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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: 柊月エミ
最終章 希 望 へ
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甘 え




「……あら? ねえ秋生ちゃん、もう来てるわよ」

「え?」

「彼」


 いつもなら6時半に店まで訪れる柊永を今日は6時前から見つけたのは、店主の遠山だった。

 客席にいた遠山に教えられた秋生は厨房の片付け作業を一旦止めると、遠山に並び店の外に佇む彼を見つける。


「はあ……」

「え!? 今秋生ちゃんが溜息吐いた」

「……店長、私が溜息吐いたくらいで驚かないでください」


 なぜか溜息を吐いたせいで遠山に驚かれた秋生は逆に驚き返す。


「だって秋生ちゃん、今まで彼に困らされても文句どころか溜息すら吐かなかったじゃない。今初めて溜息吐いた秋生ちゃんは一歩前進ね」

「私は何に一歩前進したんですか?」

「もちろん彼によ。秋生ちゃんはようやく溜息吐くほど、彼に少しだけ素直になったってこと」

「店長、私は一歩も前進してませんよ。私が少しでも素直になったら、もう彼を喜ばせてると思います」

「……まだ少しも素直じゃない秋生ちゃんは、彼が好きなのに全然喜ばせられないのね。はあ…………私はまた秋生ちゃんを甘くみてた。彼がああやって頑張れば、秋生ちゃんも近いうち折れてくれると期待したんだけど、頑張る彼はまだまだ報われなさそうね」


 依然として彼との結婚にまったく前向きじゃない秋生に、遠山も溜息を吐かされた。


「でも店長、私が溜息を吐いたのは困ったからじゃなく、諦めたからですよ」

「え? 諦めた? 何を?」

「前に進みたい彼です」

「まさか秋生ちゃん…………彼に付いていけないから、また別れるつもり?」

「いえ、逆です。もう別れられないんで彼に付いていきます」


 結婚に前向きな彼を諦めた秋生の報告は喜ばしいことなのに、遠山は秋生に笑顔を浮かべなかった。


「秋生ちゃんはそんな悲しい顔して見つめる彼と、これから本当に幸せになるつもり?」

「……いいえ店長」


 店の外で待つ彼を悲しい顔で見つめた秋生は遠山の問いに否定したせいで、遠山はとうとう初めて秋生に渋い顔を浮かべた。


「秋生ちゃんが諦めたのは幸せね。だったら結婚もやめときなさい。彼は幸せになるつもりがない秋生ちゃんと結婚するより、今の素っ気ない秋生ちゃんと付き合ってる方がまだマシ」

「それでも彼は私と結婚する為にとても頑張ってます。彼の頑張りはとても過酷なので、もうすぐ疲れてしまいます。私は疲れた彼を失くしたくありません」

「……彼はそこまで追い詰められてる?」

「彼を追い詰めたのは私です。でも素っ気ない今の私じゃなくて、昔彼と離れた私が追い詰めたんです…………私は昨日真由のお陰で、やっと彼を追い詰めた罰を受けられました。これからは彼を失くさない為に傍にいようと思います」

「彼を追い詰めた秋生ちゃんの償いは彼の傍にいるだけで、彼を幸せにはできないの?」

「はい、私が幸せにならないからです」

「秋生ちゃんは彼の家族に反対されたまま結婚するから、幸せになっちゃいけない?」

「はい、その通りです」

「秋生ちゃん、彼の家族だって変わるわよ。もう一生離れない秋生ちゃんの覚悟にちゃんと気付けば、もう反対なんてしない。そして秋生ちゃんが彼を幸せにすることを望んでくれる。彼の家族は今まで秋生ちゃんを憎んだかもしれないけど、秋生ちゃんしか彼を幸せにできないことを一番わかってるからよ」

「…………」

「まあいいわ。今の秋生ちゃんは彼に償うだけで精一杯だから、彼の家族は二の次にしなきゃいけないわ。秋生ちゃん、お疲れ様」


 遠山は秋生が彼との幸せを諦めた理由を知った上で優しくアドバイスすると、今は店の外で待つ彼と一緒にいさせる為に秋生を店から離した。





「いつからここにいたの?」

「ついさっきだ」

「窓から見てたよ。6時前からいた」

「今日は定時で仕事が終わっただけだ」

「柊永は嘘吐かないよ。でも私には嘘吐く」


 今日は20分早く店から出た秋生はそれでも20分以上待たせた柊永と向かい合い、自分の問いかけに嘘を吐いた柊永を見透かした。

 秋生に静かな声で責められた柊永も黙ったことで嘘を認める。

 

「これからも迎えに来てくれるなら、今日みたいに急がないで。仕事は絶対疎かにしないで」

「ああ」

「それと迎えに来られない日は無理せず諦めて」

「わかった」


 秋生からのお願いを素直に受け入れた彼は、昨日の横暴さをすっかり失くした。

 昨日秋生に苦しさをぶつける為に変った彼は、陽大に許されなかったせいで以前通り秋生に怖がる彼に戻った。

 秋生はそれでも苦しみが限界を超えてる彼に再び近付き、今日はすぐに肩を並べることなく自ら彼の手を取る。


「柊永が迎えに来れない日は、遅くなってもいいから真由の家に来て。これから週に4日は真由の家でご飯食べて」

「……ああ」

「週に3日は私が柊永の家に行く。私と一緒にご飯食べて」

「秋生」

「柊永が私と一緒じゃないと食べられないなら、暫くそうしよう…………結婚するまで」

「…………」

「今日は真由が陽大のご飯作ってくれるから、私は柊永の家に行く。帰ろう」


 秋生はこれから毎日一緒に食べる夕食の都合を勝手に決めてしまうと、今日は柊永の家へ行くため店の駐車場に停まってる彼の車に向かい始める。

 秋生が繋いだ手を引いても、柊永は店の前から動かなかった。


「柊永、帰ろう」

「……秋生」

「何?」

「俺はさっき秋生に嘘を吐いた」

「うん」

「でも秋生は嘘を吐かないでくれ」

「うん」

「諦めたのか?」

「何を?」

「俺を最後まで助けないことだ」

「私は柊永を最後まで助けたかったけど、結婚だけは避けたかった。でも柊永は私と結婚しないと最後まで助からないってよくわかったから、諦めたの」

「そうじゃない秋生…………俺の最後は結婚じゃない」

「……違うの?」

「ああ、結婚なんて過程の1つだ」

「私はあと何をすれば柊永を助けられる?」

「秋生はもう俺を助けなくていい。俺に助けさせてくれ」

「…………」

「秋生、俺に助けられてくれ。俺に初めて喜んでくれ」


 昔は秋生を散々助け、昨日も秋生に助けを求められたがった柊永はわかっていた。

 秋生にとって柊永の助けは喜びではないことをちゃんと気付いていた。

 そして秋生が柊永の助けを喜べないのは、秋生の心に纏わりついて離れない柊永への申し訳なさや負い目であることも、柊永は悟ってるだろう。


 昔の柊永は秋生の負の感情を拒絶する為に、秋生を必死で助け続けた。

 昨日の柊永は秋生の負の感情を失くしたくて、秋生に自ら助けを求めさせたがった。

 そして今の柊永はただ自分に助けられて喜ぶ秋生に、同じく助けられたいと望んだ。

 柊永にとって秋生を助けることは最高の喜びだからだ。 

 柊永は秋生に最後まで助けられる為、ようやく負の感情を捨て純粋に喜ぶ秋生を初めて言葉にして求めた。 


「秋生を喜ばせる為に、俺はどんな努力もする」

「……努力?」

「秋生が喜ぶには、まず安心しなきゃいけねえ。でも秋生を安心させられるのは俺じゃねえ、俺の家族だ」

「…………」

「家族と話し合う。俺のせいで秋生を拒否した家族の気持ちを変える」

「柊永、もう帰ろう」


 家族を説得する柊永の決意に答えなかった秋生は柊永の手を離し、再び柊永の車に向かい始める。

 柊永はすぐに追い掛け、秋生の手を強く掴んだ。


「秋生は逃げないだけでいいんだ。逃げずに少しだけ待っててくれ」

「逃げたんじゃない、怖いだけ」

「……怖い?」

「はっきり言って今の私は柊永と一緒にいるだけで限界で、それ以上何もできないの。何も考えたくない。私は1人焦る柊永が怖い」


 昨日結婚を決意したばかりの秋生は、これからすぐにでも家族を説得するつもりの柊永を怖がるしかなかった。

 柊永が秋生を認めてもらう努力をすれば、必ず柊永の家族と大きく揉めるからだ。

 心にまったく余裕のない秋生には柊永を家族と揉めさせることも、柊永の家族をまた絶望させることも、まだ避けなければいけなかった。

 そんな秋生に怖がられた柊永が、秋生を強く掴まえた手をすぐに離した。

 秋生は同じく怖がったせいで離れた彼に振り向くことなく、ようやく彼の車に近付いた。





「ちゃんと食べて」

「ああ」


 今夜柊永の家で夕食を作った秋生はテーブルで彼と向かい合う。

 昨日から何も食べてない柊永にしっかり食べるようお願いしてから、共に夕食を食べ始める。

 柊永は秋生の願いを受け入れたのに、夕食のおかずを一口食べただけで箸を止めてしまった。

 もうこれ以上食べられないのだろう柊永を見つめた秋生は、心に押しとどめていた後悔をようやく表情に滲ませる。


 今の彼が秋生と一緒でも食べられないほど食欲を失くしたのは、さっき店の前で彼を怖がったせいだと秋生は自覚していた。

 彼は秋生に怖がられてから帰宅する車の中でも喋ることなく、夕食の準備も秋生に任せてしまった。

 3日前初めて秋生が柊永の家に来た時、彼は秋生に助けを求める度きつく断られても立ち直り続けた。

 しかし今の彼は秋生に一度怖がられただけで脅えきっている。


 秋生は彼と同じく箸を止めた。

 さっき無暗に彼を怖がった自分をひどく後悔すると共に、彼が自分の怖がり1つ耐えられないほど精神が脆くなっていると痛感させられる。

 けれど彼を脅えさせたまま帰るわけにはいかず箸を置き、柊永の箸も取り上げた。


「お腹空いてないなら、あとで食べよう」

「ああ」

「……本棚に漫画が増えたね。陽大も好きそう」

「昨日陽大と買ったんだ」

「そうなんだ」


 傍の本棚に一昨日はなかった文庫本の漫画が置かれてることに気付いた秋生は、柊永が陽大の為に揃えてくれたらしい漫画を改めて眺める。


「キャプテン翼か…………すごい、全巻揃えたの?」

「ああ」

「大変だったね。陽大の為にありがとう」

「俺も陽大と一緒に読む」

「本当に?」

「ああ、だからここに置いたんだ」

「そっか…………陽大が少しだけ羨ましくなった」

「…………」

「この前話したけど、私が図書館でよく借りる漫画は覚えてる?」

「……三国志とブラックジャック」

「やっぱり私もここで読みたいな。柊永、キャプテン翼と一緒に三国志とブラックジャックも置いてくれる?」


 一昨日の秋生は好きな漫画を柊永の部屋に置きたいと望まれても断ったが、改めて自らお願いした。

 秋生に初めて我儘を言われた柊永が脅えた表情を半減させてくれたのは、とても驚いたせいらしい。


「さすがに両方は無理? じゃあ巻数が少ない方だけ」

「いや、両方置く」

「ありがとう、嬉しい」


 秋生に初めて笑顔で喜ばれた柊永が秋生への脅えをすべて失くしてくれた。


「柊永」


 昔は名前を呼ばれることが何よりも好きだった柊永を今も忘れてない秋生は、昔と同じく彼を呼びながら手を広げる。

 昔はとても喜んで秋生に甘えた彼が、今は秋生に指先すら伸ばそうとしない。


「もう来てくれない?」

「……秋生、来てくれ。声しか出ない。秋生が来てくれ」


 再会して初めて秋生から求められたせいで喜びを通り越した柊永はわずかも動けず、どうにか声だけ振り絞り秋生を必死に呼び寄せる。

 柊永の代りに近寄った秋生は硬直する彼を優しく引き寄せる。

 

「ごめんね柊永、ずっと我慢してたんだよね」


 10年間も秋生に甘えさせられなかった彼はようやく秋生の胸で甘え、子供のように泣いた。




「もう食べられる?」

「食わせてくれ」


 ようやく泣き止んだ彼は本当に少し子供に戻ってしまったらしい。 

 秋生は思わず可笑しくなりながら、彼に夕食を食べさせ始めた。




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