26.眠れぬ夜に、精霊のダンス
アスティは何かを言いたそうに口を開き、けれど言葉にする事はできずにまた閉じた。
「また来ます。資料は好きに見て構いませんから」
彼は俯いたまま目も合わさずに言うと足早に出て行ってしまった。
移動魔法もあるのに扉から出て、閉まった音がするとその場にぺたんと座り込んだ。
溜息と共に一気に力が抜けていく。
傷付けてしまったかもしれない。
そう思うと取り返しがつかないことをしてしまったと後悔に見舞われる。
けれど立ち上がって追い掛ける勇気も資格も無い。
これで良かった。これで、良かったのよ。
アスティは最強の賢者で引く手あまたの有望な冒険者で、王宮の諜報なんかもして、裁定員もして。
誰からも必要とされる彼がいつまでも私に構ってばかりじゃ勿体無い。
滲みそうになったまぶたにぐいっと袖を引く。
するとお腹がぽこぽこと動き出した。
「ごめんね、弱いお母さんで……」
怒っているのか、励ましてくれているのか分からないけれど、こんなときに独りじゃないという安心感からとうとう涙が溢れてきた。
「……っふ……ぅう……」
頭の中はぐちゃぐちゃで、次から次へと溢れてくるものを止める事ができない。
色々な感情が溢れて混ざり怒りと悲しみと後悔とやりきれなさや情けなさが目まぐるしく動いていく。
リオンと別れたことに後悔は無い。
あのまま一緒にはいられないし、知らなかった頃には戻れない。
それにこの子が生まれたら余計にあの子の存在が気になってしまうだろう。
かといって引き取れない。
他人の子を、愛した人の裏切りの証を、うまく愛せる自信も無かった。
私が選べたのはあの子のパパと呼ぶ嬉しそうな笑顔だった。
大人の身勝手で何も知らずに生まれてきたあの子の幸せを真っ先に考えた。
不貞の末に生まれた私生児は、生まれただけで過酷な運命を背負わされる。
けれど、生まれてきたなら愛されて幸せになる権利は誰にでもあるはずだ。
人は親に愛され、周りに愛され、誰かに愛されることで誰かを大切にしたい気持ちを育んでいく。
マルセーズの母子関係は良好だった。そこにリオンがいれば完璧だった。
私が惨めに縋って嘆いてもリオンは戻らない。
割り切る為にも物理的に離れる選択ができたのは周りにいた人たちのおかげだ。
一人で生きて行く選択ができたのは、この子がいるからだ。
この子の為なら何でもする。
けれど、今、誰かに寄り掛かってしまえば私はその人に依存してしまう。
離婚できたのも誰かのおかげ、私が今生きているのもこの子がいるから。
そんな私がアスティの好意に甘え続けては、きっと彼の重荷になってしまう。
そうはなりたくない。
アスティとは対等な関係でいたい。
信頼しあえるような関係がいい。
仲間、友人、恩人。
それがずっと続いてほしいしそうなるように努力していくつもりだ。
独りになれば誰かに縋りたくなるけれど、それは今ではない気がした。
その夜は眠れずに窓から夜空を眺めていた。
いつの間にか空気が少し冷たくなり、ショールを掛けていないと寒さを感じる。
窓から見える星明かり、静かな夜に微かに聞こえる夜鳴き鳥の声。
そよ風が森の木々を揺らし庭の少し伸びた草が踊る。
ここに来て眠れぬ夜は幾度か訪れた。
これからのこと、一人で産むこと、そして何よりも慣れたはずの孤独が以前とは形を変えて押し寄せること。
皮肉にも誰かと一緒に住んでいることは、独りじゃないと錯覚させてくれていた。
見てくれない人、長く家を空ける人だったから余計に孤独を感じたけれど、誰かの無事を祈り、無事に出迎えることはそれだけで幸せの一つだった。
「眠れないのか」
ふと、窓の外から低い声がしてドキリと心臓が鳴った。見てみるとぼんやりと光る白い四足の動物のような姿が見てとれる。
私は窓を開けてその者が近付いてくるのをじっと見ていた。
「精霊の主様」
「その呼び名は堅苦しいな。気軽にポチと呼べ。ミスティはそう呼んでいた」
「ポチ……ですか?」
真っ白い大きな体の精霊の主は、耳をぴんと立て尻尾を振っている。……どこからどう見ても犬だわ、と脱力して窓を開けた。
「こんばんは、ポチ様。どうしてこのような所に?」
「久々に野を駆け回りたくなってな。今まで走って来た帰りだ」
ポチ様いわく、辺り一面見える範囲の野山は彼の縄張りで、時折見回りしているのだそう。
「精霊の通り道を作ったのですね」
「ああ、明日の朝は冒険者たちが群がるだろうな」
精霊が通ったあとの素材は、魔力含有量が上がったり変質したりするのだ。
そう言えば昼間に見たミスティさんのノートにも精霊の通り道の素材を使った物があったはず。
「それよりもなんだ、畑に何も植えていないのか」
「すみません」
「ミスティは何でも植えていたぞ。仕方ないな」
ポチ様はここ掘れわんわんとばかりに均等に掘った後、遠吠えを響かせた。
すると彼の周りがポワポワと光りだす。部下の精霊たちが集まってきたようだ。
それはまるでダンスをしているようで思わず見入ってしまった。
「きれい……」
「今日は久し振りに走り回って気分がいいからな。特別だ」
「あ、ありがとうございます……、……でも」
「人の子よ。好意は素直に受け取るものだぞ」
どきりとした。
アスティからの好意を拒絶したばかりだったから。
「何を恐れているのだ?」
窓の桟に置いていた手に思わず力が入る。
真っ直ぐに見据える視線を逸したいのに逸らせない。
コクリと喉が鳴る。
「……誰かに心を預けるのが、怖いのです。
ぽっかり空いた穴に入り込まれて、抜け出せなくなった頃に裏切られたりしたら……」
自分でもうまく表わせなかった気持ちが形となって現れた。
そうだ。
私はもう裏切られたくない。自分が傷付きたくないのだ。
だから、優しくされても裏があると思ってしまって踏み込めない。
恋愛に発展すればまた失ってしまうのでは、と思うと先に進めない。
「彼がそんなことをするような人ではないのは分かっています。けれど、彼を理解できるほど親しくない私が頼りきってしまうのはどうなのかと思いました」
そして先に進めるほど私とアスティの仲は深くない。
「ふむ。……人の子は何故そう思い悩むのか。
そんなもの、本人と話せば良いこと。
分からないことを分からないと悩み、追い込んで傷付けるくらいならば聞けば良い。そなたがそうして悩むことを一緒に考えるのがあやつの為にもなる」
「それはどういう……?」
ポチ様は尻尾をぱたぱたと振り、目を逸らす。
「そなたがあやつのことを知りたいと思うことは良き傾向だ。興味を持つというのは好意の第一歩だからな」
結局答えを教えてはくれなかった。自分で聞け、ということか。
「ふむ、精霊の子らも踊り終わったようだな」
「え?……わぁ……!」
ポワポワと舞っていた光が一つの大きな光になる。その光が止んで畑を見てみれば、一面に回復薬の材料となる草花がぎっしりと植えられていた。
「精霊の通り道よりも凝縮された踊り場だ。
その子も大きくなってきたら採取も難しいだろう。子分を何匹か置くから好きに使え」
「えっ? でも……してもらってばかりは……」
「そなたの謙虚さは良いが、しすぎてもいかん。
こちらが好きでしていることだ。むしろしてもらってばかりで何が悪いのだ。
加護はやらんがそなたの魔力は好きだ。その対価として遠慮なく受け取れ」
ポチ様の言葉に、悩んでいたことが小さなことのように思える。
「ありがとうございます、ポチ様」
ふん、と鼻を鳴らし、また目を逸らされた。
尻尾はぶんぶん回っているから照れ隠しなのだろう、と思わず笑みが溢れる。
精霊たちが立ち去ったあと、暗くなった部屋に一人きり。
けれど先程までの鬱屈した気持ちはもう無かった。
アスティに今度会ったら話してみよう。
ちゃんと向き合って、今の気持ちを曝け出してみよう。
そう思いながら目を閉じた。




