希望へ
今朝柊永と向かい合い思いがけずプロポーズした秋生は、その夜も彼の家で再び向かい合った。
再び向かい合うことを望んだのは秋生ではなく、柊永だった。
柊永は今いつものように秋生と離れないのではなく、床に座る秋生と向かい合う。
秋生は向かい合う柊永を暫く静かに待った。
柊永はようやく普段の彼らしくない震えた唇を開いた。
「……秋生、悪い」
「何が?」
「…………」
「言うのが怖いの?」
「……ああ」
「私に怖がられるかもしれないから?」
「……秋生、怖がってもいい」
柊永は秋生に怖がられることが一番怖ろしいのに、向かい合う秋生に震えながらそれを望んだ。
秋生は柊永が震えるほど怖ろしくても自分に怖がられることを望んだ理由を、すでに知っている。
それでも柊永の震える告白を再び待った。
「……俺は子供を作った」
「私の子供?」
秋生の確認に、柊永はもう頷くことすらできなかった。
秋生は昨夜の子供になった彼のように、今自分に脅えきる彼があまりにも可哀想で、それ以上の彼の告白を望まなかった。
「柊永が今よりずっと後悔しないように、店長が最初に教えてくれたの。だから今の私には子供がいない」
「……秋生」
「今後悔してる柊永は、私をもう絶対離せなかったせい。でも柊永を一度離した私のせい。私も一緒に後悔させて」
柊永の後悔を半分引き受ける為、秋生の手は柊永の冷たい手を握る。
秋生の温かい手はただ柊永の手を温めた。
秋生の優しい笑顔は柊永の脅える心をゆっくりと溶かした。
秋生はようやく温かくなった彼の手に安心し、彼に脅えられなくなって今度はおかしい笑顔を浮かべた。
「私は昔から柊永を怖がらせてばかりだね…………だから柊永は昔から言ってくれないのかな」
「……何を?」
「愛してる」
「…………」
「気付いてなかった? 柊永は私にばっかり言わせて、まだ一度も言ってくれないよ」
秋生におかしく笑われながら指摘された柊永は、本当に初めて気が付いた。
昔も今も秋生からの言葉ばかり求めたせいで、ようやく気付いた今ひどく落胆する。
「……秋生、悪い」
「落ち込まないで」
秋生は下を向く柊永の頬を両手で持ち上げた。
初めて彼の真似をして、彼の唇にキスをする。
「柊永、言って」
彼の真似をし催促すると、彼も秋生の真似をし優しく微笑んだ。
「愛してる」
愛してる。
愛してる。
その夜、柊永は秋生に何度も繰り返した。
とある高層ビルの玄関ホールには、スーツ姿の男女が足早に行きかっている。
受付から向かって斜め右の応接用ソファに腰を落ち着けると、普段は縁のないこの場所をゆっくりと見渡した。
「……水本さん?」
名前を呼ばれた秋生は反応するように立ち上がり、振り返った。
すぐ背後に佇んでいたスーツ姿の男性を確認するように見つめる。
「……久しぶり、瀬名君」
童顔だった彼の面立ちは今もそう変わってなかったが、記憶にある彼のトレードマークだった派手な髪とピアスはすでに存在していなかった。
すっかり落ち着き払った彼の姿に、嫌でも年月の流れを実感させられる。
軽くお辞儀した秋生はソファに座るよう促された。
再び腰を下ろすと、同じく向かいに座った瀬名はわずかに目を細め秋生の姿を見つめる。
「水本さん、変わってないね…………あの頃のまんまだ」
懐かしさを込めた彼の声に、秋生はただ彼を見つめることで返事を返した。
柊永の友人――瀬名の連絡先を今は知らない秋生は、中学時代の知人に尋ねようやく彼の勤務先を知ることができた。
今日彼が働く会社を訪れた秋生は、受付を通し彼を呼び出してもらった。
およそ10年ぶりの再会だった。
「あいつは相変わらず用心して、俺のこと何も話さないんでしょ?」
「……そんなことないよ」
確かに瀬名の言う通り、聞いても教えてはくれないだろう。
秋生自身も直接柊永に瀬名の連絡先を尋ねはしなかった。
今日彼に会いに来たのは秋生自身の問題だったからだ。
向かい合う瀬名はそれ以上言葉を続けず、ただ秋生を見ていた。
静かに、秋生を待っていた。
「瀬名君…………ごめんなさい」
秋生はゆっくりと瀬名に向かって頭を下げた。
この言葉を言うのに結局10年かかってしまった。
決して短いとは言えない年月が経ってからの謝罪ほど、意味のないものはない。
過去に柊永を託し去った秋生の代わりに、彼の傍にいてくれた。
おそらく柊永の家族同様、相当な苦労と共に心を痛めただろう。
それはすべて秋生のせいである。
瀬名にとって柊永という存在がどれほど大切かを、秋生もよくわかってる。
そんな瀬名だからこそ、秋生は過去柊永を託すことができた。
そして彼に言えるのは感謝ではなく、謝罪しかない。
秋生の謝罪に、瀬名は特に表情を変えず暫く沈黙していた。
「……あの日、水本さんに会いに行ったこと、ずっと後悔してた」
秋生がようやく顔を上げると瀬名はわずかに視線をそらし、過去の自分を静かに語った。
秋生にとっても昔瀬名に最後会った日は、生涯忘れてはいけない日だった。
そしてあの日瀬名に会ったからこそ、ようやく柊永を手離すことができたのも確かだった。
「この前、あいつも俺に会いに来た…………あいつの顔を見た時、俺も初めて安心できたんだ」
瀬名の言葉通り、彼の声にも深い安堵が滲まれていたが、秋生はただ静かに耳を傾け続けた。
秋生を見ない瀬名の目が、突然切なく歪んだ。
「……あいつの、あんな姿を見たかったわけじゃないんだ」
まるで遠くに呟くような瀬名の姿は、確かに過去の後悔そのものだった。
友を思い正しい行動であったとしても、それは確かに彼を苦しめ続けた。
1人の友人として、幼馴染として、純粋に友を思った瀬名の後悔は、おそらくこれからも彼の心に残り続けるのだろう。
そして今、秋生の心にも瀬名の後悔の思いが染み入り、跡を残した。
瀬名はようやくそらした目を戻し、秋生を見つめた。
「あいつをよろしくお願いします」
瀬名はその目に秋生への感謝の思いだけを浮かべ、優しく微笑んだ。
短い言葉で返事した秋生もその目に瀬名と同じ思いを滲ませ、深く頷いた。
午後から仕事を休ませてもらった秋生はそのまま真由の家に帰り、シンプルなワンピースに着替える。
鏡の前で念入りに身だしなみを整えてから、再び出掛け始めた。
家を出てすぐ塀に背中を預ける陽大に気付き、わずかに驚く。
「……どうしたの?」
土曜日の今日、陽大は昼過ぎまで部活のはずだった。
まだ帰らないはずの陽大が家の前で佇む姿に、秋生はやや戸惑いながら尋ねる。
「真由ちゃんに聞いたよ。これから柊君の家族に会うんでしょ?」
「……うん」
陽大の確認に躊躇いながら肯定すると、陽大はさっさと歩き始めた。
「陽大」
秋生は1人先の道を歩く陽大を慌てて呼びながら、後を付いていく。
「2人よりも3人で説得した方が、きっと早いよ」
弟の言葉に思わず足を止めてしまった秋生は、そのまま道路に立ち尽くした。
動かない秋生に気付き同じく立ち止まった陽大は、初めて秋生とまっすぐ向かい合った。
「俺たち家族になるんだよ。3人で認めてもらおうよ」
ずっと俯いたままの秋生に優しく伝えた陽大は、突然おかしそうに笑った。
「泣き虫」
「……うん」
指摘された秋生は誤魔化すように顔を覆い隠した。
「秋ちゃん、行こう」
陽大は手を伸ばし、顔を隠し続ける姉の手を優しく取り上げた。
急いで涙を引っ込めた秋生は手を繋ぐ弟に切なさを交えた笑顔を浮かべた。
前だけを見つめた姉弟は、2人の希望に向かって共に歩き始めた。




