とアイは思っていた。
アイは独りでミルシュトラーセ家の庭にある小さな湖に来ていた。昨日のことを考えたかったからだ。いや、考えたくなかったからかもしれない。
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春日家の娘、春日春日はミルヒシュトラーセ家に呼びだされていた。父の近年の働きによって不知火陽炎連合の末端も末端であった地位から、名字を拝領するまでになった春日の家。今日はその春日という家名を正式に名乗る手続きと式のために一家一同呼び出されたのであった。
父は立身出世を志し、とてもそういったことに意欲的な人だったが、まだ4歳のはるひにはどうでもよかった。退屈な式を抜け出して花でも摘もうと考えて、庭に抜け出していた。そこで見た。あるちいさな子どもが泣いているのを――。
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きれい――。
はるひが最初に思ったのは、大丈夫かな、でもなんで泣いてるんだろう、でもなかった。ただきれいだと思った。みたことないくらいきれいで――気が付けばはるひもその美の暴力を前に涙を流していた――。
薄く白い布を身にまとい、漆のような黒髪を水面に流し、新雪の如く輝き白いけれども、痣と疵に覆われた肌を濡らし、かなしいほどにうつくしい花の顔、そして、美しく蒼空色だがそれでも確かに黒い絶望に眼を灼かれ光の差さぬ、かなしみをたたえたその眼。そのすべてが美しかった。
はるひは他の女の子たちのようにかわいらしいもの、うつくしいものが好きだった。だけどこんなにうつくしいものがこの世に在るとは思い至らなかった。普段のはるひなら駆け寄って、『だいじょうぶ?』とか『どうしたの?』と声をかけていただろう。
しかし、その子が泣いているのに声をかけなかった。ただ見ていた。ただ、見ていたかった。この世でいちばんうつくしいものを。その子の泣き顔を――。
ただ立ちすくんでいるとその子がこちらに気が付いてしまった。その子は少し驚いたあとに、慌てて涙をぬぐって笑顔を作った。ぎこちない涙の痕の残る氷の微笑を。
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「どうして泣いているの……?」
透き通る清流のような声。何か言わないとと思っているが、その声が頭に染み入って言葉がでてこない。
「どうしたの?……だいじょうぶ……だいじょうぶだからね……。」
その子は自分も泣いていたくせに、跪いてはるひの手を握り上目遣いで、安心させようとそんなことをいう。やさしい声音で。かなしくて泣いていると勘違いされたらしい。
「わたくしの名はアイ。お名前は?言えるかな……?」
「は……はるひ……春日春日……。」
なんとか口を動かす。
「はるひさん……どうなされたのですか?こんなところで独りで。」
はるひがこの子にかけるべきだった言葉だ。
「えっとアイ……こそ、どうしたの?なんで泣いていたの?」
いやこんなことを聞きたいのではなくて、知りたいのではなくて。理由なんてどうでもよかった。
「っ……お目汚しをしてしまい申し訳ありません。大したことではないのです。或ることに気が付いてしまったというだけで……。」
まるでそれを直視すると眼が灼けてしまうとでもいうように、なにかを見ないように、その子はとても婉曲的な物言いをした。
「それよりもあなたのような小さな子供がなぜここに……?」
「こ、こどもって!あなたも子供じゃない!それに背だってわたしよりちょっと大きいくらいで……。何さいなの?」
ちいさく儚げな子に子供扱いされたことに納得がいかず、あわてて言い返した。
「これは失礼をば……わたくしは4歳です。」
「わたしとおんなじじゃない!そんなしゃべり方じゃなくていいよ!もうともだちでしょ!」
とにかくこの子と仲良くなりたかった。そしてもう一度――。
「と……ともだち?でも逢ったばかりですし……。」
その子は恥ずかしそうに、でもすこし泣きそうに、そういった。
「そのしゃべり方やめてって!あなたはアイ!わたしははるひ!もう名前だってしってるの!じゃあもう友達じゃない!……わたしたち友だち……でしょ?」
無理に道理を通せば、その子はこの馬鹿馬鹿しい論理が気持ちいいという風に破顔した。
「あははっ!そうだね!お互いの名前もしってるんだから友達だよね!ふふっ!」
笑った顔もかわいいな。さっきよりもずっと子供っぽくて……。でもさっきみたいな感じはしないなぁ。なんだったんだろう?笑顔よりもむしろもっと見たい。さっきの――。
「そう!そうでしょ!よろしく!アイちゃんて呼んでいい?呼ぶね!今日はお父さんのはいりょーしき?で来てるの!えらい人から名字がもらえるんだって。すごいでしょ!名字もってるんだよ!わたし!春日っていうの。」
眩しものをみるように目を細めたアイちゃんが答える。
「……それはすごいね。あいも誇りもって言える家名がほしい……な。」
「アイちゃん名字ないの?じゃあ春日あげるよ!春日アイ!どう?」
「うふふっ……いいね。でも家名はえらい人に認めてもらわないと!それにけっこんするなら。はるひちゃんのお父さんとお母さんにお願いしないとね。」
「けっこん……?女の子同士でけっこんできるの?」
「えっ……ああ、そうか。アイはこんな見た目だけど、男の子だよ?もちろん生まれたときのは、だけど……まだ4歳だからねぇ。
はるひちゃんもまだちゃんとは決まってないでしょ?」
「えっ……え!男の子だったの!?……??……!……すっごくかわいいからわたしてっきり……。じゃあ“アイくん”だねぇ……ごめんね?」
「いいのいいの、よくあるんだ、こういうこと。でも女の子のお友達ははじめてだからうれしいな。」
「そうなの?わたしは一人いるよ?幼馴染なんだけどね、最近あんまり遊んでくれなくって、その子のおねーちゃんが言ってたんだけど、誰かに逢ってから性格変わっちゃったんだって。だからアイくんが今はいちばんなかよしかも!」
「えへへ、そうなの?だったらうれしいな……。」
アイくんが笑うたびにどきどきするぐらいかわいいけど、最初みたときみたいにはなんないなぁ……。なんだったんだろ……?
「そういえば、“女の子の友達”って地獄の言葉で“ガールフレンド”っていうらしいよ!お母さんが言ってた!お母さん最近地獄小説読んでるんだ〜。ガールが女の子で、フレンドが友達って意味なんだって!男の子だとボーイフレンドなんだって!よく知ってるでしょ!」
「へぇー。はるひちゃんは物知りなんだねぇ。すごいなぁ……!」
「だからたぶん、アイくんはわたしのボーイフレンドで、わたしはアイくんのガールフレンド!」
「あい、ガールフレンドってはじめてだよ。」
「わたしも!なんだかうれしいねぇ?」
「うん!」
アイのとびきりの笑顔をみても、やっぱり最初泣いてるアイをみたときみたいな気持ちにはならなかった。アイと別れるまで結局はるひにはそれがなんなのか分からなかった。




