16.署名
「離婚は……嫌だ。シーラを愛しているんだ。離れたくない。嫌だ……嫌だ……」
頭を抱え呟くように口にするリオンにみなが呆れているようだった。私もこんなになるとは思わなかった。
アスティに見せてもらった映像や実際に見た光景は、彼はシアラさんを愛しているように見えたし三人で幸せそうにしていた。
対して私には? と思い返すけど特にこの三年ロクな思い出が無い。
子どもの事もそう。
そろそろ欲しいと言っても気が滅入る話題はやめろと言っていたじゃない。
「私を今更愛している……? ふざけないで。確かに結婚した当時は愛を感じたわ。けれど遠征は止めないし子作りも協力してくれなかったじゃない」
「子どもはリリアがいる。っそうだ、俺たちでリリアを育てればいいじゃないか」
名案を思い付いたと言わんばかりにリオンは言うが冗談じゃない。虐げられているならともかく、リリアちゃんを見れば親子関係は良好だ。少なくともシアラさんはちゃんと子育てしているように見えた。
その母子を引き離そうと言うのだろうか。
本当にこの男は私が愛した人と同一人物なの?
「いい加減にして。母子を引き離すなんてできないわ。何を考えているの?」
「とにかく離婚なんて嫌だ。この家にシーラがいなくなるなんて絶対に嫌だ!」
駄々っ子のように拒否するリオンがまるで知らない怪物のように見えてしまう。
目の前にいる人とも思いたくない物体を脳が理解する事を拒絶しているかのようだ。
「リオン、お前は父親になったんだ。リリアちゃんを育てる義務がある。こないだも話しただろう? リリアちゃんの未来を思うならシーラさんの言う事に乗るべきじゃないのか?」
「俺はなりたくてなったわけじゃない。たった一回でできただけだ」
「いい加減にして! ……アスティ、映像をお願い」
堪りかねた私はアスティにお願いして映像を出してもらう事にした。
自分が何を言っていたのか思い出してもらう為に。
アスティは空間魔法を展開し、その中から鏡を取り出した。
文言を唱えると鏡から立体的な映像が浮かび上がる。
『じゃあ行って来るよ』
『パパ今日も帰って来る?』
『ああ、魔物退治したらリリアのところに帰って来るよ』
声が再生された瞬間、リオンの身体がビクッと跳ねた。
あの日の偵察の光景だ。まだ鮮明に覚えている。
『パパ! あれほしい!』
『分かった分かった』
『もう、リリアったらパパに会えて嬉しいのね』
『俺だってシアラに会えて嬉しいよ』
『私だってリオンに会いたかったのよ』
『パパとママはらぶらぶー!』
『こらっ、リリ、上で暴れると危ないぞ』
初めて見た三人の姿。誰が見ても仲睦まじい家族だ。
なりたくてなったわけじゃない、という仕方無さはどこにもなく、ただ愛おしいと態度に出ている。
もう敵わないな、と思った。
仮令私がお腹の子の存在を明かしても、リオンの心はもうこの母子のところに行ってしまったから戻って来ないと思わせるに十分だった。
「これは……っ、その、生まれたから育てるのは義務で、だがそれだけだ。だからっ」
「あ、すみません」
なおも言い募ろうとしたリオンの言葉をアスティが遮った。そこに映し出されたのは青空と木々の立体映像。映像は何の問題もなかった。……映像は。
問題は音声だ。
耳を塞ぎたくなるくらいのあられもない男女の艶声。事後の休憩中の会話に次の子を望むものがあり、それに応えるように二人の甘い声がし始めたところでアスティは鏡を仕舞った。
寝室の外に仕掛けられた監視魔法をわざと作動させたんだ、とアスティをジロッと睨むが彼は素知らぬ顔。
張本人のリオンは既に真っ白に燃え尽きたように灰になっていた。
「リオン」
分かりやすく肩を跳ねさせ、縋るように見てくる。
今はもう欠片も残ってないけど、本当に好きだった。
「サイン、してくれるよね?」
リオンの署名する欄を指差した。
何度も頭を振り、項垂れ、頭を抱えて唸り。
とうとう震える手でペンを握り、力の入らない署名をした。
最後の文字を書いてもペンを離さないので滲んでいくが、ザインさんがペンを取り上げ私の方に書類を押し出した。
「ありがとう。私の方で提出しておくわね」
そう言うとリオンはペンを握っていた空になった手を握り締めて肩を震わせ嗚咽を漏らす。
泣いても喚いても自業自得だ。同情すら湧かない。
「なんで……映像なんか……それさえ無ければ……」
ブツブツ言っているリオンに目を向ける人はいない。証拠が無いから何をしてもいいなんて幻想だ。
「リオンさん」
そこへアスティが声を掛けた。
虚ろな目をしたままのろのろと顔を上げる。
「リリアちゃんが三歳になったタイミングで私生児調査が始まりました。それの調査員になったのが私です。父親候補は三人いました。ですがシアラさんは流石にあの家に他の男性を入れるような女性ではありませんでした」
「……え……」
「三人に監視魔法を掛けていましたが、それもあって他の二人は早々に調査対象から外れました。
でもずっとあなたには監視魔法が掛けられていました。半年くらい前から」
アスティの言葉に驚いたのは私だけではないだろう。アメリもカールさんも半年も監視魔法を掛け続ける人がいるなんて聞いた事が無い。益々アスティの謎は深まるが、彼は凍てついた目線をリオンに送っていた。
「あなたを調査して、シーラさんの存在を知る度なぜ浮気できたのか分からなくなりました。あなたはきっと後悔するでしょうね」
まさか、そんな事あるわけない、と思って笑いそうになったけど、私以外が真剣な表情をしていた。
だからそうなのかもしれない、と一瞬過ぎったがそれでもすぐに忘れるだろう、と思ったのだった。




