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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: 柊月エミ
最終章 希 望 へ
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昼の公園




 陽大と真由を見送ったあと家事を済ませた秋生は午前10時に出掛け始め、水曜日の今日は定休日の珈琲店をのぞく。

 案の定、定休日にもかかわらずカウンター席で新聞を広げる遠山を見つけた。


「店長、こんにちは」

「あら秋生ちゃん、休みなのにどうしたの?」

「朝、稲荷寿司を作ったんです。きっと今日も店長は店にいると思ったんで、持ってきちゃいました」

「わざわざありがとう。どれどれ」


 店に入った秋生が風呂敷に包んだ重箱をカウンター席に置くと、遠山もさっそく重箱を開けぎっしり詰まった稲荷寿司を確認した。


「今日も美味しそう。陽大君が秋生ちゃんのお稲荷さん大好きなお蔭で、毎回お裾分けしてもらえる私は幸せ者ね」

「大袈裟ですよ」

「今日もこんなにいいの? 15個はあるわよ」

「はい、今日も旦那さんと息子さん達にも食べてほしくて」

「秋生ちゃんのお稲荷さんはうちの家族みんな好きだけど、毎回長男が一番喜ぶのよ」

「そうなんですか?」

「あの子はずっと彼女がいないから、女性の愛情に飢えてるのよね…………ほら、あの子時々店に来ると、若い女の子の秋生ちゃんに話し掛けられるだけで照れちゃうでしょ?」

「店長、私は若い女の子じゃありませんよ。もうすぐ30才です」

「まだ30才じゃない。本当は同い年同士の長男と秋生ちゃんにくっついてほしかったんだけどねぇ……」

「私はバツイチですよ。優さんには全く相応しくありません」

「うちの息子はバツイチを理由に秋生ちゃんから全く受け入れてもらえないんだから、やっぱり秋生ちゃんにはあの根性ある彼が相応しいってことね。毎晩彼の家に泊まってるんでしょ?」

「店長、また真由か陽大に聞いたんですか?」

「私は口が堅い秋生ちゃんから教えてもらえないから、今回は真由ちゃんに情けを受けたの。でもさすがに驚いたわ。あの彼が秋生ちゃんと結婚する前に、半同棲に持ち込ませるなんて」

「……私がそんなことするとは思わなかったからですか?」

「まあそれもそうだけど、私は半同棲で妥協した彼に驚いたの。てっきり彼は秋生ちゃんを手に入れてから、結婚だけを目指してるのかと思ったから」


 遠山の驚きは予想外だったせいと聞かされた秋生は、初めて遠山から視線をそらした。


「秋生ちゃんは急に気まずそうね。やっぱり秋生ちゃんのせいだから?」

「そうですけど、詳しい事情は勘弁してください」

「半同棲の原因が秋生ちゃんなら、詳しい事情なんて推測できるわよ。彼は秋生ちゃんが結婚を決意してくれたけど、まだ結婚する気力が足りない秋生ちゃんに折れて、せめて今は半同棲に持ち込むしかなかったのよね…………もちろん秋生ちゃんに足りないのは彼の家族を説得する気力」

「……私に足りないのは気力より勇気です。私はただ意気地がないだけです」

「彼の家族を悲しませる勇気なんて本当はなくていいんだから、秋生ちゃんは怖くて当たり前よ。でもきっと彼は秋生ちゃんに勇気を出させず、自分1人で家族を悲しませたいんじゃないかしら」

「はい、その通りです。でも私はそんな彼も嫌がりました」

「半同棲で我慢してる彼は今が一番堪えてるかもね」

「…………」

「秋生ちゃんもそう思うの?」

 

 まだ結婚できずに秋生と夜一緒の今の彼は正念場だろうと判断した遠山は、沈黙した秋生にも確認する。

 しばらく遠山の手元にある重箱に目をそらしていた秋生は、ようやく観念した気持ちで再び遠山と目を合わせた。


「店長、彼が今堪えてるのは、私が彼を怖がってるからです」

「彼はすぐにでも結婚したいから怖い?」

「最初はそうでした。私が結婚を焦る彼を止めたくて怖がったから、彼も私が毎晩泊まるだけで妥協してくれたんです。私は前、焦る彼が怖かったです」

「今の秋生ちゃんはどんな彼が怖い?」

「今の私は…………離れない彼が怖いです」

「……離れないって、片時もってこと?」

「はい。夜一緒にいる時、彼は私から片時も離れません。大袈裟じゃなく本当に離れないんです……………それに私が彼にお茶を勧めても断られます」

「お茶?」

「1日にどうしても必要な飲食以外は摂取しないんです。だから彼は朝も昼も食べません」

「嫌だから?」

「それは私もまだわかりません。でも無理やり食べても身体が受け付けなくなったそうです」

「彼が必要以上の飲食を受け付けないのは、秋生ちゃんと関係あるの?」

「彼が今夕食だけ食べられるのは、私が一緒にいるからです。私はひと月前、私と一緒じゃなければ食べられなくなった彼を知りました。そのあと彼の家に泊まるようになったのも、彼が私と一緒じゃなければ眠れなくなったからです」

「……もしかして今の彼が秋生ちゃんと離れないのも、同じ?」

「多分…………今の彼は食べられないことや眠れないことと同じく、私と一緒にいると離れられなくなったんだと思います。私はこの前そんな彼が怖くなって、少しだけ離れたくなったんです。私が一緒じゃなくても昼食を食べてみるよう勧めたら、彼は怒ったけど初めて私から離れました。私に怖がられたことに気付いて、とても堪えたんだと思います」

「それで? 彼は秋生ちゃんから離れた後、どうしたの?」

「特に変わりません。私と離れたのはその時だけです」


 少し前秋生と完全に寝食を共にしなければいけなくなった彼は、とうとう夜すべて秋生に依存してる状態になった。

 不安で怖気づいた秋生が遠山に告白すると、最後に大きな溜息を返された。


「……ごめん秋生ちゃん、思わず溜息吐いちゃった」

「いえ」

「私は彼が今堪えてるのは、ただ結婚できない中途半端な状態だからだと勘違いしてたわ。まさかあの彼が自分の首を締めるようなことするとは思えなかったから…………彼は秋生ちゃんを自分で縛りつけるせいで怖がられて、今とても苦しんでるのね」

「はい。彼もわかってるのにやめられないから、余計苦しいんだと思います」

「彼が今の自分をやめられないのは秋生ちゃんに怖がられるより、秋生ちゃんを失くしたくないからね。秋生ちゃんをもう絶対失くさない為に仕方なく苦しい二者択一をして、秋生ちゃんにいっぱい鎖をつけた」

「鎖……」

「彼が秋生ちゃんにつけた鎖は食べないことや眠らないこと、そして離れないこと。この3つは見えない鎖だけど、秋生ちゃんは絶対外せない」

「……はい」

「でも私はどうしても秋生ちゃんを失くせない彼が見えない鎖だけで安心するとは思えないのよね。彼はこれからすぐ秋生ちゃんに見える鎖をつけたがるかも」

「彼はまた結婚を焦るということですか?」

「確かに結婚は丈夫な鎖だけど、切れないわけじゃないわ。バツイチの秋生ちゃんはよくわかってるでしょ? 彼は切れる鎖じゃ安心できない」

「…………」

「秋生ちゃん、私は少し前陽大君から教えてもらったの。彼は秋生ちゃんと離れない為に、陽大君を人質にしたって」


 遠山の口から陽大の突飛な話を聞かされた秋生は、それでも遠山が教えたいことを察する。


「陽大も鎖ですか?」

「そうね。彼が秋生ちゃんの弟を離さなければ、秋生ちゃんも彼から離れないから…………それでも秋生ちゃんは昔彼と離れる為に、彼から陽大君も取り上げた。彼も昔陽大君という鎖がいざとなったら脆くなってしまうことを知ってるから、今度は陽大君より確実に秋生ちゃんを縛る鎖を作り出さなきゃいけない」

「作り出す?」

「そのまんまよ。秋生ちゃんと彼の子供」

「まさか……」

「彼はまだ秋生ちゃんと結婚もできないのに、子供なんて考えてないと思う? でも先に子供を作ってしまえば、結婚だって簡単にできちゃうわよ」

「…………」

「秋生ちゃんは彼が自分の気持ちも身体も無視してまで見える鎖を手に入れたいなんて、信じたくないわよね。きっと正直な性格の彼だって、秋生ちゃんを傷つける卑怯な自分になんて絶対なりたくない。でももし彼がこれから卑怯な自分を選択するほど我を失くしたら、秋生ちゃんは本気で怖がってあげなさい。彼は秋生ちゃんからはっきり怖がられれば、目を覚ますしかないわ」

「……はい」

「秋生ちゃん、今日のお稲荷さんは彼も食べられるの?」

「いえ」

「じゃあ私が貰ったこのお稲荷さんを半分持って、これから昼休みの彼に会いに行きなさいよ。彼は秋生ちゃんがわざわざ持ってきてくれたお稲荷さんなら、喜んで食べられるんじゃない?」


 最後は明るい声で彼と一緒の昼食を勧めた遠山は、秋生の返事も聞くことなく稲荷寿司を弁当箱に詰め始めた。






「秋生」

「急に来てごめんね。仕事は?」

「大丈夫だ。座ろう」


 遠山の店を出たあと柊永に電話した秋生は彼の会社近くにある公園で待ち合わせし、昼休憩に入った彼とベンチに座った。


「今日の朝、お稲荷さん作ったの」

「陽大の弁当か?」

「うん。いっぱい作ったから持ってきたんだけど、食べられる?」


 さっき遠山が弁当箱に詰め替えてくれた稲荷寿司を見せると、柊永はさっそく1つ摘まむ。


「美味い」

「無理してない?」

「大丈夫だ。秋生と一緒の昼休みなら何でも食える」

「そっか……じゃあ来てよかった」


 遠山の言う通り、彼は秋生が持ってきた稲荷寿司を喜んで食べてくれる。

 最近夕食以外は一切摂らない彼に不安を感じていた秋生もようやく少し安心し、彼と一緒に稲荷寿司を食べ始める。


「秋生、来週の水曜日も俺と昼飯食ってくれ」

「うん。じゃあまたお弁当作って、ここに来るね」

「来週は店で食おう」

「お店?」

「秋生は何食いたい? 美味い店を調べとく」

「お店はいいよ。午後の仕事に間に合わなくなるかもしれない」

「昼休憩を長めに取るから大丈夫だ」

「でも……」

「再来週の水曜日は有給取る。秋生、デートしよう」

「ちょっと待って」


 週末も仕事の秋生は柊永と休みが重ならない為、柊永は秋生の休みにわざわざ仕事を休むと言い出し、さすがに慌てて止めた。


「休むのはだめ。お昼ご飯だけ」

「毎月一度休んだって何も問題ねえよ。仕事は疎かにしねえから心配すんな」

「……毎月一度?」

「ああ、毎月一度は秋生と1日中一緒にいる」

「お願い、そんなことやめて」


 毎月会社を休むつもりと教えられれば、秋生も今度こそ必死に止めた。


「俺はやめねえよ」

「柊永」

「もう決めたことだ。毎月必ず休む」

「…………」

「秋生、食う手が止まってるぞ。俺が食わせるか?」

「……大丈夫」


 彼を必死に止めても頑なに拒まれた秋生はやむを得ず説得を諦め、再び稲荷寿司を食べ始めた。




「もうすぐ1時だよ」

「あと15分ある」

「じゃあ10分前には絶対戻ってね」

「あと5分…………せっかく秋生が来たのに、離れたくねえな」


 柊永は昼休みに初めて秋生と過ごしたせいで、会社に戻る時間が迫ると露骨に寂しがった。

 稲荷寿司を食べ終えてから繋ぎ続けた秋生の手に更に力を込める。


「……ねえ、手を離して」

「どうしてだ?」

「多分会社の人に見られてる」


 おそらく柊永の会社に勤める女子社員らしき3人が公園を通り掛かり、今は公園の入り口で立ち止まりながら柊永と秋生に視線を向けている。

 秋生は明らかに観察している女性達にしっかり気付けたが、柊永は秋生から気まずげに教えられようやく気が付いた。


「何で気にするんだ?」

「……会社で噂になるかも」

「噂? 俺が彼女と公園にいたって?」

「うん」

「そんなつまんねえ噂立つわけねえよ。秋生は気にしすぎだ」

「でもそろそろ戻って」


 今も視線を向ける女性達が噂を広げるなど信じない柊永に対し、逆に確信してる秋生は彼の手を無理やり離す。


「今さら周りの目を気にするなら、わざわざここまで来なきゃいいだろ」

「……ごめん」

「来週はどうする? 俺と店に入ったら、また周りを気にして不味そうに昼飯食うのか?」

「……ごめん」

「謝るってことは、俺の言ったこと全部認めるのか?」


 柊永のきつい言葉はすべて当たっていて、最後は謝ることもできず俯く。


「はっきりしねえな」


 秋生に初めて愛想尽かした彼はベンチから立ち上がり、公園を離れた。




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