軽はずみの後悔
仕事を終えた秋生が店を出ると、今日も迎えに来た柊永の姿を見つける。
秋生と柊永は互いに言葉を交わさず目を合わせ、すぐに肩を並べた。
店から歩き去る2人の後ろ姿をそっと眺めた陽大は、そのまま店に入る。
「あら陽大君、さっそく来たの?」
「うん、柊君が今日も秋ちゃんを送るから、俺も柊君の車に乗せてもらった」
「ふーん……あの彼、いつも秋生ちゃんを歩いて送ってるけど、店までは車で来てたのね」
「秋ちゃんはきっと柊君の車に乗りたがらないから、今日も歩いて送ってた…………まどろっこしいなぁ」
日曜日の今日、柊永の家に行った陽大はさっき彼の車に同乗し、姉の働く珈琲店まで訪れた。
姉と彼が共に歩いて帰る姿も無事確認したが、カウンター席に座り遠山に報告し終えると一言文句を付け足す。
「まどろっこしくていいじゃない。彼は車より歩いた方が、秋生ちゃんと長く一緒にいられるんだから」
「そういうことじゃなくて、まだ柊君の壁が壊れてない感じ」
「壁? 秋生ちゃんは鉄壁だけど、彼も秋生ちゃんに壁作ってるの?」
「うん、柊君だってけっこう鉄壁だよ」
「彼の鉄壁ってどんな?」
「遠慮、謙虚。柊君は誰に対しても正直だし嫌なことははっきり拒否できるけど、秋ちゃんにはきっと全然違う。だから秋ちゃんと再会しても2か月以上傍に近付けなかったし、やっと秋ちゃんを送れるようになっても付き合うまで時間が掛かった」
「……きっと彼は秋生ちゃんだけに遠慮深くて謙虚なんじゃなくて、秋生ちゃんにだけ怖がりで弱いのよ。絶対離されたくないから、秋生ちゃんが望まないことは頑張って避けてるだけ…………まあそんな臆病な彼もいざ秋生ちゃんから離されそうになれば、外泊させてでも必死に引き止めたみたいだけどね」
「遠山さん、どういうこと? 秋ちゃんが何で柊君の家に泊まったか、わかったの?」
「無理やリ秋生ちゃんの口を開かせてみせるって昨日陽大君と約束しちゃったから、私は今日頑張ったわよ」
「ていうことは秋ちゃん、真由ちゃんにも多分内緒にしてる外泊事情を遠山さんには特別打ち明けたんだ…………遠山さん、すごい」
「陽大君、私は秋生ちゃんに特別教えてもらったんだから、私に聞く陽大君も絶対内緒だからね? それに秋生ちゃんと彼に絶対余計なお節介しちゃだめよ?」
「大丈夫、わかってるって。遠山さん教えて」
陽大は昨日店を訪れた時に遠山と約束した通り、口の堅い姉に外泊事情を白状させてくれた遠山に期待の目を向ける。
「秋生ちゃんは彼の家に泊まった一昨日、やっぱり怖気づいたみたい」
「え?」
「昔彼と別れた経験があるから彼を幸せにできる自信がなくて、彼とのお付き合いを躊躇したらしいの。彼は秋生ちゃんが逃げようとしたから、秋生ちゃんを家に泊めて説得したらしいわよ。一昨日彼が努力したから、秋生ちゃんはこれからも彼とのお付き合いを続けることにしたんですって」
「じゃあ柊君の家に泊まった秋ちゃんを単純に喜んでた俺って、本当は危なかったんだ…………でも柊君はどうにか頑張ってくれた。あーよかったぁ」
遠山が秋生に白状された事実を多少誤魔化して教えると、それまで姉の外泊事情を明るい方向だけに考えていた陽大はヒヤリとしつつ、最終的には心底安堵させられる。
遠山はカウンター席に頭をつけながら脱力する陽大の姿に思わず苦笑する。
「陽大君は部活も忙しい高校生なのに、秋生ちゃんと彼の行動でそんなに一喜一憂させられるなんて大変ね」
「俺が振り回されるのは仕方ないよ。秋ちゃんと柊君が結婚するまでの辛抱」
「……秋生ちゃんは彼と付き合っても、結婚までは考えてないみたいよ」
「そんなの秋ちゃんが贅沢嫌いだからだよ」
「贅沢嫌い……」
「根っから貧乏性の秋ちゃんは柊君と付き合うことで十分すぎて、それ以上の贅沢は嫌がるんだ。柊君が望んでるんだから嫌がるなんておかしいのに…………秋ちゃんってどうしてあんなに引き際良すぎるんだろ。うちのクラスのがめつい女子とは全然違う」
「へえ、陽大君のクラスにいる女子はがめついの?」
「この前俺、クラスの女子に呼び出されたんだ。校庭行ったら、俺を呼び出した女子だけじゃなくてクラスの女子が他に5人いた。その中の1人から告白されたんだけど断ったら泣かれて、他の女子から一斉に責められたんだ。次の日からはクラスの女子ほとんどに無視されるようになった…………まあ別にいいけどね、俺は元々男子としか喋んないし、クラスの男子はみんな俺に優しいから」
「……ねえ陽大君、告白を断ったせいで無視するクラスの女子はがめついの?」
「がめついじゃん。要するにクラスの女子はみんな俺に告白を断るなって責めてるんだよ。相手の気持ちを無視して一方的に自分の気持ちを押し付けるなんて、秋ちゃんに育てられた俺にとってはがめついだけだよ」
「でも陽大君は秋生ちゃんにもクラスの女子みたいに是非がめつくなってほしいんでしょ?」
「……でもがめつい秋ちゃんなんて全然想像つかないかも」
「そういうことよ。秋生ちゃんはがめつくなくて当たり前なんだから、これからもそのままでいいの。その代り彼が頑張ればいいのよ」
「でも遠山さん、柊君は秋ちゃんに怖がりで弱いんでしょ? そんな柊君がどうやって秋ちゃんを結婚する気にさせられるの?」
「そうだった…………秋生ちゃんと彼、性格の相性は良くないわねえ」
「見た目の相性だって良くないよ。秋ちゃんは性格と同じく地味顔だから、柊君とは全然お似合いじゃない。高嶺の花」
「……陽大君、そんなはっきり」
「大丈夫だよ、秋ちゃん本人には言ったことないから。でも遠山さんだってそう思うでしょ?」
「そんなことないわよ。恋人同士の男女はね、見た目で優位が決まるんじゃないの。どっちが多く惚れてるか。秋生ちゃんと彼の場合、彼にとって秋生ちゃんが高嶺の花」
「秋ちゃんにそんな優しいこと言ってくれるのは遠山さんと真由ちゃんくらいだよ…………秋ちゃんは昔、柊君と一緒にあんまり外歩かなかった。きっと偶然顔見知りに会うのも、知らない女子に見られるのも嫌だったから。みんな秋ちゃんと柊君が一緒にいれば、どうしても比べたくなるから。うちのクラスの女子も同じだよ。見た目が同レベルと判断した男子にしか告らない。高嶺の花にフラれるのは避けたいし、自分より見た目レベルが下の男子はお断り。女子の恋愛は気持ちより見た目のバランスが一番大切だから。昔気持ちだけで柊君と付き合っちゃった秋ちゃんは、柊君と外に出ても公園にしか行きたがらなかったな……」
「陽大君はその時まだ小さかったのに、秋生ちゃんの気持ちがわかったの?」
「ううん、中学に入ってから気付いた。その時の俺って部屋に籠って悶々してたから、昔付き合ってた秋ちゃんと柊君をよく思い出してたんだよね。そしたら昔は全然気付かなかった2人の気持ちがやっと実感できたりしたんだ。秋ちゃんは柊君が好きなのに、柊君と一緒はすごく苦手」
「あとは?」
「あとは…………柊君は秋ちゃんが好きだから、秋ちゃんと一緒にいないとすごく不安になる」
「…………」
「それでも昔の柊君は秋ちゃんが傍にいない時、俺と一緒にいるだけでも安心できた。小さかった俺は柊君に安心されることだけ感じ取れたから嬉しかったけど、ただ秋ちゃんの代わりに過ぎなかったんだ…………ううん、代わりなんて大層なもんじゃないか。俺はただの人質」
「人質……すごい表現ね」
「人質が一番しっくりくるよ。俺が柊君に可愛がられたきっかけは小さすぎて覚えてないけど、柊君がどうにか秋ちゃんに近付く為だったに違いないし、柊君は俺に懐かれれば秋ちゃんと一緒にいられるから、小さい俺に好かれる努力をした。秋ちゃんの弟じゃなきゃ俺なんて見向きもしない柊君は、秋ちゃんに一番大切にされる俺を絶対邪険にしなかったし、いっぱい可愛がってくれた。柊君が秋ちゃんの傍にいられなくても俺と一緒なら安心できるのは、もちろん俺を離さなければ秋ちゃんも離れないから。だから柊君は邪魔な存在のはずの俺が秋ちゃんより傍にくっついてても、嬉しいだけだった。俺が離れない姿を秋ちゃんにいっぱい見せつける為に、柊君は俺を人質にしたんだ…………まあ俺はそれでもいいんだけどさ、俺を人質にした柊君より秋ちゃんの方がよっぽど怖いよね」
「……秋生ちゃんは大切な陽大君を人質に取られたのに、それでも結局彼に屈せず別れてしまったから?」
「うん。柊君はせっかく散々俺を人質にしても、いざとなったらこっぴどく振ってしまう秋ちゃんの怖さを昔経験してる。でも秋ちゃんと再会した柊君は俺なんか役立たずだってわかりきってるのに、また俺を離そうとしない…………俺は今日、また柊君の人質になったんだってすごく実感させられた」
「陽大君、彼の家で何かあった?」
「うん、露骨に大歓迎された」
「……あの彼が?」
今日柊永の家に行った陽大から彼の意外な行動を教えられた遠山は思わず疑う。
陽大は改めて肯定することなく、カウンター席に両肘をつきながら可愛らしい困り顔を浮かべた。
「やっぱ柊君、秋ちゃんともっと進展したくて凄く焦ってるのかも……」
「ねえ陽大君、ちゃんと詳しく教えてよ。彼の大歓迎」
「今日の柊君は昔から俺が好きなグラタンとチャーハン、どっちも作ってくれた。それに俺の話をずっと真剣に聞いてくれたし、柊君の話も同じくらい聞かせてくれた。しまいには俺を本屋に連れてって、俺が欲しかった漫画を全巻揃えてくれた」
「ふーん……確かに彼は陽大君に優しいけど、それって大歓迎なの?」
「大歓迎だよ。先週までの柊君なんて俺が遊びに行っても秋ちゃんのことばっか考えて、まともな会話なんてほぼ成立しなかったもん。昼ご飯を作る発想もないから、いつも俺が外に連れ出して食べさせた。漫画だっていらないって言ったけど、柊君は自分の部屋に置きたいから遠慮するなって無理やり全巻買っちゃったんだ。どう考えても今日の柊君は俺のご機嫌取りに走った」
「私は彼とまともに話したこともないけど、ご機嫌取りなんて彼らしくないわねぇ……」
「うん、全然柊君らしくないよ。だから今日は俺もめちゃくちゃ戸惑った…………秋ちゃんが柊君から逃げたくなる気持ちがやっとわかったかも」
「え?」
「正直者な柊君が昔唯一ご機嫌取りしたのは秋ちゃんだから。柊君は秋ちゃんにいっぱい尽くして点数稼ぎすれば、秋ちゃんはすごく便利な柊君を手離せないって、多分今も信じてる…………柊君ってすごく頭良くて察しがいいし、秋ちゃんの性格もすごく理解してるけど、秋ちゃんにだけすごく馬鹿なことする。秋ちゃんはご機嫌取りなんてすごく苦手なのに、それだけは昔も今も全然気付けないんだ。だから秋ちゃんに好かれたくて切羽詰まった柊君は、今日とうとう俺にまでご機嫌取りし始めた」
「なるほど……彼の厄介な行動は、きっと秋生ちゃんに対して全くプライドがないから生まれるのね。秋生ちゃんに離されない為なら便利がられても同情されても嬉しい…………でも不思議よね。彼の厄介な性格が秋生ちゃんを逃げたくさせるとは直結できないんだから」
「だから仕方ないんだって。柊君は馬鹿だから」
「……陽大君、ずいぶん彼に辛辣ね。大好きなんじゃないの?」
「馬鹿な柊君以外は大好きだよ。でも秋ちゃんの苦手なご機嫌取りして1人喜んでる柊君を見てると、本当に馬鹿馬鹿しくて情けなくなる。あーあ……これから毎週俺も馬鹿な柊君にご機嫌取りされるのか。嫌だなぁ」
「ふふ、だったら陽大君が彼にちゃんと教えてあげればいいじゃない。秋生ちゃんはご機嫌取りが苦手だって」
「だめだよ、きっと柊君は変になっちゃう」
柊永のご機嫌取りが姉だけでなく自分にも降りかかり心底嫌がった陽大は、遠山に笑われながらアドバイスされるとすぐに否定する。
すぐに笑顔をやめた遠山も陽大の否定に黙って理由を促した。
「馬鹿な柊君は秋ちゃんを助ける為でもあるから。秋ちゃんを助けられることは柊君にとって最高の喜びだから。柊君が秋ちゃんを助けられなくなったら、きっと柊君じゃなくなる。柊君は抜け殻にならない為に秋ちゃんの困る気持ちを絶対信じないし、秋ちゃんをひたすら助けるだけで喜んでる。そんな柊君に俺が初めて秋ちゃんの困る気持ちを教えたら、柊君は笑って信じないんじゃなくて本気で打ちのめされる。俺は秋ちゃんの弟だから…………柊君にとって俺の言葉は秋ちゃんの言葉と同じ効果があるから」
「……そう。じゃあ陽大君は彼を傷つけない為に、軽はずみなことは絶対言えないわね」
「軽はずみ…………あ」
「え?」
「……遠山さん、俺今日やっちゃったかも。軽はずみ発言」
「陽大君……彼は今日、陽大君の言葉に傷ついたの?」
「ううん、喜んだ」
「え?」
「俺、今日うっかり柊君を喜ばせちゃった」
今日柊永につい軽はずみな発言をし喜ばせてしまった陽大は、遠山を相手に今頃後悔し始める。
遠山は陽大が彼を傷つけたわけではなく安心したが、すぐさま陽大に興味津々と顔を寄せた。
「陽大君、彼に何て言って喜ばせたの?」
「ちょっと、遠山さんまで呑気に喜ばないでよ。絶対まずいんだから」
「いいからとりあえず教えてよ」
「……昨日柊君の家から帰ってきた秋ちゃんは、すごく寂しそうだった。きっと柊君と離れたからだろうねって」
「へえ! 彼と離れた秋生ちゃん、寂しそうだったの?」
「ううん……本当はいつもと変わらなかったけど、柊君にそう言った方が元気出るかなと思って」
「……あ、やっぱりね。それで? 陽大君に気遣われた彼の反応は?」
「そんなの大喜びに決まってるじゃん。きっと柊君、秋ちゃんに寂しがられた経験なんてほとんどないから、俺がつい喜ばせたら最初すごくびっくりしてた。その後はしつこく何度も本当か?って確認されて、俺も後に引けなくなってうんうん頷いちゃった。そしたらやっと信じた柊君が俺を忘れて寝室に籠り始めたんだ…………きっと柊君、嬉しすぎて堪らず泣いてた。30分経ってやっと寝室から出てきた柊君は目が赤かった」
「……陽大君、確かにそれはまずいわね。完全に彼を喜ばせすぎよ」
「あ――どうしよう!」
軽はずみな嘘発言で彼を30分泣かせるほど喜ばせ過ぎた陽大は、遠山と共にカウンター席で頭を抱えた。




