頑張る望生
「リキ、可愛い」
「ありがとう舞衣子ちゃん」
凜生は今日学校から帰ると、友達の舞衣子が遊びに来てくれた。
舞衣子もリキが大好きになってくれ、最近は毎週遊びに来てくれる。
凜生は舞衣子と望生の3人でリキと遊び、庭をいっぱい駆け回った。
「はあはあ、疲れたぁ」
「またリキに捕まっちゃったね」
「ねえ凜生ちゃん、望生君、リキは私達より元気だね。笑ってるよ」
「え? 舞衣子ちゃん、リキ笑ってる?」
「うん、口開けてるから絶対笑ってるよ」
確かに子供達3人を追いかけ終えたリキはまだ楽しそうだが、舞衣子はリキの口を開けた顔は笑ってると断言した。
「じゃあリキはいつも笑ってるね。いつも口開けてるから」
「リキはいつもご機嫌だね」
「リキはいいなぁ。泣きたくならなくて」
「望生君、泣きたくなるの?」
いつも笑ってるリキを羨ましがった望生は舞衣子に優しく尋ねられ、恥ずかしそうに俯いた。
「どうして? 悲しいことあった?」
「……うん、朝いつも悲しい」
「朝いつも?」
「朝はお母さんが離れるから」
望生から恥ずかしそうに泣きたくなる理由を教えられた舞衣子は、目を合わせた凜生とこっそり笑い合った。
「ねえ望生君、お母さんは望生君が幼稚園で頑張ってると嬉しいんだよ」
「何で?」
「頑張ってる望生君はカッコいいから。さっきもリキと頑張って鬼ごっこした望生君はカッコよかったよ。お母さんは望生君が幼稚園でいっぱい頑張って、いっぱいカッコよくなってほしいから、離れるんだよ」
「……あ! お母さんは幼稚園来るとうれしそうだよ。僕がカッコいいから?」
「うん、そうだね。望生君がカッコいいから」
舞衣子に優しく教えてもらった望生は保育参観に来た母の嬉しそうな顔を思い出し、いつも母と離れたくなくて幼稚園に行きたくない気持ちが頑張る気持ちに変わった。
「ぼく頑張る」
「凜生ちゃん、望生君は素直で可愛いね」
「ありがとう舞衣子ちゃん」
さっきリキを褒めてくれた舞衣子に弟も褒められた凜生は、優しい舞衣子が今日も好きになった。
「あ! そうだ凜生ちゃん、私も剣道習えるかも」
「え!? 舞衣子ちゃん本当?」
「うん。お母さんに剣道習いたいって言ったら、ちゃんと見学して頑張れるって思ったら習っていいって」
「やったぁ! 舞衣子ちゃんと一緒!」
毎週土曜日に大叔父の剣道場へ通ってる凜生は友達の舞衣子も一緒に通えるかもしれないと教えられ、すっかり大喜びしてしまった。
「凜生ちゃん、まず見学しなきゃだめなんだよ」
「あ、そうだった」
「それにね、お母さんは剣道始めるなら週2回通いなさいって」
「え? 何で?」
「週1回よりお得なんだって」
「そうなんだ…………じゃあ私も週2回通うよ!」
「凜生ちゃん本当? やったぁ!」
結局凜生と舞衣子は揃って週2回剣道場へ通う気満々となり、手を取り合ってピョンピョン喜んだ。
「舞衣子ちゃんも剣道やるの?」
「うん望生君、私も剣道やるよ。きっとお母さんも喜んでくれるから」
「ぼくも剣道やったら、お母さん喜ぶ?」
「望生君が幼稚園でいっぱい頑張るみたいに剣道も頑張ったら、お母さんはいっぱい喜ぶよ」
「ぼくも剣道やる!」
「え!? 望生もやるの? 本当?」
「うん」
「じゃあ私達3人一緒だね!」
今まで姉と一緒に剣道場へ通うだけだった望生は舞衣子に教えられ、母に喜んでもらうため初めて剣道をやる気持ちになった。
驚く凜生と喜ぶ舞衣子は最後に望生も混ぜてピョンピョン喜んだ。
「お母さん、ぼく見てた?」
「見てたよ。望生すごくカッコよかった」
「お母さん、望生は初めて素振りしたけど、先生は上手だって褒めてたよ」
「そうなんだ、よかったね望生。舞衣子ちゃんも初めてなのに、すごく上手だったよ」
「おばさん、ありがとうございます」
水曜日の夕方、秋生は凜生と望生そして凜生の友達の舞衣子も連れ、剣道場を訪れた。
望生と舞衣子が他の生徒と共に初めて素振りを体験し終えると、リキと一緒に道場の外で見守っていた秋生はいっぱい褒め始める。
望生も舞衣子も喜んでるので、おそらくこれから凜生と共に剣道を習うことになるだろう。
「舞衣子ちゃん、もう一度面の被り方教えようか?」
「うん」
「望生もおいで。お母さん、もう少し待っててね」
舞衣子と望生という剣道仲間が増えて一番張りきる凜生は、2人を連れて再び道場内へ戻った。
「秋生ちゃん」
「義叔父さん、今日もお世話になりました。それとリキを連れて来てしまって、すみません」
再び1人残った秋生に近付いたのは柊永の叔父で、剣道の師範でもある洸斉だった。
洸斉は今日秋生が一緒に連れて来たリキのことを謝られても、リキの頭を撫で始める。
「犬のリキは人間の子供より成長が早いから、余計目が離せないな…………秋生ちゃん、また近いうちリキを連れて来てくれ」
「はい。これから凜生と望生は舞衣子ちゃんと一緒に週2日通うことになると思うので、平日は私もリキと一緒に通います」
「……毎週?」
「はい」
秋生はリキの成長を見逃したくないと望んでくれた洸斉に甘え、週に一度は子供達と一緒に道場へ通うことにすると、なぜか洸斉からはきょとんと驚かれた。
「秋生ちゃんは良妻賢母そのものだ」
「え?」
「せっかく子供がいなくなる時間を満喫しようなんて、考えたことないだろう?」
「……はあ」
「秋生ちゃんくらいだよ。剣道を頑張る子供を毎週ただ見守っても、全く苦じゃないのは。だから他のお母さんは最初の1、2回子供の見学に来て、あとは一度も訪れない」
洸斉に良妻賢母と驚かれた理由も教えられた秋生は、確かに子供達がいない時間を満喫しようと今まで考えたこともなかった。
「義叔父さん、きっと私はつまらないんです」
「……どういう意味だい?」
「夢中になれる趣味もないし、外で買い物を楽しむことも中々慣れません。美味しいものは好きだけど、1人で食べるのはつまらないだけなんです」
「秋生ちゃんは家族と一緒がただ好きだから、昼間の1人が寂しくてリキを飼ったのかい?」
「いえ」
「じゃあリキを一番飼いたがったのは子供達に見せかけた柊永だ。理由は秋生ちゃんにこのまま外で楽しませず、また働かせない為」
以前柊永から教えられた本心を洸斉からも的確に当てられ、秋生が図星を指された思いに囚われた。
洸斉はただ黙って肯定した秋生に静かな目を向ける。
「秋生ちゃん、柊永への負い目はもう捨てなさい」
「………………」
「今まで自分の為に生きたことがない秋生ちゃんは、昔柊永と別れた理由も当然自分の為じゃない。家族だけじゃなく、自分の望みも叶えてみなさい」
「……望み」
「秋生ちゃんは自分の望みを見つけられないなら、心の声に聞いてみること。今の自分の行動は正しいのか、そうではないのか。秋生ちゃんにとっての正しさは、偽りがないこと」
秋生にとって洸斉の教えは、ただとても難しかった。
柊永への負い目を捨てるなど困難でしかないのに、なぜか秋生の心は洸斉の教えを無視することができない。
「……義叔父さん、私が偽らなかったら、また柊永をとても傷つけます。それでも私は正しいんでしょうか」
「正しい行動は怖いかい?」
「私は負い目を捨てられたとしても、もう絶対に傷つけたくありません」
「秋生ちゃんの声は私にはっきり拒否してるのに、秋生ちゃんの目は私に助けを求めてる。秋生ちゃんの心に初めて迷いが生まれたから」
「………………」
「今はまだ迷いなさい」
洸斉は秋生にそれ以上無理強いせず、わざと迷わせたまま傍から離れた。
秋生が初めて柊永の叔父である洸斉と出会ったのは、柊永の家族に初めて会いに行った9年前だ。
当時の秋生は柊永の兄に再び柊永とよりを戻すことを望まれず、逆に柊永の両親には懇願までされるほど柊永と別れないことを望まれた。
そんな両極端な思いに挟まれた状態で柊永との結婚を決意し、彼の家族に初めて挨拶へ伺った。
蓋を開けてみれば柊永の兄からもすでに反対されることなく、彼の両親と兄夫婦全員に手放しで歓迎された。
無事結婚したあと義姉が密かに教えてくれたが、義兄の反対を宥めたのは義叔父の洸斉だったという。
秋生が初めて挨拶に伺ったとき洸斉も一緒にいたが、洸斉は秋生と初めて会う以前から姉夫婦に代わって上の甥を説得してくれたという。
剣道の師範である洸斉は厳しく剛直な性格で、柊永さえも昔は苦手だったと零したほどの叔父だった。
秋生はそんな洸斉に会う以前から認められた理由など今だにわからないが、それから洸斉に会う機会があるたび洸斉の優しさを受け、秋生も同じく洸斉に信頼を寄せた。
垣根なしで秋生にただ優しくする洸斉は、秋生に初めて父という存在を意識させた。
おそらく洸斉は秋生の身の上を知った上で、秋生にはただ優しくすることを決めたのかもしれない。
秋生はたとえ洸斉に厳しさも与えられたとしても、やはり洸斉を慕っただろう。
そして秋生にとって父のような存在の洸斉だからこそ、洸斉の教えを無視することは出来なかった。
秋生は今日初めて洸斉によって無理やり迷わされた。
「お母さん、今度の水曜日もリキと来る?」
「うん、行くよ」
「水曜日ずっと?」
「うん、ずっと。望生おやすみ」
「おやすみ」
今夜は両親のベットに入った望生は最後に母と約束すると、すぐ眠りに就いた。
秋生も望生の隣でそのまま目を瞑ろうとしたが、同じく望生の隣にいる柊永が上体を起こした。
「水曜日、ずっと?」
「うん」
さっき望生とした約束を確認され、秋生も静かに起き上がる。
「秋生は毎週行く必要ねえだろ」
「どうして? 望生も剣道始めるんだから、見に行ってもいいじゃない」
これから秋生が毎週剣道場に行くつもりと知った柊永は難色を示したが、秋生は特に諦める理由がなかった。
「水曜日はだめだ。望生が心配なら、俺と一緒に土曜日行けばいい」
秋生は柊永の言葉に驚かされる。
土曜日は以前から凜生が望生を連れて剣道場へ通っていたが、午後子供達がいない時間に柊永は秋生を独占していた。
そんな柊永が秋生の独占を諦め一緒に剣道場へ同行すると言うのだから、秋生が驚くのも自然だった。
「ねえ、どうして水曜日はだめなの?」
「別に水曜日は関係ねえよ。秋生は俺がいなきゃ、叔父と喋るだろ」
「……義叔父さんと喋っちゃだめってこと?」
「俺と一緒の時は構わねえよ。でも叔父は秋生にいつも余計なこと言うから、俺は見張らなきゃいけねえ」
「余計なことなんて言われたことないよ。私はいつも義叔父さんに優しくしてもらえるだけ」
叔父の洸斉が秋生に余計なことを喋るという柊永に対し、秋生は反論した。
「叔父はいつも秋生の味方だ。叔父は俺じゃなく、秋生の気持ちばかり勝手に大切にしようとする」
「そんなことないよ」
「叔父は俺の気持ちを無視して、秋生を自由にさせようとする。いつもだ。今日もそうだろ」
「………………」
「秋生、水曜日はだめだ。それともう絶対に迷うな」
秋生は今日洸斉に迷わされた心を柊永に見透かされていた。
柊永はすぐさま秋生の迷いを取り上げた。
「……水曜日は行かないよ」
「秋生、来てくれ」
結局秋生は洸斉に背いてしまったが、柊永は一度迷った秋生にまだ安心できなかった。
柊永に必死に求められた秋生は真ん中で眠る望生を気にしながら近付くが、焦る柊永は奪い取るように秋生を引き寄せた。
柊永は秋生に安心させてもらうため、秋生のすべてを感じ取り始める。
柊永の目は秋生の顔を必死に見つめると、柊永の鼻は秋生の匂いを必死に嗅ぎ始める。
柊永の手が秋生の身体に必死で触れ始めたので、秋生の手はようやく止めた。
秋生は柊永の手を取ったまま、望生が眠るベットから離れる。
柊永を安心させる為、今夜は自ら2階の部屋へ向かった。




