凜生と望生
「凜生」
他の子供達と共に剣道場を後にしたばかりの凜生は、背後から呼ばれ振り向いた。
剣道の師範である木野 洸斉は凜生を呼び止めたにもかかわらず、目を瞬かせる。
「先生、何でしょうか」
「……いや、驚いた。凜生は昔のお父さんそっくりだ」
洸斉に呼び止められた理由を尋ねた凜生はただ感嘆され、稽古後も締めたままだった表情がようやく和らいだ。
「凜生はやっぱりお父さんそっくりが嬉しそうだ」
「はい、父は私の理想です」
「お父さんはもうとっくの昔に剣道を辞めたのに、凜生の理想か?」
「関係ありません。私は昔の知らない父にならって剣道を始めましたが、父のような強い人になります」
物心ついた頃から父親を一心に尊敬する凜生は、名前の如く凜とした表情で信念を伝えた。
凜生の指導者だが大叔父でもある洸斉は、父親から受け継いだ切れ長の目を持つ凜生にまっすぐ見つめられ、改めて昔の甥を思い起こした。
昔の洸斉も小さい甥にまっすぐ見つめられれば驚いたものだが、凜生にも同じ驚きを覚えさせられる。
同年代より遥かに大人びた精神の少女は、まだ8歳だった。
「先生、それで何でしょうか?」
「……ああ、そうだった。私はこれから用事があって凜生の家を通るから、帰りは車に乗りなさい」
「いえ、私は歩いて帰ります」
「遠慮するな。凜生の家は一番遠いんだから」
「遠慮ではありません。私は歩いて帰りたいんです。望生にも歩かせます」
洸斉の気遣いをはっきり断った凜生は手を繋ぐ弟を見下ろす。
「望生、洸斉おじさんに挨拶して」
「洸斉おじさん、さようなら」
凜生より3歳年下の望生は小さい声でも大叔父の洸斉にしっかり挨拶すると、凜生も笑みを浮かべる。
「先生、今日もご指導ありがとうございました」
最後に頭を下げ洸斉に挨拶した凜生は綺麗な黒髪のポニーテールを揺らしながら、手を繋ぐ弟と再び歩き始めた。
「一体あの子は誰に似たんだ…………あ、そうだった。父親だ」
年齢不相応な凜生に最後まで感嘆させられた洸斉は、再び昔の甥を思い出した。
剣道場から自宅まで徒歩30分の帰り道、凜生は今日も弟と手を繋ぎ一緒に帰る。
土曜日の午後は剣道を習うため大叔父の道場に通っている凜生だが、いつも一緒に通う望生は剣道を習っていない。
凜生が稽古に打ち込んでる間、望生はいつも隅で見学している。
姉が剣道を始めた1年前から姉と一緒に道場へ通う望生は、望んでるわけではなく習慣でしかない。
土曜日は必ず姉と一緒に片道30分を往復することも、姉の稽古中はじっと正座し待つことも、望生は今まで不満1つ零すことなく従い続けている。
どうせ通うのだから望生も剣道を習えばよいのだが、大人しい性格の望生にはその意思もない。
凜生も弟に剣道を勧めることはしないが、一緒に帰り道を歩く弟を見下ろしながら改めて思う。
弟は母そっくりだと。
夕方の5時前、自宅の一軒家に辿り着いた姉弟はチャイムを鳴らす。
玄関ドアを開けてくれたのは父の柊永だった。
「お帰り」
「ただいま、お父さん」
「ただいま、お父さん。お母さ――ん!」
凜生と望生は父と挨拶を交わすと、さっきまで大人しかった望生は大声で呼んだ母をさっそく探しに行く。
それまでリビングにいた秋生はたった今帰ってきた望生にすぐ見つけられた。
「お帰り、望生」
まだ5歳の望生はソファに座る母に笑顔で手を広げられ、喜んで飛び込む。
凜生も父と一緒にリビングへ入った時、望生は母の膝ですっかり甘えていた。
「ただいま、お母さん」
「お帰り凜生、今日も頑張ったね」
秋生は望生を膝に乗せながら傍に近付いた凜生に手を伸ばし、ポニーテールの頭を撫でた。
「凜生もおいで」
凜生は今日初めて照れた表情を浮かべ、母の隣に座る。
しばし離れた母に甘える子供達を見守った柊永は、キッチンへ向かい夕食の準備を始めた。
「はい望生」
今夜父が作ってくれた夕食は寄せ鍋だったので、凜生は小さい望生の分をよそう。
望生は姉がよそってくれた鍋の具に嫌いなシイタケも入っていて、静かにショックを受ける。
凜生は心の中でクスリと笑いながら自分の分もよそってしまうと、隣の父にお玉を渡した。
「お父さん、お母さんによそってあげて」
「あ、だめ」
望生は父親に渡るはずのお玉を取り上げてしまった。
「ぼくがお母さんによそう」
「ありがとう望生、熱いから気を付けて」
「お母さんの好きなシャケ、お母さんの好きなネギ、いっぱい」
「望生、鮭とネギはそのくらいでいいよ。代わりに白菜入れて」
「ハクサイ…………あ、これだ。ハクサイもいっぱい。はい、お母さん」
「ありがとう望生、嬉しい」
秋生は望生がよそってくれた具の偏る大盛りの鍋に苦笑交じりで喜ぶ。
「お母さん、おいしい?」
「うん。お父さんが作った鍋、すごく美味しい」
「ぼくがよそった鍋だよ」
「そうだね。望生がよそってくれた鍋、すごく美味しい」
今夜も母の隣をしっかり独占する望生は母が自分のよそった鍋を喜んで食べると、同じく喜んだ。
「望生も食べて」
「お母さん、シイタケきらい」
「はいはい、あーん」
「トーフ、きらい」
「望生は豆腐好きなのに。はい、あーん」
望生は母に食べさせてもらうため、椎茸だけじゃなく鍋の具すべて嫌いになってしまった。
そんな望生はまだ幼稚園児ではあるが、まるで更に下の2歳児のようだと、凜生は鍋を食べながら今日も思う。
母に甘えすぎる弟に呆れたりしないが、あまり気分の良いものではないのも本音だ。
普段誰に対しても大人しい弟は母に対してだけ独占力の塊で、そんな弟と違って甘え下手な凜生は見守ることしかできない葛藤がある。
誰に対しても大人びてる凜生だって、まだ8歳の小学生なのだ。
けれど凜生は母に甘え上手な弟を多少嫌がるよりも、困る気持ちの方が大きかった。
「お父さん、私また洸斉おじさんに昔のお父さんそっくりって言われたよ」
「凜生が生まれた時から叔父さんの口癖だからな…………凜生は完全に俺似だ」
柊永は隣に座る昔の自分そっくりな娘を見つめ、性格まで似てしまった娘に内心申し訳ない気持ちも否めない。
娘だから余計母親に似てほしかった思いがあったが、娘本人は大叔父に口癖を言われるたび毎回嬉しそうに報告してくれる。
「凜生はお父さんそっくりだけど、言葉遣いは正反対だね。よかった」
秋生が笑って安心した通り柊永の荒々しい言葉遣いだけ似なかった凜生は、小学2年生とは思えないほど誰に対しても丁寧な口調だ。
「お母さん、私は昔陽大君に注意されたの」
「え? 陽大?」
「それだけはお父さんに似てはいけないって。陽大君は昔お父さんの真似をして、お母さんによく睨まれたから」
「ふふ、そうだった……じゃあ陽大のお陰かな」
凜生に笑って教えられた秋生も、まだ小さかった弟の陽大が大好きな柊永の口調を真似るたび睨んだことを思い出し、一緒に笑う。
「あ、お母さん、ご飯おかわりする?」
「ううん、食べたいけど太っちゃうから」
「じゃあ半膳だけ食べたら?」
「……そう? じゃあ半膳だけ」
「お父さん、お母さんのご飯よそってあげて」
「だめ、ぼく」
凜生は父によそってもらおうとしたが、母の空になった茶碗を取った望生が炊飯器へ走った。
「はい、お母さん」
「望生ありがとう……でもお母さん、こんなに食べられるかな」
「ぼくが食べさせてあげるよ。お母さん、あーん」
母の茶碗にいっぱいご飯をよそった望生は、困ったように笑う母に食べさせ始めた。




