兄からの言葉
時は少し遡り。麓で山中へ入っていくシェルバルクたちを見送り、アディーリアたちは早速流れてくる水を浄化し始めることにした。
山中の汚染を流しきるまでは、このまま力を使い続けることとなる。どれだけかかるかがわからないので、水量が増えるまで自分ひとりでいいとオートヴィリスが告げた。
ここは護り龍の守護範囲の外側。万が一取り零しても護り龍がなんとかしてくれるとわかってはいたが、今待機してくれているのは雌のみで、雄は地下水の浄化を受け持ってくれている。まだ完全に回復していない雌に、なるべく負担はかけたくなかった。
ユーディラルと並び川面を見つめながら、アディーリアは時を待つ。
今まで魔力を使う機会が少なかったアディーリア。まだ自重も纏う色も偽ることができないが、この数日で浄化はできるようになった。
黄金龍であるアディーリアの魔力はほかの龍とは少し違い浄化や癒やしに向くようで、魔力量に対しての効果が大きく、扱いの未熟さを補うことができた。一方でまだ空気中の水を捕らえることができないアディーリアからすれば、兄たちは皆素晴らしく、憧れである。そんな兄たちと一緒に自分も卵のために何かできるということが誇らしかった。
しかしそんな兄たちでも、空気中から大量の水を集めることには苦労しているのだろうか。待てども増えぬ水量に、アディーリアは心配そうに山を見上げる。
「大丈夫だよ」
動きに気付いたユーディラルがぽつりと呟いた。
驚き兄を見るアディーリアの眼に、少し手前の水面をじっと見つめたままのユーディラルが映る。
「カルフシャーク兄さん、なんにでも一生懸命だから。待ってたらいいよ」
落ち着いた声はそのままカルフシャークへの信頼を示していた。対岸のオートヴィリスに視線を向けると、その通りだとばかりに微笑まれる。
いつも自分と一緒にはしゃいでくれるカルフシャーク。
遊ぶ時も。教わる時も。投げやりなところなど見たことがない。
「うん」
頷き、もう一度山を見上げるアディーリア。
待ってるからね、と。
届かぬとわかりつつ、心中呟いた。
川の水量が少し増えてきた。
まだ大丈夫だからとオートヴィリス。もう少し増えてきたら一緒にと言われたが、暫くしてからまた減り始める。
ここ数日のカルフシャークの様子を思い出しながらも、ユーディラルは決して山を見上げようとしなかった。
あの兄なら大丈夫。
そう信じていた。
アディーリアとふたり棲処を抜け出し、人を傷つけて戻ってきた自分。
迎えに来てくれたオートヴィリスは、一緒に帰ろうと言ってくれた。
請負人組織との連絡に奔走してくれたシェルバルクは、大変だったねと労ってくれた。
そして。池で帰りを待っていてくれたカルフシャークは、おかえりと迎えてくれた。
ここでゆっくりすればいい。
皆がそう言う中、カルフシャークはこっそりと自分に『次は僕が見てくるよ』と言った。
外の世界への憧れからだけではなく。
人を傷つけ傷ついた自分が再び出るに相応しい世なのかを見極めるために。
少なくとも自分にはそう聞こえた。
実現する前に、こうしてともに外に出ることとなったが。
もしカルフシャークがひとり人の世を歩いたとして。戻ってきてから言われる言葉は、きっとリーと同じだろうと思う。
今度は一緒に行くから大丈夫だよ、と。
年長者として見守るだけではなく、同じ場に立ち行動しようとするカルフシャーク。
だからきっと、自分たちの気持ちに気付いてくれると信じていた。
自分たちにとってカルフシャークは。
間違いなく、頼れる兄なのだということを―――。
一度増えたものの、また戻ってしまった水量。空気中から水を集めることを考えればあり得ないことではないのだが、カルフシャークの魔力量ならここまで間を空けずとも必要量を準備できるはずだった。
シェルバルクもユーディラルも、そして自分も、今まで魔力の扱いに困るようなことはなく。父曰く平均的だというこの魔力量で不足を感じることはなかったが。
そんな自分たちを見ているからこそ、カルフシャークには色々と思うところがあったのだろう。
技の不足を力で解決するやり方は、おそらく母が得意としていたものであろうが。そんな魔力は護り龍には必要ないからと、あっさりと自分たちに分け与えることを選んだという母にはもうかつての力はなく。
手本となるべきものがいないまま成長したカルフシャークは己に向いた方法を知らぬまま。それでもなんとかできていたのは、無駄にできる魔力が多いからであったが。
今回はそのやり方では時間とこちらの魔力が足りない。
練習中にカルフシャークへと伝えたいくつもの言葉。少しでも思い出してくれれば―――。
「来た」
ユーディラルの声に奥へと視線を向けると、たぷんと波打つ流れが下りてきていた。
暫く浄化を続けるが、水量は一向に減らない。それが何を意味するのかは、もちろん考えるまでもなく。
「ふたりもお願い!」
かけた声の明るさに、嬉しそうに頷くふたり。
安堵で気を抜かぬようにと心中言い聞かせてから。それでももう大丈夫だとの確信とともに、オートヴィリスは己のすべきことに集中した。
数時間水量を増した状態が続いたあと、流れてくる上流からの水はすっかり澄んだものになった。
浄化する必要のなくなった川に手を差し入れて確かめるオートヴィリス。もう少しで水量も減るだろうと思っていると、川を辿ってシェルバルクが下りてくる。
「三人ともおつかれさま」
「シェルバルクお兄ちゃん!」
今にも川に飛び込みそうなアディーリアにもうちょっと待ってと告げてから、シェルバルクはオートヴィリスに笑みを向けた。
綻ぶ理由はともに同じ。互いの安堵を確かめ合ってから、シェルバルクが口火を切る。
「ついでに地下もきちんと流そうってことになって。余力があるなら浄化を手伝いに行ってもらえるかな?」
どうやら魔力があり余っているらしい。
まだできる、まだやりたい、とはしゃぐ姿が容易に想像できる。
「もちろん。僕が行くよ」
心からの歓喜と祝福は胸に留め。本人が戻ってきたら、十分に労いほめようと思う。
じゃあお願いと微笑むシェルバルクにも、同じく歓喜の色が見えていた。
夜闇の中、穏やかに流れるアリュート川。パシャパシャと尻尾で水を跳ねさせながら、アディーリアは兄たちを待っていた。
洗い流された山からは汚れのない水が流れてきていた。浄化する前はどこかピリピリと刺激するものが混ざっていた川の水も、今は心地よく疲れを癒やしてくれる。
「見えてないのは姿だけで、音は消せないんだからね」
「はぁい」
ユーディラルに注意され、アディーリアは尻尾を動かすのをやめた。
「ユーディラルお兄ちゃん」
「何?」
「きれいだね」
月のない夜ではあるが、龍の眼に暗闇は障害とはならず、川の水が木々の間を場所により速さを変えながら駆け下りてくる様子が見える。流れを速めては白く飛沫を散らし、ぶつかりあっては静まり沈み。留まることなく流れゆく水。
上流から流れくるのは様々な命を育む源。
龍も人も。生かされていることに違いはない。
ユーディラルは何も答えず、同じようにただ流れを眺めていた。
やがて地下水の浄化を終えたオートヴィリスが迎えに戻り、僅かに遅れてシェルバルクとカルフシャークも川を下り戻ってきた。
「カルフシャークお兄ちゃん!」
飛びつくアディーリアを受け止めたカルフシャークは、その勢いのままアディーリアの身体を上空へと跳ね上げる。
きゃあ、と歓声をあげるアディーリア。
笑って見上げるカルフシャークの表情は、今まで以上に優しさに満ち。
そして同時に、少しおとなびて見えた。




