父の茶色いカレー
「いいにおい。私お父さんのカレー好き」
休日はいつも父が夕食を作ってくれる。
日曜日の夕方過ぎ、キッチンに立つ父の隣で手伝う凜生は、父の作ったカレーに鼻を鳴らしながら喜んだ。
「俺のカレーはお母さんと違って、ただ市販ルー使うだけじゃねえからな」
「お父さん、何か入れたの?」
「ああ、隠し味」
「私見なかった」
「凜生にも内緒だ」
「むう……」
父が隠し味の食材をカレーに入れた瞬間を見逃した凜生は、子供らしく残念がる。
カレーをかき混ぜる柊永は娘の膨らんだ頬に自然と笑った。
「お父さん、お母さんには特別に隠し味教えてあげたら? そうしたらお母さんもお父さん味のカレー作れるよ」
「だめだ、お母さんも作ったら有り難みがなくなるだろ」
「ありがたみ?」
「お母さんには俺の作るカレーが特別美味いって思わせときゃいいってことだ」
「ふーん……でもお父さんはカレーだけじゃなくて、料理全部おいしいよ」
「ああ、俺は器用だからな」
「お父さんのシチューも美味しかったよ」
カレーをかき混ぜる柊永の手が娘の褒め言葉で初めて止まった。
凜生も父の止まった手を見つめ、初めて心を沈ませる。
「ごめんねお父さん、私お父さんがシチューを嫌いなことに気付いたの。それなのにこの前の日曜日、作らせてしまってごめんなさい」
「……凜生は作れなんて言ってねえだろ。食べたがったのは望生だ」
「ううん、違うの。私はこの前の日曜日、お父さんは皆にご飯を食べてもらうのが一番好きだって、お母さんに教えてもらったの。だからお母さんがお父さんにご飯作ってってお願いすれば、お父さんは喜んでくれると思ったの。私はお母さんにお願いしたんだ。でもお母さんじゃなくて、シチューを食べたかった望生が言ってしまっただけ…………私のせいでお父さんはこの前の日曜日、嫌いなシチューを作って食べられなかった。お父さん、ごめんなさい」
シチューのことで右往左往と父と母を心配した凜生は、今日父に謝ることを選んだ。
昨日祖母に父はシチューが嫌いじゃないと教えられたが、凜生はやはり父はシチューが嫌いなのだと思った。
シチューが嫌いな父にシチューを作らせてしまったことをちゃんと謝れば、父はこれから我慢してシチューを作ることもなくなるはずだ。
父が安心すれば、同じくシチューが苦手な母も安心できるはずだ。
凜生は昨日の夜から一生懸命考えてそう思いつき、ようやく父に謝った。
「凜生、お前は何も悪くねえ。そんな小せえこと一々気にすんな」
「でもお父さんはシチューが嫌いだから……」
「お前と望生が好きなら、それでいいんだ。これからは昨日みたいに、ばあちゃんにいっぱい食わせてもらえ」
「……うん。ありがとう、お父さん」
「ほら凜生、カレーできたぞ。お前は皿にご飯よそえ」
「はい」
父を安心させるつもりが逆に安心させてもらった凜生は、今夜父のカレーを食べるため家族みんなのご飯をカレー皿によそい始めた。
「茶色いカレー」
「望生、カレーは最初から茶色いよ」
「お姉ちゃん違うよ。僕テレビでピンクのカレー見たことあるよ」
「あ! 私はテレビで青いカレー見たことある」
「えー? いいなぁ」
家族みんなで父のカレーを食べ始めると、凜生と望生は茶色以外のカレーの話を始めた。
「ねえお母さん、何色のカレー食べたい?」
「お母さんはやっぱり茶色がいいな。お父さんのカレーが一番好きだから」
「秋生、俺のカレーが好きなら何色でもいいのか?」
「え?……まあ」
「じゃあ今度、ピンクのカレー作ってやる」
「作れないくせに……」
「そんなことねえぞ。望生、お前には青いカレー作ってやる」
「えー? やだあ」
「お父さん、私は?」
「そうだな…………凜生はみかんが好きだから、オレンジカレーだ」
「いいなぁ。お姉ちゃんのオレンジカレーおいしそう」
「ふふ、じゃあ望生にもオレンジカレー食べさせてあげるね。お母さん、私達もお父さんにカレー作ってあげようよ」
「そうだね。何色にしようか」
「あ! お父さんは大きいから緑」
「大きいから緑なの?」
「だって山は大きいでしょ?」
「お父さんは緑カレー!」
望生が最後に父のカレーを緑色に決定させると、家族みんなで笑った。
「凜生、陽大君と真由ちゃんは?」
「あ! 失敗。陽大君は山が好きなのに、お父さんを緑カレーにしちゃった」
「じゃあ陽大君は黄緑でいいんじゃない?」
「……そうだね。いっか」
「陽大君は黄緑カレー!」
「あとは真由ちゃんのカレーか…………どうしよう」
「凜生、真由ちゃんはひょろっこいから黒でいいんじゃねえか?」
「え? お父さん、ひょろっこいと黒?」
「黒はシャープだろ。真由ちゃんのカレーにはイカ墨ぶっこんでやれ」
「……あ、でも真由のカレーが一番美味しそうかも」
母が真由のイカ墨カレーを羨ましがったところで、家族4人と叔父夫婦の変わり色カレーが決まった。
「ねえお姉ちゃん、そうすけワンコは?」
今日描いた絵を母に見せたあと母と姉の会話をそのまま聞いていた望生は、真由がこれから飼うかもしれない犬も思い出した。
「あ、そうだった。そうすけワンコがいたね。ねえお父さん、知ってた? お母さんに聞いたんだけど、真由ちゃんが犬を飼うかもしれないんだって。名前はそうすけさん」
「お姉ちゃん、早くそうすけワンコに会いたいね」
「うん。望生、日曜日はいつもそうすけワンコに会いに行こうね」
「うん、そうすけワンコ」
凜生と望生は近いうち会えるはずの真由の犬をとても楽しみにし、再び父のカレーを食べ始めた。
昨夜は母を心配した凜生がまた両親のベットで眠ったので、父は先週と同じく1人二階の部屋で眠った。
今夜の凜生は昨夜と違い安心していたので、望生を連れて自分の部屋で眠った。
今夜の秋生は凜生と望生が隣にいなく、そして柊永もいなかった。
しばらく1人ベットに座るがこのまま眠ってしまうわけにもいかず、柊永を探しに行くため寝室を抜け出した。
今夜の柊永は昼間陽大と山を眺めたベランダにいた。
静かにベランダの窓が開かれ振り向くと、秋生と目を合わせる。
「ここにいたんだ」
「ああ」
「昼間も?」
「ああ、陽大とな」
昼間の陽大に代わって、秋生が柊永とベランダに並んだ。
「大丈夫か?」
「え?」
「秋生は高いところ好きじゃねえだろ」
「このくらい大丈夫だよ。でも夜だから少し怖いかな」
高い場所があまり得意ではない秋生は、昼間でも二階のベランダにはあまり出ない。
こうして夜のベランダで柊永と並んだことなど一度もなかった。
「今日は凜生、自分の部屋で寝たから、柊永も寝室で寝てね」
「ああ」
「昨日は陽大のベットで寝たの?」
「寝てねえよ」
秋生は昨夜1人で眠った柊永に去年まで陽大が使っていた部屋で眠ったのか尋ねたが、眠ることもしなかったと答えられた。
柊永に答えられてから、尋ねた自分を後悔する。
「忘れるなんて秋生らしくねえな」
「……ごめん」
秋生がすでに忘れかけていたのは、自分が一緒じゃないと眠れない柊永だった。
そのせいで彼は先週まで秋生と一緒に眠らないことが一度もなかった。
結婚前から先週まで9年間も必ず一緒に眠った柊永がそうしなければいけなかった理由を、秋生はいつの間にか忘れつつあった。
そして先週柊永が初めて秋生と一緒に眠らなかったのは、柊永がシチューを作った夜だった。
「凜生はもう8歳になったのに、俺は結婚前のまともじゃなかったまんまだ。今だに秋生がいないと飯が食えねえし、眠れねえ。秋生から離れることだけできるようになったのは、俺の代りに凜生と望生が秋生から離れねえからだ。特に望生は毎日秋生を独占してんのに、俺にとっては安心でしかねえんだ…………俺の子供なら、いくらでも俺から秋生を奪えばいい。秋生は俺より子供に独占されれば、この家から離れることも考えられなくなる」
「そんなの最初から考えてないよ。私はずっとここにいる」
秋生は家から離れさせない柊永にその意思がないことを敢えてはっきり伝えた。
それは本心だからで、秋生はこれからどんなことがあっても柊永のいる家から絶対離れない。
「そうだな……本当は俺も自信ある。秋生は二度と俺を離さねえ。二度目はねえ」
「柊永、寒くなってきた。中に入ろう」
さっきは柊永にはっきり離れない意志を伝えた秋生が、突然柊永と2人のベランダから離れたくなった。
何となく、とても嫌な予感がして、秋生の口は部屋の中へと急がせた。
「谷口の犬」
秋生の身体はベランダから離れる前に、柊永の口で遮られる。
「いつ飼うんだ?」
「……さあ、そこまで聞かなかった」
「本当に飼うのか?」
「真由は飼いたいって」
「まだ曖昧なのに、秋生はどうして凜生に話した?」
「……凜生は私と真由の話をこっそり聞いてて、気付かれちゃったの」
「秋生と谷口はどんな話をしてたんだ?」
「だから、真由が犬飼いたいって」
「本当か? 今から谷口に確認するぞ」
「……柊永、許して」
「秋生、谷口が教えた犬の名前を言ってみろ」
「……許して」
「言え」
ガクガクと震えた秋生の口は柊永の手に掴まれながら、強要された。
柊永はすべて知っていて、秋生に強要した。
秋生の震える口はいつまでも答えることがなかった。
柊永にとって答えても答えなくても同じだと判断したから、答えなかった。
嫉妬まみれの怖ろしい夫に震わされる秋生は、ただ元夫の名前を答えない方がマシだった。




