第五十六話 奥宮
王宮の最も奥にある、瀟洒な宮殿。それが奥宮です。
「思っていたよりも、小さいものなのですね……」
つい、感想が口から漏れ出てしまいました。口を押さえた時には、遅かったです。
「確かに、あまり大きな宮殿ではないわね」
「ここは王が生活する場。住まう事が出来る妃も限られている」
ニカ様と黒の君の言葉に、叱責の響きはありません。お二人も、ここの大きさに関しては私と同じような思いを持ってらっしゃるようです。
奥宮の事は、オリサシアン様の婚約者だった時に少し習いました。王と王太子、そして王太子を産んだ妃。
それ以外の妃を住まわせるのは、全て国王の意思である、と。
あら? 先程ニカ様は、この宮殿の事に驚いてはいらっしゃいませんでした。という事は、ニカ様は母君と共に、ここに住んでらした事がある?
……王太子以外の子が王に許されて奥宮で過ごせるのは、十歳までだそうです。十歳の誕生日に、他の宮殿に住まう部屋を与えられるのだとか。
「ニカ様は、ここでお育ちになられたのですか?」
「ええ、十歳までね。母はその後もここで過ごしたそうだけど」
では、母君と離れてお過ごしだったのですね。
「二人とも、話は後だ。行くぞ」
「は、はい!」
いけない、今は一刻も早くオリサシアン様を見つけて、魅了の道具を取り上げなくては。
ついでに、解呪の水で王宮中を魅了から解放しなくてはいけません。やることは山積みですよ。
「ほ、本当に私もここに入るのですか?」
涙目になっているのは、レセドです。彼は奥宮の入り口で見張りをするつもりだったようですが、黒の君は無情にも次のような命令を下しました。
「当たり前だ。殿を任せられるものがお前以外にいないだろう?」
「それは……そうなのですが……私のような者が奥宮に入るなど、畏れ多くて……」
彼は平民ですからね。貴族の家柄である私でも腰が引けるのですから、レセドならなおさらでしょう。
ですが、黒の君も仰ったように今は非常事態です。
「大丈夫ですよ、レセド。後で私も口添えいたします」
「お嬢様……」
「あら、なら私も口添えしなくてはね。それに、兄上がかばってくださるから、安心なさい」
「姫様まで……わかりました! 不肖このレセド、命をかけてお二人をお守りいたします!」
無事レセドもやる気になったようです。黒の君がぼそっと「守られるのは、お前の方だろうがな」とか仰ったような気がしますが、きっと気のせいかと。
本人が言うように、奥宮の入り口に彼を置いて行ったら、きっと魅了された兵士達に捕まり、最悪命の危険があったでしょう。だからこそ、黒の君はレセドを連れていくと決められたのです。
ニカ様は王族ですし、魔力がある方ですから心配はありません。私も、魔力量だけは人に負けませんから。
それに、ニカ様にも解呪の水を瓶に小分けしたものをお渡ししています。いざとなれば、それを相手にかければ問題解決です。
奥宮は、人がいないのかとても静かです。これが、普通なんでしょうか?
「おかしいわ……」
「ああ、人が少なすぎる」
あ、やっぱり普通じゃなかったんですね。
奥宮も、青い靄で充満しています。解呪の水をお皿に入れた人形のおかげで、私達が通ったところは清浄になっていますが。
この靄、表よりも濃くないですか?
奥宮の作りは複雑ではなく、入り口から入ってすぐに玄関ホール、そこを左にいって突き当たりの階段を上り、二階に上がるとすぐに王の部屋です。
奥宮は周囲を壁で囲われていますし、その外側にも多くの建物がありますので、警備はそこまで厳重ではないのだとか。
建物に入る前にも、大きくて頑丈な扉がありましたしね。
黒の君が先導する形で、私達は王の部屋……陛下の寝所へと急ぎました。
建物の左側にある階段、その下に来た途端、青い靄がまるで水のように襲ってきます。
「く!」
「兄上!」
ニカ様が、手に持っていた瓶を開けて黒の君に中身をかけました。解呪の水は、黒の君だけでなく、階段の一帯にあった靄をも消しています。
今更ですけど、凄い効果ですね。私の手元の人形はといえば……いけません、お皿の水がなくなっていました。継ぎ足さなくては。
慌てて瓶から水を入れていくと、こちらの人形も威力を発揮し始めます。やはり凄い。
「酷い有様だわ……」
「二人とも、解呪の水を絶やさないようにしてくれ」
「はい!」
言われて人形のお皿を見たら、先程たっぷりと足したのに、もう半分近くなくなっています。
多分、魅了の力が強すぎて、解呪の水をより多く使う必要があるのでしょう。
階段を上っていくと、靄はさらに濃くなって黒の君の背中すら見えなくなりそうです。
「解呪の水も、利きが悪くなっているな」
「申し訳ございません、黒の君。水がすぐになくなってしまうようで……」
謝罪しながらも、人形のお皿に水を入れます。いっそ、魔法収納と繋いでしまいたいくらいですよ。
「ベーサ、水は私が入れるようにするわ。小分けの瓶を頂戴」
「は、はい。お願いします、ニカ様」
王宮に入る前に、小分けの瓶を大量に作っておいて正解でした。魔法収納から出したビンをニカ様に渡すと、すぐに口を開けてお皿に継ぎ足します。
残りの瓶は、ニカ様の魔法収納に入れたようです。
ニカ様と役割分担する事により、やっと解呪が進むようになりました。階段の下半分は綺麗になりましたが、まだ上半分は濃い靄に覆われています。この先、王の寝所から手で触れられる程濃い靄があふれ出てくるのです。
「全員、気を引き締めろ」
「はい」
黒の君の言葉に、全員が返します。この先に、陛下とオリサシアン様がいる……
ようやく階段を上りきった先に、美しい細工が施された白い扉があります。
黒の君は、その扉を無造作に開けました。
「む」
中から、とても濃い青い靄が噴き出します。なんて濃い、魅了の力。
その時、ふと手元の人形が熱くなっているのに気付きました。え……どうしてこんなに熱を持っているの?
見下ろした先、人形が光っています。隣に立つニカ様も、驚いているようです。
いえ、驚きますよね。こんな反応、今まで一度もなかったのに。
ニカ様は私より先に我に返ったようで、人形のお皿に瓶の中身を注ぎ込みました。あ、お皿、いつの間にか空になっていたんですね。
次から次へと解呪の水を入れていく側から、お皿の水は消えていきます。それと同時に、周囲の靄が消えていきました。
靄が晴れた先、王の寝所の中央には、大きな寝台が置かれています。その脇に、ほぼ白の髪色をした男性が。
「オリサシアン様……」
そこにいたのは、私の元婚約者でお父様を罠に陥れた張本人、この国の三の君であるオリサシアン様がいました。
彼は、ゆっくりとこちらを向きます。その顔を見て、ニカ様と私は悲鳴を上げるところでした。
あれが、本当にオリサシアン様? 目は落ちくぼみ、頬はこけ、髪の艶もない。ガリガリに痩せて、顔色もよくないようです。
オリサシアン様は、口の端を引き上げた歪な笑みを浮かべました。
「あれ? 兄上じゃないですか? 駄目ですよ、一の君といえど、陛下の寝所に勝手に入っては」
「……なら、お前は許可を得てそこにいるのか?」
「もちろんですとも。陛下、私は陛下の許しを得てここにいるのですよね?」
返事はありません。そもそも、ここからでは寝台に誰かがいるのかすら判別出来ないのです。
「ところで、そこの下賤な女からは嫌な臭いがするなあ。そんなものを、陛下の寝所に持ち込むなど、不敬を疑われてもおかしくありませんぞ、兄上」
ゆらりと立ち上がったオリサシアン様は、だらしなく着たシャツとズボンのみ。その左腕には、不釣り合いな程大きな腕輪があります。
あんな腕輪、持っていたかしら?
「ああ、臭い臭い! ねえ! どうしてそんな臭いものを、この奥宮に持ち込んだんですか!?」
ガリガリのオリサシアン様は、両手を前に突き出してこちらに突進してきました。ですが、すぐに黒の君に取り押さえられています。
「放せ……放せえええええええ!」
オリサシアン様が叫ぶのと同時に、腕輪から濃い青色の靄が噴き出しました。
これが、魅了の道具?




