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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: 柊月エミ
凜 生 と 望 生
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母の恩人




 およそ13年ぶりに訪れたマンションの一室前で佇んだ陽大は、迷うことなく玄関チャイムを鳴らす。

 目の前の玄関ドアはすぐに開かれた。


「陽大君」

「……戸倉さん、お久しぶりです。さっきは電話に出てくれて有難うございました」


 土曜日の夕方に陽大が訪れたのは、元義兄のマンションだった。 

 13年前まで陽大も暮らしていたが、当時義兄だった戸倉壮輔は姉と離婚した後も越すことなく同じマンションで暮らし続けた。

 壮輔のマンションを訪れる前に電話した陽大は壮輔がずっと越してない事実を初めて知り、これから会いたいという要望も通してもらった。

 今、陽大は13年ぶりに壮輔と対面した。

 壮輔は13年ぶりに会った陽大にすぐ懐かしい笑顔を浮かべる。


「陽大君、本当に久しぶりだね。元気だった?」

「はい」

「入って」

「お邪魔します」


 玄関で浅い再会の挨拶を交わした後すぐに招き入れられ、陽大は過去3年間暮らした家に再び足を踏み入れた。




「陽大君、ここまで車で来たの?」

「そうです」

「残念、じゃあビールじゃなくミロで再会の乾杯をしよう。ちょっと待ってて」


 陽大は昔ミロをよく飲んでいたことを覚えていた壮輔は、一度キッチンへ向かった。

 暫しソファに座り待っていた陽大は戻ってきた壮輔にミロが入ったマグカップを渡される。

 向かいに座った壮輔は本当に自分のマグカップを向けたので、陽大も従い再会の乾杯をした。

 ミロを一口ゆっくり飲んだ2人は再び互いの視線を合わせる。


「本当はさっき陽大君から電話もらった時、すごく驚いた。俺はとっくの昔に忘れられたと思ってたから」

「いえ、そんなことないです」

「今さら俺とこうして会うの、抵抗ない?」

「はい」

「本当に?」

「……本当です」

「ごめん、つい疑ってしまった…………俺は昔、陽大君に毎日嘘を吐かれたから」

「………………」

「陽大君は毎日俺に気を遣って笑いながら、心の中では俺が大嫌いだった。さすがに俺は大人だから、子供だった陽大君の気持ちくらい察してたよ」

「……すみません」


 陽大は昔から自分の気持ちを見透かしていた壮輔に初めてバツが悪い表情を浮かべ、俯きながら謝った。


「俺が大嫌いだった気持ちを認められるんだから、陽大君は大人になった。それにもう俺のことは大嫌いでもなくなっただろ?」

「……はい」

「俺はそれで十分だよ。今日は俺に会わなきゃいけない用事があったからでも、抵抗なく会ってくれて嬉しい。陽大君、ありがとう」

「……昔戸倉さんを嫌がってしまったのも、今日戸倉さんにこうして会いに来てしまったのも、俺の勝手です。俺に感謝なんてしないでください」

「うん、わかった。じゃあ陽大君の用事を聞こう」


 陽大は壮輔に明るい口調で今日の用件を喋るよう促され、俯いた顔をようやく戻す。

 陽大の心が目の前で笑顔を浮かべる壮輔に今さら緊張するのがわかった。


「まずは姉の現状から話させてください…………姉は9年前に再婚して、今は子供が2人います」

「……そうなんだ。うーん、元夫の俺にとっては少し複雑な事実だな。陽大君のお姉さんはもうそんなに幸せなのに、俺はまだ1人身だしね」


 陽大が教えた姉の現状に、壮輔は確かにやや複雑そうな表情を隠さず、最後は弱々しく笑った。


「お姉さんのことはわかったけど、陽大君は今何してるの? サッカー選手?」

「いえ、俺は家具屋で働いてます」

「家具屋か…………もしかして陽大君、家具のデザイナー?」

「はい、大学では建築デザインを専攻してたんで」

「やっぱり。陽大君の性格と器用さはそういう仕事に向いてると思ってたんだ。よかったね、おめでとう」

「ありがとうございます…………それで話の続きなんですけど」

「うん」

「……これはとても言いにくいんですが、戸倉さんに答えてもらう為に正直に言います。姉は再婚して9年経った今でも、戸倉さんを残してます」

「……残す?」


 過去に夫婦だった姉と壮輔の絆を確かめるため、陽大が仕方なく姉の真実を明かすと、壮輔はただ不思議がった。


「姉は再婚して幸せですけど、今まで別れた戸倉さんをきっぱり忘れることはしませんでした。そしてこれからもずっと心の片隅に残すつもりなんです。俺はそんな姉の理由がどうしても知りたくて、絶対教えてくれない姉の代りに戸倉さんに聞こうと思いました。戸倉さん、姉が戸倉さんを残す理由を俺に教えてください」

「……陽大君、それは教える教えない以前の問題だよ」


 姉の心を知りたい陽大をようやく理解した壮輔は、すぐに冷静な口調で返した。


「どういう意味ですか?」

「陽大君のお姉さんだけじゃないよ。一度結婚までした元夫をきっぱり忘れられる女性なんて、俺はいないと思う…………それに陽大君のお姉さんと俺は憎み合って別れたんじゃない。最後も笑い合えた。お姉さんにとって俺はいつまでも残しておきたい元夫なだけなんだよ。あえて忘れる努力をしたくない。俺だって同じ」

「俺はそれだけじゃないと思ってます。姉と戸倉さんの間には、元夫婦以前に絆があります」

「絆?」

「はい。姉は戸倉さんとの絆があるから、戸倉さんを一生残すつもりです。戸倉さん、姉との絆を教えてください」

「……絆」


 壮輔は陽大から元妻との絆を単刀直入に問われ、自身も呟きながら静かに考え込み始めた。


「……俺とお姉さんの絆は、恩かな」


 陽大の耳に初めて姉と壮輔を繋げる恩という言葉が飛び込んだ。


「恩?」

「お姉さんは俺に恩がある」

「何ですか?」

「俺はこれ以上言えないよ。お姉さんの事情だから」

「姉は絶対言いません。お願いです、戸倉さんが教えてください」


 陽大から食いつかれるように見つめられ、頭まで深く下げられ、壮輔はただ困り果てた。


「戸倉さん、お願いします」

「参ったな…………あのね陽大君、お姉さんが俺の恩を受け取ったのは、結婚前のことなんだ。だからお姉さんの事情を俺が話すわけにはいかないんだよ」

「……戸倉さん、姉は戸倉さんから何かを受け取ったんですか?」


 陽大は壮輔の言葉がヒントとなり、姉が結婚前に壮輔から恩となる何かを受け取ったと気付く。

 壮輔はやはり答えず困り続けたので、陽大は確信した。


「戸倉さんの恩は、お金ですか?」

「はあ…………そうだよ。俺はお姉さんにお金を受け取ってもらったんだ」


 陽大はさっき確信し、壮輔にまでとうとう白状させたのに、信じられずに首を振った。


「嘘です、姉はお金を借りる人じゃありません。俺達の生活は質素だったけど、働いてた姉はお金に困ってなかった」

「……それでもお姉さんは俺からお金を受け取らなければいけないほどの事情ができたんだよ。その時俺は、お姉さんと陽大君が暮らすアパートに越してきたばかりだった。仕事帰りに偶然お姉さんを外で見かけた時、お姉さんはちょうど消費者金融のATM前で暗い顔をしながら迷ってた。俺がとりあえず挨拶すると、お姉さんはとても驚いてしまった。俺は驚かれた理由を聞くこともなく、お姉さんがお金に困ってることがわかった。それでも俺は無理矢理お姉さんの事情を聞いたんだ。お姉さんは仕方なく話してくれたから、俺はまた無理矢理お金を渡した」

「……戸倉さんはアパートの隣同士になったばかりの姉に、そんな簡単にお金を渡したんですか?」

「当たり前だよ」

「……どうして?」

「俺はあのアパートに越す前から、ずっとお姉さんを知ってたんだ。お姉さんは10代の頃、ドラックストアで働いてただろ? 俺はわざとドラックストアの常連になって、お姉さんと親しく喋れる仲になった…………俺はずっとお姉さんが好きだったんだ」

「………………」

「お姉さんはドラックストアを突然辞めたから、会えなくなってショックだった。でもお姉さんは当時俺が住んでたアパートの近くに偶然越してきてくれたんだ。偶然見つけてしまった俺はまた親しくなるきっかけが欲しくて、お姉さんが暮らすアパートにまで越してしまった」


 壮輔の正直すぎる告白に、陽大は姉が金に困った理由以外すべて納得した。

 不自然でしかなかった姉と壮輔の結婚も、壮輔が姉と付き合えた理由も、姉が壮輔の金を受け取った事実があればすべて自然の成り行きに変化した。


「陽大君は一気に理解してくれたみたいだね…………そうだよ。俺はお姉さんに無理矢理お金を受け取らせた恩のお陰で、お姉さんの恋人になれたんだ。お姉さんは恋人になった俺に毎月少しずつお金を返そうとしたけど、俺は一切受け取らなかった。そのお蔭で、お姉さんは俺のプロポーズもすんなり受け取ってくれた…………結局俺とお姉さんは恩という絆だけで繋がってたから、別れてしまった。俺に恩返しもできなかったお姉さんが一生俺を残さなきゃいけないのも、当たり前だよ。最後まで恩返しを断った俺のせいなんだから」


 昔姉に一生残す恩を作った壮輔が、今は目の前の陽大に申し訳なさそうに笑った。


「……わかりました。戸倉さん、教えてくれて有難うございました」

「陽大君、お姉さんにわざわざ確認しては駄目だよ。陽大君は俺と会ったことがバレてしまうし、何よりお姉さんは俺と恩だけで結婚したことを陽大君に知られたとわかったら、傷つく」

「……はい」

「それでも陽大君はお姉さんがどうしてお金に困ったか、知りたいんだよね。じゃあお姉さんに聞かない代わりに、ヒントだけ俺が教える。お姉さんには会わない母親がいるはずだ。もちろん弟の陽大君にもね」


 壮輔は陽大が姉に確認しない為に、結局は恩が生じた原因を曖昧にも教えた。

 20年以上前、姉と陽大を捨て去った母が過去に一度だけ姉を頼ったのだとしたら、陽大はとうとう壮輔を一生残す姉をすべて理解させられた。

 最後は壮輔に深く頭を下げ、もう本当に訪れることはない過去の家を後にした。




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