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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: 柊月エミ
凜 生 と 望 生
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家に帰りたい




「おばあちゃん、こんにちはー」

「おじいちゃん、こんにちはー」

「おじさん、おばさん、こんにちはー」


 土曜日になると凜生と望生は剣道場に通うが、その前に祖父母と伯父夫婦が暮らす家に寄り昼食を一緒に食べる。

 今日も凜生と望生が玄関で全員に挨拶すると、今日出迎えてくれたのは祖母だった。


「凜生ちゃん、望生君、いらっしゃい」

「おばあちゃん、こんにちは。今日もお邪魔します」

「さあ入って入って」


 今日もしっかり挨拶する凜生に笑った祖母はすぐ中へ促す。



「あれ? ねえおばあちゃん、おじいちゃんは?」

「あれ? おじさんとおばさんもいないよ」


 いつも凜生と望生が来る土曜日は祖父母と伯父夫婦が笑って揃ってるのに、リビングには誰もいなかった。


「今日は凜生ちゃんと望生君が来るのに、残念だけどおじいちゃんはお友達と山登りに行っちゃったの。おじさんとおばさんは結婚式にお呼ばれ」

「そうなんだ…………望生、残念だね」

「……ぼくとお姉ちゃんのパン、食べてもらえない」

「え? パン?」


 今日は祖母しかいない家に明らかにガッカリした凜生と望生は、今日の午前中一緒に焼いたパンを祖母に見せた。


「あらあ、美味しそうな食パン! お母さんと焼いたの?」

「うん。昨日お母さんが、今日のおばあちゃんのお昼ご飯は絶対シチューだって教えてくれたの。だから私と望生はパンを焼きたいってお願いしたんだよ」

「おばあちゃん、今日は白いカレー?」

「そうだよ。今日は白いカレー」

「すごーい、お母さん当たった」

「望生、お母さんすごいね」


 凜生と望生が祖母の昼食を当てた母にとても驚くと、祖母はおかしそうに笑った。


「実はね、昨日おばあちゃんがお母さんに電話したの。凜生ちゃんと望生君が最近好きなご飯は何かなって」

「そうだったんだ……おばあちゃん、ありがとう。望生よかったね、今日はおばあちゃんの白いカレー食べられるよ」

「おばあちゃん、お父さんも白いカレー作ったんだよ。おいしかったよ」

「お父さんは料理が上手だからね。でもおばあちゃんの白いカレーだって負けないよ。じゃあ凜生ちゃんと望生君が焼いてくれたパン切ろうか。おじいちゃんとおじさんとおばさんには、帰ってきたら食べてもらうからね」


 凜生と望生は祖母と一緒にキッチンへ行き、パンを切る祖母を手伝う。


 今日の昼食は祖母のシチューに凜生と望生が母と一緒に焼いたパンを添え、3人で食べ始めた。



「おばあちゃんの白いカレー、お父さんと同じ」

「同じだね」

「お父さんとおばあちゃんは親子だからね。シチューの味も同じ」


 先週の日曜日に父が作ったシチューと同じ味のシチューを作った祖母は、同じ理由を笑って教えてくれた。


「おばあちゃん、お父さんはカレールー使うけど、シチュールーは使わなかったよ」

「おばあちゃんもそうだよ。お父さんは小さい時おばあちゃんのシチューをずっと食べたから、真似してシチュールーを使わなかったのかもね」


 父と祖母のシチューが同じ理由をもう1つ教えてもらった凜生は、きょとんと驚く。


「おばあちゃん、小さい時のお父さんはシチュー食べたの?」

「うん。お父さんは好き嫌いないから、おばあちゃんのご飯は全部食べたよ」

「シチューも?」

「シチューも」

「嫌いじゃない?」

「嫌いじゃないよ」


 父がシチューを嫌いじゃないかしつこく確認した凜生に、最後祖母はおかしく笑った。


「凜生ちゃん、シチュー冷めてしまうよ。早く食べ」

「おばあちゃん、ぼくもっと白いカレー食べる」

「はいはい、望生君は白いカレーおかわりね」

「白いカレーおかわり」


 祖母と望生の楽しそうな会話も突然聞こえなくなった凜生は、なぜかとても家に帰りたくなった。





「凜生、集中しなさい」


 祖父母の家を出たあと剣道場に行った凜生は他の子供達と一緒に素振り稽古をしてる途中、指導者で大叔父の洸斉から厳しい声を受ける。


「はい、すみませんでした」

「来なさい」


 洸斉はしっかり謝った凜生をそれでも道場の隅へ連れて行く。

 洸斉と凜生は静かに向かい合った。


「凜生、心配事か」

「はい、先生」

「何を心配してるか教えてみなさい」

「はい、家が心配です」


 洸斉は正直に答えた凜生に初めて厳しい表情を緩める。


「お父さんとお母さんに何かあったのか?」

「先生、私はまだ何もわかりません。でも父と母がいる家に早く帰りたいんです」


 凜生の強い目は突然泣きそうに歪む。

 初めて凜生の弱い目と見つめ合った洸斉は、ただ凜生に帰る許可を下した。


「先生、ありがとうございました」


 洸斉に深く礼をした凜生は今日も道場の隅で待つ望生を連れ、父と母のいる家に帰り始めた。






 窓から見える秋の庭はすでに夕日で赤く染まった。

 窓際のソファに座る秋生も染まり、床の上から秋生の膝に顔を埋める柊永も染まる。


 昼に家を出た凜生と望生が帰ってくるまで、あと1時間となった。

 秋生は昼に凜生と望生がいなくなってから窓際に座り続け、柊永は秋生の膝に顔を埋め続けた。


 凜生と望生がいない長い時間、秋生と柊永は互いに怖れ、互いに一言も発さなかった。


 秋生は赤く染まった今ようやく怖れを失くすため、柊永の赤い背中に手を伸ばす。

 秋生の手が触れた柊永はわずかも怖れることなく、安堵した秋生の顔は初めて柊永の目に見上げられる。

 柊永の背中が怖れなかった代わりに、柊永の目は安堵した秋生の顔に怖れた。

 秋生の顔も再び怖れた。


「秋生、怖い」

「……柊永、私も怖いの。許してほしい」

「秋生は何が怖い? 俺は何を許す?」

「柊永はわかってる、全部わかってる。お願い、答えさせないで」

「俺はわかってる…………秋生、一生答えないでくれ」


 さっき怖れる理由を秋生に答えさせようとした柊永が、今度は反対を願った。

 秋生の顔もまた安堵した。


「秋生、凜生はまた気付く」

「え?」

「望生もそのうち気付く」

「……何を?」


 秋生は安堵したせいで、柊永の言葉がとっさに理解できなかった。

 理解した時には、すでに柊永の言葉の意味を問うた後だった。


「俺だけが食わねえ理由だ」


 柊永は1週間前作ったシチューを、秋生には言葉にもしなかった。

 

 柊永は昔、自ずと気付いたのだ。

 秋生が柊永の作るシチューだけに心の中で喜ばなかったことを。

 そして柊永は秋生の喜べない理由にも気付き、シチューだけは作らなくなった。


 しばらくして柊永は、もう1つ気付いた。

 秋生の心に一生残そうとする男を。


 柊永は気付いてしまったから、さっき秋生に一生答えさせなかった。

 秋生は気付かれてしまったから、さっき柊永に一生答えさせてもらえず安堵もしてしまった。


 さっき柊永の怖れた目は秋生の安堵した顔を見つめた。 

 秋生は今も柊永の怖れる目で見つめられ、ようやくさっきの安堵を後悔した。


「秋生、一生答えないでくれ」


 柊永はわざわざ再び秋生に願った。


「秋生、もう残すな」


 秋生は柊永の本当の願いをとうとう教えられた。


 秋生と柊永がまだ赤く染まるうちに、玄関チャイムが鳴った。





「望生、挨拶」

「お父さん、お母さん、ただいま」

「ふふ」


 今日は父に玄関ドアを開けられてすぐ母を探しに行ってしまった望生は、すでに母の膝で甘えながら挨拶する。

 望生を咎めた父と望生に笑う母をまだ離れた場所から見つめる凜生は、父と母に揃って見つめられた。


「凜生、どうした?」

「凜生、お帰り。おいで」


 父に不思議がられ、母に手招きされ、凜生もようやく家族の傍へ近付く。


「……ただいま」

「あれ? そういえば帰るのが早いんじゃない? まだ4時半」


 凜生と望生がいつもより30分早く帰宅したことに気付いたのは、母だった。

 母に教えられようやく気付いた父も、再び凜生を不思議そうに見つめる。


「凜生、今日の稽古はどうした?」

「お父さん、お母さん、ごめんなさい…………今日は集中できなくて、早く帰ったの」

「……洸斉叔父さんは許したのか?」

「うん」

「だったらいい。でも凜生、今日集中できなかった理由を話せ」

「………………」

「いいじゃない、もう帰っちゃったんだもん。凜生おいで」


 柊永は初めて稽古を途中でやめ帰ってきた凜生を心配したが、秋生はただ凜生の手を引っ張った。


 望生と一緒に母に抱き締められる凜生は、今日も夕食を作るためキッチンへ向かう父の背中を見つめる。

 いなくなった父の心はわからなかったが、抱き締めてくれる母の心は凜生と望生にとても安心してるのがわかった。

 今日父と母のいる家を心配し早く帰った凜生は、初めて母の傍をわざと離れたくなくなった。




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