36.縋る男
男が一歩近付く度、私は一歩後退る。
本能的な何かが近付いてはいけないと警戒する。
「シーラ、会いたかった」
どこか胸焼けしそうな甘ったるさを含んだ声に吐き気がするほど気持ち悪くなる。
「……どちら様でしょうか」
「リオンだよ。きみの夫の」
当たってほしくない予想ほどよく当たる。
幽鬼のような男――リオンは薄く笑みを浮かべて戯言を吐いた。
「私に夫はいません」
「今は、ね」
ぞわわわっと肌が粟立つ。確かに今はまだいないけれど予約済みだ。決してこの男が夫になるわけではないのにおぞましい。
「あなた……可愛らしい奥さんとお子さんはどうしたの」
「妻と子? おかしなことを言う。俺の妻はシーラで、子はまだだよ」
「マルセーズにいる、シアラさんと、リリアちゃん。忘れたの?」
マルセーズで、愛しい我が子を見る優しい瞳をしていたではないか。それなのに無かったことのように振る舞う彼に怖気がした。
「シーラ、すまなかった。あれを見て傷付いたよな。あの二人はちょっとした過ちだった。家族ごっこだったんだよ。
俺も子どもが欲しかった。でもシーラに子はできないし、予行練習にもなるかと思って」
思わず眉間に深く皺を作ってしまった。
子どもを作る為に散々遠征を控えてほしいと言ってきた。それを無視したのはリオンだった。
「どの口が子どもが欲しかったって言うの?
あなたは散々私の気持ちを無視したじゃない。
今更何なの。帰って。二度とここに来ないで」
腹立たしい気持ちで踵を返しリオンから離れる。
二度と会いたくなかったのに。
「待て。待って、シーラ」
「離して!」
腕を取られて引っ張られる。その腕の中に収まった瞬間、気持ち悪さが限界突破した。
無我夢中で突き放し、距離を取る。けれどリオンは再び腕を伸ばして来た。
「話を聞いてくれ」
「今更何の話があると言うの」
「ずっと……ずっと会いたかった。会いたくて苦しかった」
リオンは苦しげな表情を浮かべた。
「シーラがいないと眠れない。シーラの飯を食わないと調子が出ない。シーラがいない家に帰っても味気ない」
それは嘘だ、と思う。
「頼む。戻って来てくれ。子どもも作る。遠征も行かない。というか、俺、騎士団辞めたんだ。一緒に冒険者としてやっていこう」
再び掴まれた腕を払った。
「私はもうここに住んでるの。あなたと子どもは作らないし冒険者もしない。あなたをサポートすることはこれから先絶対に無い」
「シーラ!」
今度こそリオンから離れる。
けれど何度離れても追い縋られて迷惑だ。
「離して」
力任せに引っ張られ、恐怖で足が竦む。
ここにラルフがいなくて良かった。もしいたら連れ去られていたかもしれないと思うとゾッとした。
「私にはもう大切な人がいるの。私を思いやってくれる人。辛いときにいつも手を差し伸べてくれる人よ」
「誰だそれは!?」
「あなたではないことは確かよ」
傷付いたような表情をする彼に対する熱はもう無い。
捨てたのはリオンだ。
私より、マルセーズの母子を選んだのはほかでもない、リオンなのだ。
「これ以上私の邪魔をしないで。消えてちょうだい」
私は私で幸せになる。リオンに構ってる暇は無い。
今度こそ踵を返し立ち去ろうとしたとき、弱々しい力で服のすそを引っ張られた。
「頼む……。戻って来てくれ……。シーラがいないと息も吸えない。ずっと苦しいままなんだ」
縋られれば縋られるほど、残っていた情けまで絡め取られていくようだ。先程から自分の主張ばかりで私の気持ちはお構いなしだ。
「離婚して、今まで私がいなくても生きてるってことは息を吸えてる証拠だわ」
「……」
「あなたは私を愛しているわけじゃない。大方……剣帯が切れそう、とか、ご飯に入ってるバフをアテにしてるだけでしょう?」
「違う! シーラを愛しているんだ!」
乾いた笑いが込み上げる。
隠し子が発覚する前の私なら、こうして頼られることに喜びを感じただろう。
けれど今はそれだけでは満足できない。
常に私やラルフを優先してくれる、一途で、ひたむきで、とても重くて心地いい愛を知ったから。
「あなたが愛しているのはマルセーズの母子?
それとも……賞賛されて有頂天になった自分?」
リオンの目が見開いた。
「私ではないことは確かね」
「シーラ!」
埒が明かないので私は覚えたての移動魔法を使った。
産後から練習してきた甲斐があったのか、一瞬で家に辿り着いた。
「ここは……」
あるはずのない声がしてぎょっとする。
何故かリオンまで付いてきたからだ。
「どうしてあなたがここにいるのよ!?」
「シーラを掴んでたら連れて来られた」
ぞわわわーっと肌が粟立つ。単純に怖いと思った。瞬間。
いつか聞いた、けたたましい警報音が鳴った。
アスティの警報魔法と同じそれは相変わらず鶏をシメたときのような音がする。
更にリオンは何故か膝を突いた。力が入らないようで立っていられないらしい。
「ぐっ……なん、だ、これ……、力が……」
何が起きているのか分からず、リオンを凝視するしかできない。
「シーラさん!」
そこへアスティが移動魔法で帰宅した。その姿を見てホッとした。
「き、さまは……」
リオンがアスティを睨みつける。
アスティは私を守るように抱き寄せた。
「不法侵入です。この家に入ることは許していません!」
アスティが叫ぶと、警報音が更に大きくなる。
思わず耳を塞いだけれど、鳴り止むことはない。
「う……ぐ、ぐ」
何とか立ち上がったリオンを、今度は見えない力が吹き飛ばした。
「え」
一瞬、何が起きたか分からなかった。
そのまま玄関扉が開き、まるで家が人を吐き出したようにべっとリオンは投げ出された。
「これは……」
「この家、母が色々やってますから」
そう言えば以前、デリラさんに言われたことがあった。
家に気に入られないと魔力を吸われると。
リオンはその状態だったのかもしれない。
「うわあっ!?」
外から叫び声がして、窓に近寄る。
見てみれば畑――精霊の踊り場の辺りでリオンは何かに攻撃されているようだった。
「精霊の踊りを邪魔するな!!」
「いたっ!?」
リオンの周りをチカチカ飛んでいるものは、家からリオンを遠ざけて行った。
「あれは……精霊?」
「ですね。もう大丈夫ですよ」
呆気ない結末にどっと疲れが滲む。
今回は家と精霊たちのおかげで難を逃れたけれど、リオンに見つかってしまったことが新たな悩みのタネとなった。




