45.父となった日
ラルフが「パパ」と口にした。
無表情で無口な子が発したそれは、その場にいた二人を沈黙させた。
一人は固まり、言われた本人は目を見開いて唇を震わせている。
きっと感動で声も出せないのだろう。
たぶん、子どもが生まれたからすぐに親になるのではなく、日々の生活の中で徐々に親になっていくのだろう、と思う。
だからラルフが呼んだのも当然の結果だった。
「ぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱ」
「……っ!!」
再びラルフが言葉にし、更にぎゅーっとしがみついたからとうとう彼の目からぼろぼろ溢れてきた。
「ぱ……パパだよ……ラルフ、パパだ……よ……」
ぎゅーっと抱き締め返し、高い高いをして、また抱き締めた。
「シーラさん、聞きました? ラルフが、ラルフが! 俺……俺を、俺……六回も、俺……」
「そうね」
持っていたハンカチを取り出して、ぐしゃぐしゃになった顔を拭いてあげる。
それでも、アスティの瞳からは止めどなく涙が溢れた。
何度もラルフに頬擦りをしたり、高い高いをしたりしながら「パパだよ〜」と嬉しそうに言っている。
父親を知らないアスティが、ラルフの父親として自分なりに接してきたことが報われたようで私も目頭が熱くなった。
「……んで……おかしいだろ……」
掛布を握り締めたままのリオンが、俯いたまま呟いた。
「どう見ても俺の子なのに……なんで……」
「この子が生まれたときからそばにいたからよ」
「知らなかった。言ってくれたら俺だって!」
「隠し子がいたから」
顔を上げたリオンの顔が崩れる。
「あなたが……あの子の父親だったから。言えなかった」
あのときもし言えてたらどうしただろう。
何度も考えたけど、リリアちゃんを引き取って四人で暮らすなんてできなかった。
「あんな嬉しそうな顔をした子から、父親を取るなんて、できなかった」
悲痛な顔をされても、もう遅い。
どうしたって過去はやり直せないし覆らない、なかったことにはならない。
「全てはあなたが始めたことだわ。この子はもうアスティの子になった。言わないつもりだったから養育費も請求してない。
さようなら、リオン。今度こそ、会わないことを願うわ」
アスティを促して部屋を出る。
ラルフは泣き疲れたのかいつの間にか眠っていた。
扉を閉めると叫びが聞こえた。
雄叫び、咆哮と言ってもいいくらいの声だった。
いくら後悔しても、時は戻らない。
私たちはリオンが不貞を始めた瞬間から別の道に分かれてしまったのだ。
「シーラさん、万能の回復薬できたんですよね?」
「え? ……ええ」
「問題なければ王太子殿下に献上してもよろしいですか?」
そうだ、万能の回復薬の出番はここで終わりじゃなかったわ。
先程与えた回復薬は、身体の異常はなさそうだし、何よりポチ様から保証をいただいている。
「大丈夫だと思うわ。ポチ様にも保証をいただいたの。すぐに持って行く?」
「そうですね。ラルフも寝たようですし、持って行きます」
デリラさんのところへ戻り、万能の回復薬を小瓶に移す。相変わらずキラキラしてきれい。
アスティからラルフを受け取り、小瓶を持たせると「行ってきます」と言って移動魔法で消えていった。
「残りは三回分くらいですかね」
「そうさな……、これはまだ公にしない方がいいだろうね」
デリラさんは難しい顔をして腕を組んだ。
「もしかしたらとんでもないシロモノを生み出してしまったやもしれんぞ」
真面目な顔をして言うデリラさんを笑い飛ばしたかったけれど、こういうときの予想は割と当たるものだ。
数日後、王宮から戻ったアスティの表情が浮かなかったので、心配して尋ねてみたら。
「シーラさん。先日の万能の回復薬の件で……その。国王陛下からお話があると言われました」
目玉が飛び出るかと思った。
国王陛下が……なに?
私に話がある? ……なんで?
「簡単に説明しますと、王太子殿下の御子息……まあ、王子殿下なのですが、大変に病状がよくなかったらしいです。宮廷薬師の薬では悪化するばかりで匙を投げられていた、と。
それがシーラさんの回復薬で小康状態にまでなり、万能の回復薬で完全回復したのです。
シーラさんの才能がありすぎて、逆に危険だと判断されました」
「え……」
回復薬を作っていただけよ?
確かに万能の回復薬は効果が高いかもしれないけれど、あとはいたって普通の回復薬だ。
「そ、それって、お断りしますって言うのは……」
「王命です。王政のこの国にとって、国王陛下の呼び出しには必ず応じなくてはなりません」
「む、むむむむ無理、無理よ。無理。国王陛下ってお城に住んでるのよね? 行ったことないわ。
服とかどんなものを着ればいいの?」
「シーラさん。俺も一緒に行きますから」
そうは言われても国王陛下よ、国王陛下。
国で一番エライ人。
一平民の認識なんてこんなものだ。
人生の中で、交わらない道がほとんどなのに。
「アスティ代わりに聞いておいて」
「できません。これはシーラさんがちゃんとお話してくださいね」
「アスティの鬼ッ!」
ハハハハ、とアスティが笑う。
釣られてキャッキャとラルフも笑う。
あの日まで無表情だったラルフは、最近よく笑うようになった。
「ラルフもシーラさんが行くべきだと思うよね」
「ぅあぅ〜」
あれ以来パパと言うことはない。そもそも生後半年も経っていないのにパパと言葉を発したことが奇跡だったのだ。
でも、赤ちゃんだから何も分からないのではなく、言葉が話せないだけでちゃんと親を見ているのかもしれない。
「大丈夫ですよ。俺も一緒に行きますから」
「そばにいてくれる?」
「もちろんです」
「行くわ。……服、新調しなきゃ」
「じゃあデートしましょう」
「ラルフも一緒に」
「もちろんです」
「あうあ〜〜」
そんなこんなで、私は国王陛下に謁見することになったのである。




