母と笑う
しばらく柊永とベランダにいた陽大は一階へ戻った途端、真由に帰宅を促された。
「真由ちゃん、どうしたの?」
「……何でもない、帰ろ」
従うまま玄関外へ出た陽大が真由に再び促され、とりあえず歩き始める。
結局真由と陽大は今日、秋生達家族の家から1時間経たずに離れた。
陽大は自宅まで10分の帰り道を歩きながら隣の真由を気にするが、同じく真由にも振り向かれる。
「ねえ陽大、さっき二階で木野君と喋った?」
「……まあ」
「何? 何喋ったの?」
「ただの世間話だよ」
「……陽大、私に嘘吐くんだ」
陽大の誤魔化しなど真由にはお見通しで、そのせいか陽大はいつの間にか真由にだけ嘘を吐けなくなった。
けれど今日ばかりは口を噤み歩き続ける。
「じゃあ私も教えるよ」
「……え?」
「秋生の悩み。だったらいいでしょ?」
姉の悩みなど今まで一度も相談されなかった陽大にとって、そしてさっき義兄の犠牲になった陽大にとって、真由の提案は決して逆らえるものではなかった。
陽大の足は初めて止まり、真由も真似する。
「真由ちゃん……まず秋ちゃんの悩みを教えて」
「私が秋生を裏切っても教えるのは、あんたは知っても耐えられると思ったから。もうあんたは秋生の小さい弟じゃない」
「うん、わかってる」
「……秋生が悩んだのは、木野君にお願いされたからだよ。元旦那を残してほしくないって」
「………………」
「陽大、驚かないってことは木野君に聞いた?」
「……うん」
真由の口から聞かされた姉の悩みは、さっき陽大が直面させられた義兄の願いそのものだった。
「俺はさっきそのことで柊君に頼まれた」
「何を?」
「秋ちゃんの元旦那さんのこと、教えてほしいって」
「……陽大、まさか教えたの?」
「うん」
「どうして? そんなことしたら……」
「真由ちゃん、俺が教えなかったら、もっと重大なことになるよ。柊君は自分1人で動く」
真由は柊永の頼みに応えた陽大に動揺するが、すぐに冷静さを取り戻させられた。
「俺は柊君に教える前に約束した。柊君が動く時は俺も一緒だって…………つまり柊君は俺が監視してないと、もうおかしい状態ってこと」
「……木野君をおかしくさせる秋生が一番おかしいんだ。何で元旦那を残すんだ」
「真由ちゃんが秋ちゃんを信じたくないのは、きっと悔しいからだね。秋ちゃんの心に柊君だけじゃなく、元旦那さんがいたから」
陽大は初めて秋生の気持ちを否定した真由の本音を見抜き、大人しくなった真由の頭を優しく撫でる。
「俺はやっと秋ちゃんの小さい弟じゃなくなって、秋ちゃんの気持ちが少しわかる」
「……陽大、教えてよ」
「秋ちゃんと元旦那さんは愛し合うことはなかったけど、絆があった…………俺には絶対わからない絆」
真由に教えるため初めて絆と言う言葉を用いた陽大は、同じく初めて不思議な感情が芽生えた。
「……ねえ真由ちゃん、戸倉さんって何だろ」
今日真由が秋生に対し感情的に責めた時と同じく、陽大も今久しぶりに姉の元夫の名を口にし、姉の元夫を不思議がった。
問われた真由はまったく意味がわからず、ただ首を傾げる。
「ねえ、真由ちゃんは秋ちゃんがどうして戸倉さんと結婚したか、知ってる?」
「……そんなのあんただって知ってるじゃない」
「戸倉さんは俺と秋ちゃんが暮らしてたアパートに越してきて、秋ちゃんは俺と真由ちゃんに内緒で戸倉さんと付き合ってたから?」
「うん。私は秋生に結婚宣言された時そう聞いたし、あんただって同じでしょ?」
「……そうだよ。俺も学校から帰ったら突然スーツ着た戸倉さんが部屋にいて、秋ちゃんにそう聞かされた。でも今更よく考えたら、おかしいよ。だって戸倉さんが隣の部屋に越してきた時、真由ちゃんは警戒したじゃん。秋ちゃんは真由ちゃんが警戒する人とわざわざ付き合うなんて、おかしい」
姉の元夫を出会い当初から思い出し始めた陽大は、出会い当初から真由に警戒された姉の元夫が姉と付き合えるはずなかったと気付いた。
確かに今までの陽大も、姉と元夫の結婚はずっと不思議で仕方がなかった。
姉が元夫を好きではなかったからだ。
だからこそ結局元夫と結婚した姉ばかり不思議がり、姉の元夫がなぜ姉と付き合えたのか不思議がるまでには至らなかったことにも気付く。
「きっと私が警戒しても優しい人だったから、秋生は断れなかったんだよ」
「優しい人だから付き合う? 好きじゃないのに? 秋ちゃんはそんなことしない」
真由に否定されても強く反論した陽大は姉の元夫を不思議がった最初の自分を思い出し、ようやく気が付いた。
「絆」
陽大の呟きを、真由は一瞬で理解した。
真由は今ようやく気付いた陽大より、本当はとっくの昔に気付いていたからだ。
秋生が元夫と付き合ったのも、結婚したのも、すべて秋生と元夫の絆が理由だと。
陽大もはっきり気付いた今、真由は改めて陽大の目と向き合った。
「……陽大、秋生は今日私に教えてくれた。元旦那を残すのは理由があるって。秋生が元旦那を残す理由も絆だったら、私達は早く知らなきゃいけないかもしれない」
「真由ちゃん」
「嫉妬する木野君が動いたらお終いだよ。私達はその前に、秋生と木野君の不協和音を解決しなきゃだめだ」
真由は今日陽大のように嫉妬まみれの柊永と向き合わずとも、柊永に秋生の元夫を会わせてはいけない事だけはわかっていた。
秋生が元夫を心に残すのはたとえ愛とは違う絆が理由でも、嫉妬まみれの柊永には関係ない。
秋生の心に残る男はただ排除しなければいけない。
そしてどう排除するのか真由は想像もしたくないから、柊永が怖ろしかった。
その日真由は陽大と共に、初めて秋生の過去の秘密に干渉する決意をした。
「お母さん、真由ちゃんいないよ」
望生はさっきまで一緒にいた真由がいつの間にかリビングにもキッチンにもおらず、不思議に思う。
「真由ちゃんは用事ができて、さっき帰っちゃったの」
「陽大君は?」
「陽大君も。どれ望生、描いた絵見せて」
さっきキッチンで真由を感情的にさせた秋生は、真由が二階から戻った陽大と共に無言で帰宅する姿を見送った。
再び子供達が揃うリビングのテーブルに座り、真由と陽大を気にする望生を誤魔化しながら画用紙を覗き込む。
「うわー望生、今日も上手。お母さんにちゃんと教えて」
「これはお母さん、これはお父さん、真ん中はぼく。お姉ちゃんも真ん中。こっち陽大君と真由ちゃん」
「みんな笑ってるね。お父さんすごく大きい」
「お父さん1番大きいもん。お母さんは1番かわいい。お姉ちゃんは2番目。真由ちゃん3番」
「望生、お母さんを1番可愛く描いてくれてありがとう」
昔の陽大と同じくお絵描きが大好きな望生は、今日家族4人と叔父夫婦を描いた。
昔の陽大が大好きな柊永をとても大きく描いたように、望生にとっても父親の柊永はとても大きい。
秋生は望生の描いた柊永を見つめ、まだ二階にいる柊永も強く思い出す。
すぐに誤魔化すため、凜生の描いた絵も眺め始めた。
「凜生も上手。お父さんを描いたんだね」
「ううん」
「ごめん、じゃあ陽大君だ」
「ううん」
「洸斉おじさん?」
「男の人」
「ん? 凜生が会ったことある男の人?」
「私の知らない人。でも私は名前だけ知ってるの」
「……誰?」
「そうすけさん」
凜生が画用紙に描いたのは1人の男性だった。
凜生は父親でも叔父でも大叔父でもなく、知らない男性を描いた。
凜生に知らない男性の名前を教えてもらった秋生は、凜生の描いた男性が元夫だと気付く。
少し前キッチンで真由を感情的にさせた秋生は、真由の口から元夫の名前を引き出してしまったことを同時に思い出したせいだ。
凜生は母親と真由の会話をそっと聞いていたのだ。
瞬時にすべてを理解した秋生は動揺するよりも笑顔を浮かべた。
「凜生、そうすけさんのことよく知ってたね。もしかして真由ちゃんに聞いた?」
「……ううん、お母さんごめんなさい。私はさっき、お母さんと真由ちゃんの話を勝手に聞いてたの。真由ちゃんはそうすけさんって言ってたから」
「そうだったんだ。じゃあお母さんが真由ちゃんの代りに詳しく説明するね。真由ちゃんは今度犬を飼おうか迷ってるんだけど、犬の名前も迷ってるんだって」
「犬の名前…………お母さん、そうすけさんって犬の名前?」
「うん、犬の名前」
凜生は笑顔を浮かべる母の説明にポカンと驚き、真由の口から出た知らない男の人が母とまったく関係なかったことに気付く。
しかも男の人でもなかった。
「そうすけさんは犬…………何だ、犬」
「そうだよ、そうすけワンコ。カッコいい名前でしょ?」
「そうすけワンコ。ふふ、そうすけワンコ」
知らない男の人が母を困らせていると勝手に心配した凜生はとても安心し、嬉しいあまり何度も繰り返した。
「そうすけワンコ」
凜生は最後に母と声を上げ笑った。




