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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: 柊月エミ
凜 生 と 望 生
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犬の名前




「お父さん、犬の名前は?」

「焦んな。まずは犬種だ」


 凜生と望生は夕食を食べ終えると、断然猫派な真由の代りに犬を飼うと約束してくれた父をさっそく両側から挟める。

 犬の名前を決めるのは父だが、まだ早いと止められた。


「凜生、紙とペン持って来い」

「はい」

「よし凜生、望生、好きな犬種を言ってみろ」

「けんしゅ?」

「お父さん、望生は犬種なんてわからないよ」

「じゃあ望生、好きな犬のでかさを教えろ」

「このくらい」


 望生は父に好きな犬の大きさを教えるため、両手を思いきり広げた。


「凜生、望生が好きな犬種を当てろ」

「え?」


 父は両手を思いきり広げた望生だけで、凜生に望生好みの犬種を引き出させようとした。

 凜生はそれでも無謀な父に従い、一生懸命うなり始める。


「……あ! レトリーバー。お父さん、私もレトリーバーがいい」


 実際は大きな犬の種類などレトリーバーしか知らなかった凜生は思い出した途端、すっかりレトリーバーが飼いたくなってしまった。


「ゴールデンとラブラドール、どっちだ?」

「え?」

「毛が長いのと短いのだ」

「私は毛が長いレトリーバー! 望生は?」

「ぼくも!」

「オスとメス、どっちだ」

「お父さん、真由ちゃんがオスは売り切れちゃったって言ってたよ」

「そんなわけあるか。ペットショップ何件か回れば、必ずオスもいる」


 今日真由が凜生と望生に犬の名前を諦めさせるためオス犬は売り切れたと言い訳したが、ちゃんと信じていた望生は父に無事否定された。


「ぼく、オスがいい」

「お父さん、私はどっちでもいいよ」

「じゃあうちで飼う犬はゴールデンレトリーバーのオスで決まりだ」

「「わーい!」」

「あとは名前だな」

「お父さん、どうするの?」

「デカくて毛が長くてオス…………俺は長州力しか思いつかねえぞ」

「ちょうしゅ……?」

「ちょうしゅうりき…………りき…………お父さん、リキは?」

「お父さん、ぼくもリキ!」


 はっきり言って犬の名前など全く思いつかなかった柊永は代りにプロレスラーを思い浮かべたが、それでも子供達は大変気に入ってくれた。


「じゃあうちの犬はリキで決まりだ」

「「わーい! リキ!」」


 最後まで口出ししなかった秋生は初めて買う犬の名前が決定し、父の両隣で大喜びする子供達をただ笑顔で見守った。

 



「リーキ、リーキ」

「お母さん、おやすみなさい」

「おやすみ」


 今夜は姉のベットに入ってもまだ興奮する望生と、弟の隣に並んで母に就寝の挨拶をした凜生は、母から最後に優しく頭を撫でられる。

 今夜の秋生はこれから眠る子供達から離れ、凜生の部屋を少し暗くしてから後にした。


 今夜の柊永は二階の部屋じゃなく、1週間ぶりに寝室へ戻った。

 今夜の秋生は寝室に入ると、1週間ぶりにベットに座る柊永と目を合わせる。


「お帰り」

「……怖がらねえのか?」

「嬉しいだけ」


 すんなりと柊永に近付いた秋生は、すでに柊永が嫉妬まみれの怖ろしい夫から抜け出したことをわかっている。

 それでも夜になった今まで喋りかけられなかったのは、今度は柊永が秋生に代わって怖がっているからだ。 

 ようやく柊永は夜になり怖い秋生から逃げないため、目の前で佇んだ秋生をどうにか必死に見つめる。

 秋生は怖がる柊永にただ優しい笑顔を浮かべる。


 つい怖がることを忘れ秋生の笑顔を見つめた柊永は、目の前の秋生以外に美しく神々しいものを知らない。

 初めて秋生の笑顔を見つけた中学生当時の柊永は、初めて美しく神々しいものを同時に見つけた。

 あの時の柊永は手を伸ばしてしまいたかった。

 今の柊永も手を伸ばしかけた。

 けれどあの時も今も、柊永の心は美しく神々しい秋生の笑顔に触れることも畏れ多い。

 それなのに触れないジレンマは、柊永の心に脅えを生じさせる。

 柊永がいつも秋生に脅えるのは、そのせいだ。

 美しく神々しい秋生は、夫の柊永でも手に入れられない。

 気付いてる、柊永は最初からわかっていた。

 それでももがく。

 秋生が欲しいと、柊永の心が必死にもがき続ける。


 今夜ももがき始めた柊永の手を優しく掴まえたのは、秋生だった。

 柊永は秋生に掴まえられた。

 もがくだけの柊永にこれほどの安堵があるわけない。

 柊永の心に溢れ返った安堵は、柊永の涙に変った。


「秋生、離さないで」


 柊永の心はこうして度々子供に戻り、そして今夜はまるで少女のように儚く涙を零す。


 柊永は嫉妬に狂い続けた2週間を経て、美しく神々しいものに救われた。

 






「はい、できたよ。凜生はやっぱりポニーテールが似合うね」

「お母さん、私もポニーテールの練習する」


 朝忙しい母に今朝もポニーテールを作ってもらった凜生は、最後に自分で努力すると伝える。

 

「凜生は何でもできるから、ポニーテールは練習しないで」

「どうして?」

「お母さんが嬉しいから。だめ?」

「……わかった」


 母の為に努力しようと思った凜生は母の為に努力を止められてしまい、素直に諦める。


「お母さん、お父さん、望生、行ってきます」


 母に嬉しい顔を見られないために、今朝の凜生はめずらしく慌てて家を飛び出した。




「お母さーん」

「望生、お母さんお家で待ってるからね」

「はいはい望生君、ドアが閉まるよ。じゃあお母さん、行ってきまーす」

「すみません、よろしくお願いします」


 いつも母と離れたくない望生は、今朝も幼稚園バスに乗せられる。

 今朝も保育士に掴まえられ、泣きながら母と離れた。


 無事幼稚園バスを見送った秋生は、今朝も罪悪感を抱えたまま家の中へ戻る。



「秋生」

「もう……早くネクタイ締めて」


 凜生も望生もいなくなった途端、最後は大きな柊永に背後からずっしりと甘えられた。

 ネクタイまで渡され、秋生の手で結び始める。


「このまま会社行きたくねえ」

「また始まった」

「凜生と望生が帰らない家に、秋生と2人きりか…………秋生、俺は明日こそ有給取る」

「また始まった」

「秋生、昼間2人きりになった俺と何したい? 秋生は俺に何されたい?」

「また始まった」


 また以前と変わらず同じようなことばかり言う柊永は、今朝も同じ言葉で秋生に誤魔化される。

 そろそろ会社に行く時間なのに忘れてるようなので、ネクタイを結び終えた秋生の手は柊永の頬を掴んだ。

 秋生の口は柊永の唇をパクッと食べる。


「柊永が帰ったら、またこうしていい?」


 仕事から帰ったらまた秋生に食べられることになった柊永は、わずかにふらつきながら出掛け始めた。

 なかなか会社に行けない夫を上手に見送った秋生は、家族皆がいなくなった家を掃除し始めた。




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