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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: 柊月エミ
最終章 希 望 へ
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悲しい涙



「繋がらない……」


 夜7時前、久々の休日出勤を終えた瀬名啓斗は会社の駐車場で暫く佇み、今日は何度電話を掛けても繋がらなかったスマホに呟く。


「瀬名先ぱーい、また彼女に電話ですか?」

「違うよ、お疲れ」


 この時間駐車場でよく電話してるせいで同じく休日出勤の後輩から誤解されるが、素っ気なくあしらい自分の車に乗り込んだ。



 瀬名は会社から15分ほど車を走らせまっすぐ小型マンションに立ち寄り、いつものように客用駐車場に車を停める。

 今日はすぐさま車から降り、マンション内へ駆け込んだ。


 週に一度必ず訪れる彼の部屋まで辿り着き、呼吸を乱しながら玄関チャイムを鳴らす。

 15分前は繋がらなかった電話と同じく、玄関ドアの中からいつまでも反応がない。

 とうとう顔にも焦りを滲ませた瀬名は以前内緒で作った合鍵を取り出し、玄関ドアを開ける。

 初めて勝手に彼の家へ侵入してしまうと、暗いままの廊下を突き進んだ。



 カーテンが開いた部屋の中、今夜は綺麗な月だけが窓際にいる彼を教えた。

 ドアの前で一度佇んだ瀬名は今夜も部屋に存在した彼に安堵することなく、今度は脅えた足で部屋を歩き始める。

 窓際まで脅えながら辿り着いた瀬名が同じく脅えた目で見下ろしたのは、わずかな月明かりに照らされながら床に横たわる彼だった。

 瀬名の脅える目が普段の精悍さを失った白く美しい彼の横顔を暫く見つめた後、瀬名の脅える心は目を閉じる彼を勢いよく拒絶した。

 瀬名の脅える手が伸び、まるで生きていない彼を必死に揺さぶり始める。


「起きろ、起きろ」

「……起きてる」

「目を開けろ、俺は誰だ?」

「啓斗」

「はあ…………ふざけんな」


 瀬名に激しく揺さぶられ鈍く反応した柊永が瀬名の必死な尋ねにしっかり答えると、ようやく瀬名は気を抜かすことができた。

 きつく掴んだ彼を離し、横たわる彼の隣で尻をつく。


「まったく、さっきお前が全然電話に出ないから、俺はここまで来ちまったよ。しかも居留守使いやがって」

「…………」

「今日はやっぱり反応鈍いな……眠いのか?」

「眠くない」

「もしかして具合悪い?」

「悪くない」

「じゃあ何でいつまでも転がってんだよ。ほら、ちゃんと起きろ」 


 いつも瀬名が訪ねる時だらしない姿を見せない柊永は今日に限って床に横たわったまま起き上らず、再び立ち上がった瀬名は敢えて笑いながら彼の手を取る。

 瀬名に上体を起こされた柊永は手を離された途端、再び床に落ちた。

 まるで人形のように力がない彼を再び見下ろした瀬名は、今度こそ震えながら彼の生気ない横顔に手を伸ばす。


「柊永、しっかりしろ」

「…………」

「しっかりしろ、いつも通りのお前に戻れ。お前はいつも俺の前で気丈にしてたじゃねえか」

「今日は無理だ。悪いな」

「謝るな、もう絶対俺に謝るな。柊永、何があった? ちゃんと俺に話せ。どうして急にこんなに駄目になっちまったんだよ」

「啓斗、そこまで心配すんな。俺は絶対駄目になったりしねえよ」

「強がんな。わかってんだぞ、お前はいつだって死にたそうだったじゃねえか。2度も死にかけたくせに今さら俺に強がんな」

「違うぞ啓斗、俺はいつだって生きたかった。今はこんなにも生きてえんだ。俺は生きたい」

「そうだな柊永、元気がないのは今日だけだ。お前はこれからもちゃんと生きる。俺がこれからもずっと一緒に生きる。柊永、お前は俺がいるから大丈夫だ」

「……啓斗、頼みがある」

「何だ?」

「電話してくれねえか」

「……誰に?」

「陽大だ」


 今日は床に横たわることしかできない彼を責めたあと必死に慰めた啓斗は、最後に弱々しい声で頼みごとをされ思わず耳を疑った。


「……お前、何言ってんだよ」

「頼む、陽大をここに来させてくれ」

「会えるわけないだろ」

「会える、陽大は必ず来てくれる」

「お前が昔可愛がってた子供はもう高校生になってるぞ。今はお前のことを忘れてる」

「大丈夫だ、陽大はでかくなっても俺を忘れなかった」

「……お前、会ったのか?」

「ああ、やっと会えた。俺と陽大は昔のままだ。いつも俺に会いに来る。今日もちゃんと会いに来てくれた…………啓斗、お願いだ。また陽大に会わせてくれ」


 柊永が10年前に別れた恋人の弟と再び会っている事実を教えられた瀬名は3度目の弱々しい懇願を受け、ただ呆然と横たわる彼を見下ろした。

 偶然にも部屋に響いた玄関チャイムで我に返らされ、ひとまず彼の懇願から逃げるために玄関へ向かう。


 瀬名は相手を確かめる余裕もなく玄関ドアを開けてしまうと、高校生らしき男子と顔を合わせた。


「こんばんは、柊君の友達ですか?」

「……そうだけど」

「俺は水本陽大といいます」

「…………」

「すみません。暇だったんで柊君に会いに来たんですけど、やっぱり今日は帰ります。お邪魔しました」


 柊永の部屋を訪れた見知らぬ男子から自己紹介された瀬名がそのまま黙ったせいで、頭を下げ遠慮した陽大から去られ始める。


「陽大、待て」


 つい今まで床に横たわることしかできなかった柊永が陽大の声を聞きつけ、瀬名と陽大が向かい合う玄関まで現れた。


「柊君」

「また来てくれたのか?」

「昼間も来たのにごめんね」

「いいんだ、入れ」

「ううん、今日はいいよ。また来る」

「だめだ陽大、帰るな」


 陽大は昼間訪れた時と同じく柊永に歓迎されたが瀬名を気にし再び帰ろうとすると、強く引き止められた。

 今の柊永にとても必要とされてることを察した陽大も諦め、向かいで呆然と絶句してる瀬名と再び視線を合わせる。


「すみません、俺もお邪魔していいですか?」

「……いや、俺は帰るから。じゃあな柊永」


 陽大から遠慮がちに一緒にいる許可を取られた瀬名はようやく言葉を取り戻し、陽大と入れ替わりに柊永の部屋を後にした。

 陽大は素早く立ち去った柊永の友人を視線で見送った後、ようやく柊永の部屋に入る。



「ねえ柊君、さっきの友達が幼馴染の啓斗さん?」

「ああ」

「ふーん…………俺小さい頃会ったことあるよね」

「一度だけだ。覚えてねえだろ?」

「ううん、あの人のこと忘れてなかった。柊君、俺すごくない?」

「本当か?」

「あの人だけじゃないよ。柊君が昔会わせてくれた人は皆覚えてる。でもあの人変わったね。昔は俺に笑ってくれたのに、さっきは俺に驚いて帰っちゃった」

「そうじゃねえよ、あいつは急ぎの用が出来ただけだ。陽大、飯食ったか?」

「まだ」

「ちょっと待ってろ」


 昔一度だけ柊永に会わせてもらった瀬名を覚えていた陽大は、まるで自分から逃げるように去ったさっきの瀬名を振り返るが、柊永はすぐに否定しキッチンへ向かい始める。

 制服の上着を脱いだ陽大も夕食を作り始めた柊永の隣に並んだ。


「柊君、何作るの?」

「卵丼」

「卵丼…………親子丼じゃなくて?」

「陽大は卵だけの方が好きだろ」

「うん」

「お前が鶏肉苦手だから、姉ちゃんは唐揚げも豚肉で作った」

「俺はもう鶏肉だって全然平気になったよ。秋ちゃんも今は鶏の唐揚げしか作らない」

「じゃあ俺が今度豚の唐揚げ作る。でも今日は卵丼な」

「うん。柊君、俺も手伝う」

「大丈夫だ、すぐ出来る」


今日の昼食と同じく陽大好みに合わせた夕食を作る柊永はただ嬉しそうで、手伝いを断られた陽大もそんな彼をただ隣で眺めた。




「ごちそうさま、美味しかった」

「足りたか?」

「うん、十分」

「お前は食べ盛りなのに、相変わらず食が細えな……姉ちゃんより食わねえ」

「秋ちゃんは俺が生まれつきあんまり食べないから、俺が残したご飯も食べるせいでいっぱい食べられるようになったんだって。だから中々痩せないんだって、たまに八つ当たりされる」

「そうか」


 柊永が作ってくれた卵丼を美味しく食べ終えた陽大は、少食を指摘した柊永と姉の話を持ち出し笑い合う。


「柊君は秋ちゃんに八つ当たりされるんじゃなくて、きっと怒られるね」

「……どうしてだ?」

「俺は少食なだけだけど、柊君は食べることも忘れるから。今も俺にだけ卵丼食べさせて、柊君は食べ忘れてる」


 陽大がまだ一口も食べてない柊永の卵丼を指摘すると、柊永もようやく気付き手元にある卵丼を見つめた。


「……柊君は今日の昼も俺にグラタンとチャーハンをしっかり食べさせて、自分は食べ忘れて終わった。この卵丼も結局食べなければ、きっと柊君は今日1日食べないことになる。でも柊君は先週まで俺と一緒に食べるご飯を食べ忘れることはしなかったよ」

「陽大悪いな、今日は食欲がねえだけだ」

「一口も食べられないほど?」

「ああ」

「じゃあ明日は食べ忘れない?」

「ああ、明日は腹が減る」

「じゃあ俺は明日もまた来る。柊君と一緒に夕ご飯食べるよ」

「…………」

「……柊君、食べ忘れたんじゃなくて食べられないの? 昨日秋ちゃんと一緒にご飯食べたから…………柊君は秋ちゃんと一緒じゃなきゃ、もう食べられないんでしょ?」


 今日は何も食べられなかった柊永が明日も食べられないことを見抜いた陽大は、これからもずっと姉がいなければ食べられない柊永まで見抜いた。

 陽大に確認された柊永はそれまで見つめた卵丼から離れ、向かいの陽大を見つめ直す。


「……陽大」

「うん」

「今日帰ったら姉ちゃんに教えてくれねえか」

「わかってるよ。秋ちゃんだって柊君を餓死させられないから、これから毎日柊君と一緒にご飯食べる…………でも柊君、今日みたいに無理やり秋ちゃんを苦しくさせたら、柊君はいつまでも義務だよ」


 食べられなくなった柊永に頼まれた陽大は姉に伝えることを了承したが、ひどく安堵した柊永にすぐ現実も教えた。


「俺が今日また柊君に会いに来たのは、さっき秋ちゃんと真由ちゃんの話を聞いちゃったからだよ。柊君は今日秋ちゃんをわざと痛めつけて、助けを求めさせようとしたって…………でも真由ちゃんは秋ちゃんに教えたんだ。柊君が秋ちゃんを苦しめても平気で助けを求めさせるのは、長い間ずっと秋ちゃんに助けられなかったからだって。柊君の心は助けられたくて限界なんだって…………俺は秋ちゃんをわざと苦しめる柊君なんて信じたくなかったけど、秋ちゃんと別れてから柊君がずっと苦しんでた事をわかってた。柊君と会えなくてもわかってたし、柊君とまた会えてからもっとよくわかった。そしてさっき秋ちゃんと真由ちゃんの話を聞いたら、胸が苦しくて堪らないほどわからされた。俺はもう苦しみすぎてる柊君を助けられるならどんな協力だってするし、柊君の家族を気にして結婚したくない秋ちゃんをいっぱい説得したい。でも秋ちゃんが柊君に苦しめられて仕方なく結婚するのだけは嫌だ…………だから秋ちゃんの弟に反対された柊君はどんなに苦しくても、いつもの柊君に戻らなきゃいけないんだよ。秋ちゃんに嫌われたくなくて苦しい心をぶつけられない怖がりの柊君に戻って、まず秋ちゃんを安心させなきゃだめなんだ。それに秋ちゃんはいくら柊君に苦しい心をぶつけられても、絶対に結婚しない意志は曲げない。柊君は怖がりのまま地道に頑張らなきゃ、秋ちゃんの幸せは絶対手に入らないんだよ」


 今までずっと柊永の味方だった陽大は初めて姉の気持ちを優先し、今日姉に苦しみをぶつけるため変わった彼に目覚めるよう強制した。

 秋生をすべて手に入れられない苦しみはすでに限界なのに、それでも陽大から昨日までと同じく我慢を強いられた彼は、初めて陽大の前で涙を流した。

 彼の涙はとても悲しくて、陽大の心に初めてえぐられるような痛みをもたらした。




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