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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: 柊月エミ
最終章 希 望 へ
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心の悲鳴




「ありがとう」


 仕事帰りの秋生は今日も真由の家まで送ってくれた柊永と向かい合い、礼を言う。

 そして今日も帰り道の途中で繋がれた彼の手が離れるのを待ち始めた。


「……話がある?」


 今日はいつまで待っても柊永の手が離れず質問すると、彼はそれまで優しく握り締めた秋生の手に突然じわじわと力を込め始めた。


「どうしたの?…………痛いよ」


 柊永に驚く秋生は予想外の力で握られる手が赤くなってようやく痛みを訴えるが、それでも彼は秋生の手を離してくれない。


「柊永」


 半端じゃない手の締め付けに耐えられず苦痛の声で彼を呼んだ秋生は、ようやく解放されると共に彼の笑みを見せられた。

 秋生の手を優しく握り直した柊永が戸惑い続ける秋生にとても喜んでる。

 柊永の奇行にただ戸惑うしかない秋生は、彼がなぜ今とても満足そうに笑っているのか全く理解できない。


「秋生、痛かったよな。悪かった」

「私は大丈夫…………どうしたの?」

「俺か?」

「うん」

「ついさっきようやく思いついたんだ」

「え?」

「秋生が俺に助けられる方法だ」

「…………」

「俺が苦痛を与えれば、秋生は俺を呼んで助けを求める」

「……何言ってるの?」

「秋生、これからは毎日俺を呼んでくれ。毎日俺に助けられろ」


 秋生から助けを求められるには自ら苦痛を与えればよいことに今日初めて気付いた柊永は、毎日それを望む。

 唖然とするままの秋生は再びじわじわと苦痛を与えられ始めた。


「……柊永、やめてよ」

「どうしてだ?」

「後悔するから」

「誰が?」

「柊永」

「俺は後悔しない、こんなに嬉しい。俺はこれから毎日秋生を助ける。もうこんなに嬉しい」

「違う、柊永は後悔する。私が柊永と離れたくなるから」

「秋生、嘘吐くな」

「嘘じゃない。だから今手を離して。お願い」

「俺はもうわかってるんだ。秋生は嘘を吐く。本当は俺と離れたらすごく寂しいのに、わざと強がる」


 秋生は再び柊永から締め付けられる手を気にすることもできないほど、誤解する柊永に驚かされる。


「そうだろ秋生、図星だ」

「ちょっと待って…………どうしてそう思ったの?」

「悪かった秋生、俺は気付けなかったんだ。でもこんな鈍い俺に、陽大はちゃんと教えてくれた。もう秋生は俺と離れるとすごく寂しい」 


 柊永を誤解させたのが陽大だと知り更に驚いた秋生は、もう言葉も忘れるほど呆然とする。

 それでも彼が陽大にとても喜ばされたせいで完全に箍が外れ、秋生に望まれる欲が制御できなくなったことに気付かされた。

 昨日まで自ら秋生を苦しめたいはずもなかった彼が、今は自ら秋生に苦痛を与え喜んでいる。

 苦痛を与えれば唯一秋生に必要とされるせいで、柊永にとって秋生に与える苦痛も愛に変わってしまったのだ。

 そして陽大に喜ばされたせいで秋生に離される怖れも消え去った柊永には、秋生に苦痛という愛を与えても余裕なのだ。

 それどころか、苦痛を与えられる秋生も喜んでいるとさえ勘違いできる。

 今日柊永にもたらされたとてつもなく大きな喜びは、昨日までの秋生に脅えた彼を失くした。

 今の彼は秋生への自信だけを漲らせている。

 秋生は目の前で余裕の笑みを浮かべる彼をようやく怖がりながら、彼の人格を変えてしまうほど影響力のある自分に初めて恐怖を覚えた。


「秋生、早く俺を呼んでくれ」

「…………」

「秋生」


 しばらく彼の手に縛られ続けた秋生は彼に助けを求めることを催促され、初めて2つの選択を迷った。

 1つは彼の望みに従い助けを求めること。

 そしてもう1つは彼の誤解を否定すること。

 けれど秋生はすぐに後者を諦めた。

 今の彼に後者の答えを返せば、今度こそ彼の心を失うはずだからだ。

 今の秋生は仕方なく再び彼に助けてもらう為、口を開く。


「秋生、木野君を呼ぶことないよ」

「……真由」


 秋生が呼んだのは柊永じゃなく真由だった。

 いつの間にか家の玄関から出てきた真由に彼へ助けを求めることを止められ、今度は真由の姿を驚きながら見つめる。

 家の前に佇む秋生と柊永に近付いた真由は驚く秋生に構うことなく隣に並び、柊永と向かい合った。


「木野君、4カ月ぶりだね。この前は私をここまで送ってくれてありがとう」

「…………」

「あれ? 反応ないな。もしかして私のこと忘れた? 谷口だよ、谷口真由。木野君の元クラスメイトで秋生の親友」

「……ああ」

「よかった、やっと思い出してくれたか。でもまさか木野君に忘れられてたなんて思わなかったな」

「忘れてない」

「本当?」

「ああ」

「まあ確かにそうだよね。私たち4か月前に偶然居酒屋で会った時も、私より木野君の方が先に声掛けてくれたもんね。しかもすでに酔っぱらってた私を家まで送ってくれた。あの日は親切な木野君にびっくりしたなぁ…………私は昔木野君に心底嫌われたと思ってたからさ」

「…………」

「正直者な木野君が否定しないんだから、私は今も本気で嫌われてるんだね。でも当たり前か。中学の時の木野君は秋生に一切近付かせてもらえなかったのに、私はいつも秋生の隣。中学卒業して私が遠くに離れたからやっと秋生の隣に行けたけど、結局は秋生に離された。10年近く我慢してやっとまた秋生に近付けたと思ったら、すでに私は秋生と一緒に暮らしてる。秋生から大切にされる陽大は木野君が大好きで、いつも秋生と仲良くさせてくれる味方だから可愛くて仕方ないだけなのに、秋生と仲良くさせてくれるわけじゃなく秋生の隣から離れない私のことは、ただ邪魔でしかない。本当に大嫌いだった。でも秋生にフラれて10年近く私を嫌う必要もなかった木野君は4か月前私と再会した時、初めて自分から私に関わろうとした。秋生にまた近付く為に昔大嫌いだった私でも利用しようと必死だったね。まあ私は平和主義だから必死な木野君に抵抗せずここまで送られてあげたけど、さすがに今の横暴な木野君には目を瞑れないよ。木野君、帰りな」


 秋生のいる前で真由を心底嫌悪する本音を真由本人に暴露された柊永は、最後も真由からきっぱりと追い払われる。

 柊永は秋生を奪われ、とうとう初めて真由に強烈な憎悪を露わにした。


「秋生を返せ」

「返してほしければ目を覚ますことだね。木野君は横暴じゃなく怖がりだってこと思い出しな。私は木野君がしっかり思い出すまで秋生の傍に近付かせない。絶対だよ」

「谷口頼む、秋生を返してくれ。俺に返してくれ」

「秋生、家入ろう」


 真由から毅然とした態度で秋生を返さない意志を伝えられた柊永が最後潔く懇願しても、真由は秋生の手を引き家の中へ入った。





「まったく、陽大は余計なこと言ってくれたよ」

「真由、聞いてたの?」

「まあね、秋生が困ってたから」


 秋生とソファに腰を下ろした真由は、10分程前リビングの窓から秋生が柊永に手の握られ戸惑う姿を見つけ、玄関内で2人の会話を盗み聞きしていた事実を認める。


「……止めてくれてありがとう」

「さっきは偶然私が木野君を止められたけど、もしあのまま秋生が木野君に応えてたら今頃大変な思いをしてるよ。また木野君の家に連れていかれたかも」

「…………」

「秋生、問題はこれからだよ。木野君は今日陽大に喜ばされたせいで別人みたいに変わった。でも木野君が変わった根本的な原因は秋生をまた手に入れたからだよ。今の木野君はやっとまた自分のものになった秋生から求められたくて、歯止めが利かなくなったんだ。大切な秋生を痛めつけてでも平気なほど、異常な状態だよ。私は今日幸い異常な木野君を止められたけどこれから先はわからないし、秋生じゃ異常な木野君に抵抗すらできない。負い目もあるからね」

「……うん」


 柊永は秋生を手に入れたせいで変わり果てた。

 さっき柊永の意のままに動かされた秋生はこれからも変わらないと真由に諦められ、素直に認める。


「秋生、それでも木野君を異常にしたのはあんただよ。木野君を本当に止められるのもあんただけだ」

「真由」

「どんな理由であれ木野君を10年近く放っといたあんたはつけが回って、今日とうとう木野君を異常にさせた。私はあんたが木野君を愛せなくなって放ったなら、あんたを責めない。でもそうじゃない、あんたは木野君を愛したまま放っといた。木野君があんたを痛めつけてでも助けを求めさせようとするのは、あんたに助けられず痛み続けた木野君の心が悲鳴を上げてるからだよ。じゃあ異常な木野君を止められる方法は1つだけだ。あんたが木野君を最後まで助ければいい」


 真由は突然柊永が異常になった原因は過去の秋生であることを、秋生本人に突きつけた。

 そして今の柊永を救えるのも秋生だけであることをしっかり教える。

 秋生は彼を最後まで助けるよう真由に強く勧められ、迷うこともなく首を振り遠慮した。


「秋生」

「ごめんね真由、他の方法を考えてみる」

「秋生はもうすでに木野君を助けてるんだよ。どうして最後まで助けてあげないの?」

「私には無理。最初から諦めてるから、柊永とは付き合うことしかできないの」

「木野君と結婚できないのは、壮輔さんと別れたあんたに後悔があるから?」

「ううん」

「壮輔さんに対して後悔がないなら、逃げたいだけ? 結婚が怖いの?」

「そうじゃないよ。幸せになれないから」

「……え?」

「私は結婚しても幸せな気持ちになれない。柊永は幸せじゃない私に助けられたりしない」

「秋生……どうして木野君と幸せになれないの?」

「ごめんね真由」

「いいから教えなよ」


すでに柊永との幸せな未来を諦めてる秋生は真由にただ謝っても、今日はしっかり理由を求められた。


「昔勝手に別れてしまったから」

「……それだけ?」

「10年近く放ってしまったから」

「だから?」

「私は恨まれてる」

「木野君は恨んでないよ。木野君はいつまでも恨む男じゃない」

「柊永はもう私を恨んでない。また私と一緒にいて喜ぶだけ…………だから私は柊永の代りに家族から恨まれなきゃいけないの」

「……木野君の家族?」

「そう、私は柊永の家族に恨まれてる。柊永の家族は私が柊永と結婚すれば、今度は私を恨めずに怖がって、毎日生きた心地がしなくなってしまう。柊永がそんな苦しむ家族を無視してしまえば、私はとても耐えられなくて柊永からまた離れなきゃいけなくなる。だからせめて柊永の家族に内緒で付き合うしかないの。私が結婚だけ避けなきゃいけないのは、柊永と家族を必ず不幸にしてしまうから」


 秋生が柊永と結婚する意志はないと自ずと悟っていた真由は、秋生から今日初めて結婚を諦めた理由を教えられても納得せずに訝しがった。


「ちょっと待って…………私はまったく意味がわからないよ」

「じゃあもっと簡単に言うね。私は昔柊永をとても悲しませたから、柊永の家族にとても嫌われてるの。それでも柊永はきっと家族より私の味方をしてくれるから、柊永の家族は悲しむ。私は家族を悲しませる柊永から離れたくなる」

「私がまったくわからないのは、あんたが木野君の家族に恨まれるほど嫌われた本当の原因だよ。ただ木野君と昔別れたくらいで、家族はそこまであんたを気にしない」

「…………」

「あんたの被害妄想じゃないって言うなら、あんたは昔別れたせいで家族から恨まれるほど木野君にダメージを与えたってことだよ………………秋生、もしかして木野君」

「真由、聞かなくていいの。怖いなら確かめないで」


 真由の声を初めて震わせた秋生は、すでに柊永の過去を悟ったのだろう真由の確認を止める。


「真由、私は結婚以外の方法を考えるから、今の話は陽大に絶対内緒にして」

「……うん、わかった」

「ごめんね真由…………ちょっと着替えてくる」


 さすがにショックを受け意気消沈した真由と共に秋生も疲れを見せ、一度ソファから立ち上がる。

 2階の部屋へ行くためリビングのドアを開けると、いつの間にか帰宅した陽大と目を合わせた。

 陽大の傷ついた目で見つめられた秋生は呼び声を失い、背中を向けた陽大を引き止めることは叶わなかった。




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