第六十二話 迷い
国を出て、余所に行く。そこには、お話ししてくださったニカ様の「思い」が根底にあるのでしょう。
サヌザンドは故国ではありますが、同時に冷たい場所でもあったのです。しがらみのないオーギアンでの生活は、ニカ様に取ってかけがえのない時間だったのかもしれません。
それは、ニカ様だけでなく……
結局、黒の君も折れざるを得なくなり、ニカ様は希望通りオーギアンへ向かう事になりました。
ただ、今すぐは許さず、きちんと支度をしてから、という話になったようです。
その準備も中程まで終わった頃、王宮でニカ様と会いました。
「お一人で向かわれるのですか?」
「ええ。兄上から色々と術式をたたき込まれている最中よ。何でも、移動や身を守るのに便利なものばかりを厳選したんですって」
黒の君……割と過保護だったんですね。その割りには、ニカ様を私に預けて平気な顔をなさっていましたけど。
これは、私がきちんとニカ様を守ると信頼された証と思っていいのでしょうか。
「迷宮……四十階以上を目指すのですよね?」
「そうなるわね」
清々しいお顔のニカ様。
「カルさんに……お会いになるんですか?」
「……どうかしら?」
少しだけ、憂いたお顔。それでも、ニカ様のお姿はとても美しいのです。
「ニカ様。不躾な質問をする事をお許しください」
「何かしら?」
「ニカ様は、カルさんの事を好きなんですか?」
迷宮区にいた頃から、何となく感じていた事です。ニカ様は、カルさんの事を想っている。
そして、おそらくカルさんも。
答えを期待していたかと聞かれると、正直わかりません。でも、聞くならば今しかないと思ったのは確かです。
「……わからないわ」
「ニカ様」
「本当なのよ。オーギアンに行くのも、カルに会いたいという気持ちより、迷宮に挑戦してみたいという思いの方が強いの。本当よ?」
カルさん、哀れ。迷宮に負けるなんて。
でも、ニカ様のお気持ちは理解出来ます。入った迷宮の数は少ないですが、蒼穹の塔はまだ未踏破の迷宮ですし、上にいくつもの階層があるはずです。
見た事もない世界を見せてくれる、不思議な場所。それが迷宮ですもの。惹かれるのはわかります。
「でも、彼にもう一度会いたいとも、思ってるわ」
「迷宮の次に、ですよね?」
「ええ」
どちらからともなく、笑い合いになりました。こうして、ニカ様と親しくお話し出来るのも、もうじき終わりなのですね。
「寂しく、なりますね」
「ベーサも、オーギアンに遊びに来ればいいわ」
「え?」
「兄上から聞いたのではなくて? サヌザンドはこれから、外交にちからを入れていくんですって。当然、オーギアンとも国交を結ぶそうよ」
知りませんでした。国交が樹立されれば行き来も出来るようになります。サヌザンドからオーギアンへ、旅行に行く事も可能でしょう。
「だから、私がオーギアンに行く事も許されたのよ」
「そうだったのですね」
「まあ、先にオーギアンに行って、ヘジローラ夫人の実家に圧力をかける仕事を任されたけれど」
「え」
それは、やはり魅了の腕輪に関係しているのですよね?
「幸い、私にはあちらに伝手があるのだし」
「伝手……ですか?」
「もう忘れたの? ゼメキヴァン伯爵がいるでしょう?」
「あ!」
塔の中で襲われかけていた二人のお嬢さん、その一人であるティージニール嬢の父君ですね。
後妻に入った夫人の悪事を暴露し、令嬢どころか伯爵その人の命をと家を救ったんでした。
その際、ティージニール嬢に報酬として「必要な時に力になってもらう」事になっています。なるほど、それを使うのですね。
「ティージニール嬢から頼めば、伯爵も拒否はしないでしょう」
「伯爵本人どころか、家そのものを守ってもらった恩がありますからね」
「まあ、あれこれしたのは全てベーサだったけれど」
「私はニカ様が動かなければ、放っておきましたよ?」
「そうかしら?」
「そうです」
また、お互い顔を見合わせて笑い合いました。
日が過ぎるのは、あっという間でした。本日はニカ様がオーギアンに向けて出立する日です。
「わざわざ見送り、ありがとう」
「いいえ。国交が樹立したら、オーギアンに旅行に行きます」
「待ってるわ。それまでに、どこまで上れるか、挑戦しておくわね」
「はい。楽しみにしております」
あの塔の四十階より上には、どんな景色があるのでしょう。ニカ様は、一足先にそれを見に行くのですね。
少し、うらやましいです。
見送りから家に戻り、日々を過ごしています。お父様の名誉は回復されましたから、お母様と一緒に社交に出る事も増えました。
私にもお話しが来るのですけれど、今は気が乗らないとだけ言ってお断りさせていただいてます。
どこに行っても、オリサシアン様の事を聞かれそうで。いえ、皆様それなりの良識は持ってらっしゃるはずですから、おおっぴらには話題に出さないでしょうけれど……
私の婚約話も消えましたから、次のお相手を探す必要もあります。黒の会では、黒の君ご多忙につきしばらく遠征はしないそうです。
その代わり、育ってきた騎士団があちこちに遠征しているそうですよ。というか、いつの間に魔物討伐専門の騎士団なんて作っていたんですか。
平穏な日々は、優しいですけれど少し退屈です。
家から出ない生活を送っている私を心配した両親により、強制的に王宮で開かれた夜会に出席する事になりました。
ドレスは、久しぶりに仕立てたものです。何だか、借りてきた衣装のようでしっくりきません。
というより、こうした場にいる自分に違和感を感じると言いますか……
「どうした? ぼんやりして」
「黒の君……」
いつの間にか両親は側を離れていて、無意識にバルコニーに出ていたところを、黒の君に捕まりました。
礼服姿を見るのは、久しぶりです。
「お疲れのようですね」
よく見ると、黒の君のあちこちにはくたびれた様子が浮かび上がっています。
「ああ、まったく、この世から書類仕事がなくならないものかね」
「まあ」
らしくない愚痴に笑ってしまいましたが、黒の君が言いたくなる気持ちも理解出来ます。
まだ陛下のご容態が思わしくなく、このままだと譲位になるのではと囁かれているそうです。
その為、現在黒の君はご自身の分だけでなく、陛下の分のお仕事までなさっているのだとか。
政策決定などは常々陛下とご一緒になさっていたから問題ありませんが、書類仕事となるとそうはいかないようで。
魅了騒動で能力のある文官が大量に処分されていたらしく、彼等を呼び戻す手間も大変なんだとか。
その間にも、決裁しなくてはならない書類は増えていくばかりですから、黒の君でなくとも悲鳴を上げるというものです。
ひとしきり愚痴を聞いた後、黒の君は真剣なお顔をなさいました。
「ベーサ、お前も、向こうへ行きたいか?」
「え?」
黒の君が何を言っているかは、理解しています。ですが、すぐには返答出来ません。
出来る訳、ありません。私には、家族がいるのですもの。
いえ、ニカ様にだって、陛下や黒の君がいらっしゃいます。それはわかっているんです。
「両親が心配か?」
「……わかってらっしゃるのなら、聞かないでください」
私は、一人娘です。婿を取って跡を継ぐ必要があります。以前の婚約では、生まれた子を跡継ぎに据えるという話でしたが、あれは相手が王族だったからです。今は違います。
「どこにいても、ベーサはベーサだろう? それに、移動魔法を使えば行き来は楽なはずだ」
「それは――」
「何を、そんなに迷う?」
何も、言い返せません。確かに私は、迷っています。このままサヌザンドで過ごすか、それともニカ様の後を追ってオーギアンに行くか。
先程黒の君が仰ったように、行き来はそこまで大変ではありません。何なら、日帰りだって出来ます。
朝オーギアンに行って塔に上り、夕方下りてきたらそのままサヌザンドの家に帰る。そんな生活だって出来るでしょう。
それでも、私は迷っています。うまく、言葉に出来ません。




