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共の始まり 前編




 瀬名 啓斗はどこにでもいる普通の少年達と何ら変わらない、落ち着きのない少年だった。


 常に楽しさを求め外を駆け回り、近所の子供達とくだらない話をして盛り上がる。

 ただその日だけを見つめ目先の面白さに飛びつく、単純で、素直で、子供らしい子供だった。

 まだ幼かった啓斗はそんな自分に疑問を持つことなく、そしてまだ幼いからこそ何を問う必要もない。

 成長を急ぐことも過去を振り返ることもなく、ただこの瞬間を楽しく過ごせば満足だった。


 そんな世間一般のどこにでもいる少年をただ1人だけ心配の目で見つめたのは、啓斗の母親だった。


「あんた、明日から剣道始めなさい」


 幼児を過ぎても一向に落ち着く気配がなく常に慌ただしい息子に一言伝えた母親は、勝手に決めてしまった。

 剣道とは何ぞや。啓斗にとって一度も耳にしたことがない響きは当然意味もわからず、しかも母親が勝手に押し付けるものに興味が湧くはずもない。

 遊ぶ時間が減るからとすぐさま抵抗したが、それでも母親は啓斗を近所の剣道場へ容赦なく連れて行った。


 指導者を相手に笑顔で挨拶する母親の隣で1人納得できない啓斗は、ただふて腐れる。

 目の前で声張り上げ竹刀を振る子供達の姿を、何が楽しいのかと興味なく見やった。


 面を外し顔を見せた子供達の中に、1人見知った少年の姿があった。

 啓斗はその少年が面を外した瞬間、無意識に引き込まれた。


 偶然の再会に驚いた。

 まさかこんな場所で会えるなど想像もしていなかった。

 啓斗はただ目の前にいる少年を一心に見つめた。

 その少年だけを見つめる啓斗とは違い、一本筋の通った姿勢で正座した少年は何もない前を見つめた。

 まるで少年の周囲だけ騒音を失くしたように静粛で、異質で、そして少年の姿は美さえ感じさせるものだった。

 誰も寄せない、そして誰も傍に寄ることを躊躇わせる孤高といえる存在に、ただ啓斗は吸い込まれるように惹きつけられた。


 啓斗はその少年をすでに知っていた。

 クラスは違うが時々廊下ですれ違う少年で、のちに同い年と知った時はただ驚かされた。

 年齢不相応の背丈も、何とも大人びた顔立ちも雰囲気も、自分とも周りともかけ離れて見えた。

 ただ偶然少年とすれ違うたった一瞬、啓斗はいつも少年を見つめた。

 啓斗の目は自分の存在に気付かない少年の後ろ姿まで、無意識に追いかけた。

 そして今日、道場に現れた新たな見学者の啓斗に周りの子供が多少気にする中、少年は1人関心を示さず前だけを無心に見つめる。

 そんな少年だけを見つめる啓斗の心に溢れたのは、純粋な歓喜だった。


 少年の何が啓斗の琴線に触れたのか、けれどおそらく自分だけではないことも啓斗は十分わかってる。

 ただ少年に近付きたいのだ。

 そこに理由は存在しない。

 啓斗はただその中の1人に過ぎないが、幸い周りよりも素直さが勝った。

 少年に近づくチャンスなのだ。

 それだけを求めた啓斗は、いつの間にか隣で自分の様子を窺う母親に笑顔で頷いた。


 木野 柊永――――後に長い付き合いとなる少年との新たな出会いだった。




 何とも子供らしい貪欲なまでの素直な心は、確実に啓斗を有利にしてくれた。

 柊永に近付くことを躊躇う他の子供達と違い、啓斗はそんな気など更々ない。

 柊永の隣に立ちたい、ただそれだけの為にひたすら剣道場へ通った。

 誰に遠慮することもなく彼の隣をキープし、予想外にも厳しい指導者のもと稽古に励んだ。

 息を上げ情けなくも顔を歪ませる啓斗に対し、いつも強い目で前だけを見つめる柊永の姿は、やがて啓斗の心に尊敬の念さえ抱かせた。

 同時に生まれて初めて心の底から込み上げる感情は、焦りと悔しさでもあった。

 柊永の隣にありたい、けれど今の自分では彼の隣に堂々と立てない。

 ふさわしくない。

 どうしようもない苛立ちは初めて啓斗に成長を望ませた。

 柊永の隣に居られればそれだけで良いなど、すでにそんな思いは通り越した。

 友でありたいのだ。

 今は無理であっても、認められずとも、いつか堂々と彼の隣で友だと宣言できる自分になりたい。

 気を許され、そして頼られる存在として共にいたい。

 啓斗が初めて自ら望んだ成長は母親が与えた剣道ではなく、柊永によって引き出された。

 彼がもたらす啓斗への影響は絶大だった。


 まるでチャンスを窺うように柊永の隣にいた啓斗は、それでも待つことしか許されなかった。

 ただ柊永にならい隣に居続ける自分をその目に認めてもらえる瞬間を、彼を見続けることで待った。

 寡黙な彼の声を、彼の強い目を、ただひたすら待つ啓斗は、すでに少し前の自分ではなかった。


 啓斗の本気をすでに悟っていたのも、やはり柊永だった。

 ただ自分の許しを待つだけに隣に居続ける少年に、柊永は初めて視線を向けた。

 柊永の強い目を初めて受けた時、啓斗の身体は一瞬震えた。

 一度囚われた啓斗はもう逃げることを許されず、そして怖れにも似た震えはすぐに歓喜の震えへと変化した。


 共にあることを柊永に許された瞬間だった。






「お兄ちゃん、柊君は?」


 すでに日常と化している妹の第一声は、とうとう学校帰りの兄を労わる挨拶さえ省かれた。

 今日も期待で胸を膨らませた妹は玄関先で兄の啓斗と向かい合うと、視線をすぐ兄の背後へ向けた。

 ただ静かに玄関ドアを閉めた啓斗に対し一瞬で落胆の表情を浮かべた妹は、あまりにも素直で単純だ。

 啓斗は今日も嘆き始めた妹の姿に、さっき実の兄を蔑ろにした妹へのわずかな不満も同情へと変化せざるを得ない。


「まあ、あいつも忙しいんだよ。また今度な」


 何だかんだと妹思いの啓斗は今日も決まって慰めの言葉を口にする。

 それでもリビングのソファに突っ伏した妹は足をバタつかせ、兄に向かって不満を露わにした。


「そんなこと言って、もう1カ月も遊びに来ないじゃん! 今日は剣道ない日なのに!」

 兄の為ではなく兄の友人目的で、常に兄のスケジュールを把握してる妹は、今も啓斗が週に3日通い続ける剣道の日もそれ以外の日も忘れない。

 ついに啓斗を睨みつけた妹の目はわずかに潤んでいて、今日も啓斗は妹の本気を改めて思い知らされる。

 この妹は今、純粋に恋をしてるのだ。

 時々兄が連れてくる柊永に、もう何年も報われない片思いを続けている。

 啓斗が学校からまっすぐ帰宅する週に1、2度訪れるチャンス、妹は胸に秘める恋心を隠すことなどしない。

 ただ一目その姿を目に焼き付けるために、そして一瞬でしかない微かな視線をもらうため、我が家の玄関で待ち続ける。

 何とも健気で、そして哀れにも思える妹に対し、兄の啓斗ができることといえば結局同情だけだ。

 2歳下の妹はまだ小学生だが恋心は既に一人前の女性であって、しかも傍にいる啓斗が思わず圧倒されるほど本気の恋だ。

 内心複雑な心境の啓斗が純粋に応援できずにいるのは、ひとえに相手があの柊永だからに他ならない。

 啓斗が妹の恋心をヒリヒリと痛いくらい感じるのだから、当の柊永が気付かないわけがないのだ。

 すでに恋心を見破られてることに気付いてないのは、この純粋すぎる妹くらいである。


「私も明日、道場行こうかな……」


 とうとう我慢の限界に達したらしい妹の呟きに、啓斗もさすがに難色を示した。


「そういうの、あいつが一番嫌がること知ってるだろ」

「……言ってみただけだもん、バカ」


 兄に対しての暴言も、涙混じりの弱々しい声では怒る気にもならない。

 今だソファに顔を埋める妹の頭を優しく叩いた啓斗はごめんなと一言残し、リビングから離れた。



 啓斗が初めて我が家に柊永を連れてきたのは、5年前の小学生時だ。

 初めて訪れた柊永の姿にすっかり心を奪われてしまった妹は、つまり5年間一途に片思いを続けている。

 そして、それは決して妹だけでは済まない。

 姉妹に挟まれた啓斗は2歳上の姉も、そして啓斗の母親さえも、柊永がいたくお気に入りなのだ。

 しかし我が家の女性陣の気持ちを一番理解できるのも、啓斗かもしれない。

 意味は違えど、友人の姿に最初に惚れ込んだのは自分だ。

 間近で接する機会に恵まれた以上、あの柊永に惹かれるなという方が難しいかもしれない。

それほどまでに柊永は外貌も中身も極上の男なのだ。

 そして自分の影響力を一番察してるだろう柊永は、他人を安易に寄せ付けない。

 大袈裟ではなく彼に近付く為には、彼に認められなければいけない。

 運良くも彼に認められた啓斗は、今では気心の知れた一番の友人として傍にいる。

 しかし啓斗を認めたからとその家族も含めてといった気安さを持たないのも、柊永だ。

 家に現れた自分に対し見惚れる女性陣に挨拶以外余計な親しみを見せない態度も、彼にとって一種の予防線なのかもしれない。

 毎回遊びに来てもすぐ啓斗の部屋へ向かってしまう柊永の姿に、啓斗の母と姉はいつだって未練タラタラで諦める。

 けれどまだ幼く本気の恋心を抱く妹は、玄関先で一瞬だけ触れ合せる視線と短く交し合う挨拶に胸をときめかせ、今度は帰宅のため部屋から出てくる姿をリビングで耳傍たて待ち続ける。

 柊永は本気の妹に確実に予防線は張るが、気持ちに応えられないからと我が家への訪問を遠慮することもしない。

 己を知り他人によって曲げることを良しとしない、同性として惚れ惚れするほど真っ正直な彼の性格は、相手の一方的な想いなどで揺れるはずもない。

 啓斗が妹に同情しか向けられないのも相手が柊永だからこそだ。




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