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幸福の朝




 カーテンの隙間から差す優しい朝日に照らされ、薄く瞼を開いた。


 休日の今朝、普段の起床時間より少し遅く目覚めた秋生は、すでに一部ともいえる温もりが感覚と共に失った身体にわずかな違和感を覚えた。

 確かめるように振り返ると、すでに何もない隣に今日も諦めの息を吐く。

 ベットからゆっくり起き上がり、重い身体を手で支えながら寝室を離れた。



「……おはよう」


 シンク前に佇む背中に呟いた秋生の挨拶は、爽やかな朝に似合わず重たく響いた。

 そんな背後からの呟きに振り向いた柊永は、穏やかな笑みと共に秋生を迎え入れた。


「おう」


 短い挨拶を返すと、そのまま秋生の腰に優しく手を回す。

 明らかに不満げな妻の目を一切気にすることなく、少しばかり尖った妻の唇に甘く口づけし始めた。

 普段と変わらない夫を結局すぐ諦めた秋生は、無理矢理こじ開け入ってくる夫の舌も諦める。

 妻の諦めを舌で感じ取った柊永は角度を変えながらより深く絡め、妻の腰に添えた手も合わせるように撫で回した。

 爽やかな朝にあるまじき夫の行為にとうとう抵抗した秋生は、夫の胸を無理やり押し離す。


「もう、何度も言ってるのに。どうしてここにいるの?」


 再び不満顔を戻した秋生はようやく文句を口にする。

 腰に回された彼の手からも逃げ出すと、辺りを細かく見回し始めた。

 整然とした部屋は塵一つ存在せず、晴れたベランダには洗濯物が綺麗にたなびいている。

 すでにテーブルに朝食も出来上がってる完璧な仕上がりは、情けなくも確実に自分より手早く正確だ。

 今日もすべての仕事を奪われてしまった秋生の心は、贅沢にも有難さを通り越し夫への呆れで溢れている。

 妻の不満などすでに聞き飽きてる柊永はあっさり無視し、妻を食卓の椅子に座らせた。

 

「今日は?」


 秋生の前で跪いた柊永は、そのまま秋生のお腹に優しく手を添える。

 柊永の温度を服越しにじんわりと感じた秋生も再び諦め、ようやく笑みを浮かべた。


「うん、大丈夫」


 休日の遅い朝、秋生の身体は夫の心配をよそにすっかり腹を空かしてる。

 秋生の返答を聞かなくても察してる柊永は、それでも秋生の優しい笑顔で見つめられ表情を和らげた。

 変わらず夫の目に覗き込まれようやく気付いた秋生は、彼の頬を包み込む。


「いつもありがとう」


 素直に感謝を囁くと、今度は自分から唇を触れ合わせる。

 この時ばかりはすべて妻に委ねる柊永はその甘すぎる幸福に、わずかな力も奪われた身体に痺れるような震えを走らせた。


 突然リビングのドアが勢いよく開かれ、秋生はビクッと身体を震わせた。

 柊永から慌てて離れると、ドアに視線を向ける。


「……あ、ごめん」


 リビングに身体を半分踏み入れた陽大は偶然にも姉のキスシーンをしっかり目撃してしまい、とりあえず思いきり顔をそらした。

 突然現れた弟にすべて見られた秋生は羞恥を通り越し、がっくりと項垂れる。 

 互いに気まずくなった姉弟とは違い眉間に皺を寄せた柊永は、タイミングが悪いとばかりに陽大を睨みつけた。




 陽大は今朝も義兄が作った朝食をゆっくり味わいながら、隣に座る姉へ視線を向けた。


「俺もとうとうおじさんかぁ……」


 すでに大きく膨らんだ姉のお腹を見つめ、感慨深く呟く。

 秋生はそんな弟におかしく笑った。


「頼りにしてるからね、おじさん」


 姉にからかい混じりで期待された陽大は複雑そうに表情を歪めた。

 それも照れ隠しに過ぎないとわかってる秋生にとって、そんな弟も微笑ましい。

 同じく姉に悟られてることを十分察してる陽大は結局この姉に対しての思いなど、今は心配だけに過ぎないのだった。

 親代わりに自分を育ててくれた姉の為なら、叔父としての些細な苦労など最初から覚悟の上だ。

 いや、もしかしたら楽しみとさえ感じてるかもしれない。

 それをあえて表面に出さないのは、ただ向かいに座る義兄に遠慮してるからに過ぎない。

 姉の心配を取り上げるのは義兄の喜びなのだから、弟の自分は今は大人しく見守っていれば良いのだ。



「じゃあ俺、そろそろ出るから」


 朝食を綺麗に平らげた陽大は、さっさと椅子から立ち上がった。


「もう? 遊びにでも行くの?」

「……まあ、そんなとこ」


 来年受験を控え部活も引退したばかりの陽大に対し不思議そうに問う姉に、曖昧に濁した返事を返した。


「……お前、彼女できたのか?」


 そんな陽大の態度を訝しがった義兄に尋ねられ、思わずピタリと動きを止める。


「え!? 陽大そうなの?」


 驚きを露わにした秋生は、陽大に心配の目を向けながら確認する。

 陽大はそんな姉に答えることなく、向かいの義兄に呆れた視線を向けた。


「俺がいたらさ、柊君の不満が溜まるでしょ? これでも一応気を遣ってるんだからね」


 それでなくともすぐ近い未来、我が家に大切な家族が1人増えるのだ。

 心配性な姉は弟の自分にもそうだったように、我が子に掛かりきりになるだろう。

 今しかない2人だけの幸せを邪魔するほど、陽大は鈍感ではない。

 そんな陽大の思いを見抜くことができなかった義兄は、おそらく所詮幸せボケというやつかもしれない。

 陽大のふんだんに呆れを交えた気遣いの言葉に、柊永も結局ばつが悪そうに沈黙した。

 図星を突かれた義兄を最後は楽しく見つめた陽大は今度こそ挨拶を残し、外へ出掛け始めた。




「彼女かぁ……」


 とりあえず友達の卓巳の家へ向かうためトボトボと歩き始めた陽大は、さっきの義兄の言葉を思い出し複雑な表情を浮かべた。


 姉が心配の目で自分を見つめた気持ちも十分理解してる。

 高校生になっても今だ異性の話をしたことない弟に対して、やはりわずかな懸念を抱いてたのかもしれない。

 そして突然降って湧いた弟の彼女の存在に戸惑いを見せる姉にとって、自分はやはりいつまで経っても子供なのだろう。


 心配など最初から無用なのだ。

 彼女など存在するわけがない。いや、そもそも好きな異性さえ今まで存在しないと知ったら、姉は本格的に心配が絶えなくなるだろう。

 姉の動揺を安易に想像できる陽大にとって、間違っても知られてはいけない事実だ。


 おそらくこんな自分を理解してくれるのは、あの義兄くらいかもしれない。

 幼い頃一時期であっても柊永に育てられ、そして彼を見て育ったのだ。

 真っ直ぐに1人の女性を愛し抜く義兄の姿は、幼い陽大の心に深く影響を残した。

 それは今でも消えることなく染みついている。


 高校生である今、異性から告白されることはあってもどうしても一歩踏み切れないのは、結局義兄が陽大を邪魔するからだ。

 そして間近で見つめる姉夫婦のお蔭でとんでもなく理想も高くなってしまった陽大は、わずかな興味程度で彼女など作れるはずもない。

 今の陽大がこんなにのんびり構えてられるのも、結局義兄のせいに他ならない。

 義兄が姉に出逢えたように、自分にとって唯一の存在にいつか必ず出逢えるだろうと信じている。

 何とも純粋で乙女心にも似た思いは、高校生の陽大にとって決して人には言えない真実の心だ。

 それでも陽大には義兄という心強い味方が傍にいる。


 姉夫婦と共にある、今はそれだけで十分幸せな陽大だった。



「お――い! 陽大!」


 俯きながら歩いてた陽大は突然呼ばれて顔を上げると、今日も姉夫婦を邪魔しに来た真由が車から顔を出し手を振っていた。

 

「……はは、まさかね」


 そんな真由の笑顔に一瞬見惚れてしまった陽大は慌てて目を擦った。 






「うーん…………もしかして本当に彼女が出来たのかも」


 弟の心露知らず、今だ1人心配し続ける秋生は唸りながらリビングを彷徨っていた。

 姉の自分も奥手だったが、弟は輪をかけて奥手そのものだ。

 今まで異性の話をしたこともない弟に、もしかしたらとうとう春が訪れた可能性は姉にとって大変喜ばしい限りだが、同時に上手くやれるかとお節介も付きまとう。

 今まで陽大を我が子のような思いで育ててきた秋生故の心配だった。


 いつまでも唸りながらリビングを彷徨う秋生の姿をソファに座りながら暫く見つめた柊永は、とうとう堪らず息を吐いた。

 余計なことを言うべきではなかったと今更後悔しても意味がない。

 結局自分は義弟に一生敵わないのだ。


「秋生、来い」


 いい加減痺れを切らせた柊永は目の前でうろつく妻を強引に掴み、自分の膝に座らせた。

 絶対逃げ出さないように、妻の身体を後ろからぎゅっと抱きしめる。

 せっかく気を利かせ出掛けてくれた義弟の思いを無下にする気など毛頭ない。

 せめて2人の時間くらい妻の心すべて与えられなければ、耐えられるはずもない。


 妻の大きいお腹に自然と添わせた柊永の手に、ポコンと1つ振動が伝わった。

 今日も妻のお腹の中で元気に合図を送る愛しい存在に、さっきまであったわずかな苛立ちも自然と笑みに変わった。


「どっちだろうな」


 夫にお腹を撫でられながら優しく問われた秋生は、同じく優しい笑みを浮かべた。


「どっちかな」

「秋生に似ればそれでいい」


 何とも夫らしい答えに思わず苦笑する。

 同じく夫に似てくれればとささやかに願っていた秋生だが、結局はこの夫の子だ。

 元気であればそれで幸いなのだ。


 愛しい夫の胸に包まれながら、秋生の幸福の朝は優しく過ぎていった。




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