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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: 柊月エミ
最終章 希 望 へ
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静かな溜息




「ただいま」

「……秋ちゃん、お帰り」

「……お帰り秋生」


 今日は一日柊永の家で過ごした秋生が夜八時過ぎに帰宅すると、リビングのテーブルで向かい合う真由と陽大から不機嫌そうな声で挨拶を返される。


「二人共……どうしたの? ずいぶんテンション低いね」


 秋生が不機嫌な事情を尋ねても答えなかった二人は、揃ってテーブルに置かれた鍋に視線を向けた。


「この鍋、夕ご飯? 真由が作ったの?」

「うん」

「まだ全然食べてないじゃない。二人共、お腹空いてないの?」

「……秋ちゃん、この鍋作った真由ちゃんはともかく、俺にまで食べろって言うの?」

「え?」

「鍋の具をよく見てよ」

「あ……丸ごとのじゃが芋しか入ってない」


 どうやら二人が不機嫌になった原因は、真由が作ったじゃが芋鍋を陽大が拒否したせいらしい。

 鍋の中身を確かめた秋生も陽大の気持ちを理解できたが、それでもせっかく真由が作った夕食を拒否した陽大に視線を向ける。


「陽大、世の中にはじゃが芋も食べられないほど貧困で苦しんでる人だっているんだよ。贅沢言わずにちゃんと食べよう」

「俺は贅沢なんて言ってないよ。昨日真由ちゃんが作ったキャベツ丸ごと鍋は完食したし、このじゃが芋丸ごと鍋だって文句言わず食べ始めた。でも一口食べた瞬間ジャリったんだ」

「ジャリった?……生ってこと?」

「そうだよ、じゃが芋は生。秋ちゃん、生じゃが芋を食べたくない俺は本当に贅沢者?」

「……陽大、しっかり火を通せば美味しく食べられるよ。ちょっと待ってて、煮込んでくる」


 秋生がじゃが芋鍋を煮込み直すためキッチンへ向かおうとすると、作った張本人がげんなりとし始めた。


「あーあ、野菜丸ごと鍋はさすがに私もうんざりだ。秋生、そのじゃが芋は明日コロッケにリメイクして。今日は秋生が作った普通のご飯が食べたい」


 真由と陽大の腹を満たす為じゃが芋鍋をとりあえず今夜放置した秋生は、手早くできるオムライスを作り始めた。




「お風呂上がったよ」

「うん」

「俺もう上行くね。おやすみー」

「おやすみ」


 一番風呂を済ませた陽大はリビングにいる秋生と真由に挨拶し、自分の部屋へ向かった。


「……怪しい」

「え?」

「今夜の陽大は良い子すぎる」

「そう? いつもと変わらないじゃない」


 陽大をじっと見送った真由が普段となんら変哲なかった今夜の陽大を訝しがり、秋生はそんな彼女に否定しながらアイロン掛けを続ける。


「秋生、陽大に昨日外泊した理由聞かれた?」

「……ううん」

「だから怪しいんだよ。昨日私が誤魔化しきれなくて、秋生は木野君の家に泊まったこと陽大にバレちゃったけど、絶対詳しい事情を気にしてるはずじゃない。それなのに秋生が帰ってきても一切気にせず二階行っちゃったよ」

「確かにそうだね…………私も陽大に質問されると思ってたから、ちょっと気が抜けちゃった」


 陽大の態度を怪しむ真由にようやく納得した秋生も、陽大の詮索を免れた今改めて拍子抜けした。


「陽大、何か企んでるのかな?」

「考え過ぎだよ。私の外泊なんて気にするほど興味なかったんじゃない?」

「うーん…………あ、どうせ秋生に聞いても誤魔化されるから、正直な木野君を当てにしてるのかな」

「いくら正直だって、今回は陽大に教えないと思うよ」

「……秋生、私にも教えてくれないの? 秋生の外泊事情」

「ごめんね真由」


 昔から親友にも口が堅い秋生はさり気なく催促されても、陽大の制服シャツにアイロンを掛けたまま謝る。


「じゃあ細かいことはいっか…………秋生、結果だけ教えてよ。木野君とは今どんな関係?」

「……付き合ってる」

「まあわかってはいたけど、あんたの口から初めて聞けてホッとした。じゃあ私も風呂入ってこよ」


 秋生が柊永の家に泊まった事情を昨日から心配し続けた真由は、秋生からの報告でとりあえずは明るく安心した。

 さっそく風呂へ向かった真由がリビングからいなくなり、秋生は初めてアイロン掛けを止める。

 これから続く柊永との関係を思い、静かな溜息を吐かされた。





「陽大君、今日はもしかして彼の所に行った?」

「え?」

「秋生ちゃんの彼は、陽大君と仲良しなんでしょ?」


 日曜日、ランチタイム終了し閑散とした店の客席で昼食を摂り始めた秋生は、突然向かい席に座った遠山に確認される。


「陽大が言ったんですか?」

「うん。昨日ランチ食べに来た陽大君は、私にも彼が大好きなこと教えてくれたわ。これから彼と家族になれるのを楽しみにしてるみたい」

「…………」

「真由ちゃんからも少ーしだけ教えてもらったけど、秋生ちゃんと彼は昔もお付き合いしてたんだって? 彼はまだ小さかった陽大君の面倒に懸命だったから、今でも陽大君は彼が大好きなのね」

「そうですね。陽大は昔、私より彼に懐いてましたから」


 真由と陽大から教えられた遠山の言葉に一度箸を止めた秋生も、最後は淡々と答え再び箸を動かし始める。


「秋生ちゃんは彼に対して冷静ね。壮輔さんの時もそうだった。陽大君のことではすぐ悩むのに、恋愛には絶対取り乱さない。昔彼と付き合ってた秋生ちゃんもそうだったんじゃない?」

「店長、私は昔のことを覚えてないんです。元旦那さんのことも今はあんまり思い出せません。私は薄情だから」

「今の彼と昔別れたのも、壮輔さんと別れたのも、秋生ちゃんのせいだから? 思い出すのも申し訳ないだけじゃない?」

「…………」

「でも秋生ちゃんは昔申し訳ない思いをさせた彼と、また付き合い始めたわ。秋生ちゃんがまた傍に来る彼に根負けしたから」

「……はい」

「秋生ちゃんは名誉挽回して今度こそ彼を幸せにできるはずなのに、私は今の秋生ちゃんが全然幸せそうに見えない。秋生ちゃん、どうしてなのかしら」

「店長、ごめんなさい」

「親友の真由ちゃんにも恋愛事の悩みをほとんど話さない秋生ちゃんは、昔から一人で抱え込むのが大好きなのね。だから自分一人じゃ手に負えなくなると、相手と別れるしかない。でもね秋生ちゃん、昔別れてもらった彼をもう一度振るなんてことは絶対だめよ。彼のことが大好きな陽大君もとても傷ついてしまう。秋生ちゃんは根負けしたからでも受け入れた彼を、もう絶対離しちゃいけないわ。彼を幸せにする覚悟を決めて、そろそろ秋生ちゃんも幸せな顔しなさいな」


 本当は一昨日柊永を離そうとして叶わなかっただけの秋生は、遠山から彼と幸せになる覚悟を優しく迫られる。

 結局幸せ顔を浮かべるどころか、悩みもせず諦めた。


「店長、私は彼と今のまま付き合うだけで十分なんです」

「今のまま? 迎えに来る彼と会うだけ?」

「はい」

「そんなの無理よ。彼が満足しないわ」

「大丈夫です、彼もわかってくれました」

「……秋生ちゃん、しつこい私を誤魔化そうとしてる? 昔付き合った秋生ちゃんを諦めなかったあの彼が、そんな程度で納得するわけないじゃない。秋生ちゃんが彼の気持ちを叶えてあげないだけ。本当は結婚も望まれてるんでしょ?」

「…………」

「秋生ちゃんが彼との結婚なんて望まないのは、壮輔さんと別れた経験があるから勇気が出ない? 最後まで彼を幸せにできるか不安?」

「いえ……ただ今の生活に慣れてしまって、結婚が面倒に思うだけなんです」

「……ねえ秋生ちゃん、一昨日秋生ちゃんに会いに来た男性のお客様は、彼のお兄さん?」


 やはり秋生が予想していた通り、遠山は一昨日秋生と話すため店を訪れた男性が柊永の兄だとほぼ察していたらしい。

 今になって静かに確認された秋生もとうとう箸を置かされた。


「そうです」

「秋生ちゃんが彼のお兄さんと話し終えた後とても具合を悪くしたから、辛い話をされたんでしょ? 彼とのお付き合いを反対された?」

「はい、昔別れたせいです」

「昔秋生ちゃんが彼と別れたせいで、また付き合い始めた彼を振れって?」

「お兄さんは私じゃ彼を幸せにできないと判断したんだと思います」

「……私にはあの優しそうなお兄さんがそんな程度の理由で彼の幸せを奪うなんて、できないと思うわ。秋生ちゃんと話をするお兄さんはとても必死な様子で、秋生ちゃんに頭を下げてお願いしてた。お兄さんがあんなに必死になってまで彼と別れることをお願いする理由は、別にあるんじゃない?」

「きっと彼のお兄さんだけじゃなく、彼の家族みんな同じ気持ちなんだと思います。だから私への説得を家族に任されたお兄さんは大変だったんです」

「……ごめんね秋生ちゃん、一昨日お兄さんが秋生ちゃんと話してた時、カウンターにいた私にまでお兄さんの声が少し届いてしまったの。そして私は曖昧なお兄さんの説明をどうにか理解してしまった」

「…………」

「彼は昔秋生ちゃんと別れてから、家族に2度も過酷な思いをさせたのね」


 秋生は一昨日柊永の話を耳にした遠山から彼の過去を静かな声で確認され、一昨日柊永の兄と向かい合った自分までもまざまざと思い出させられる。

 一昨日と同じく青褪めた秋生に慌てた遠山は、向かい席から秋生の手を掴んだ。


「秋生ちゃん」

「……はい」

「ごめんね」

「いえ店長、違います。私は何ともありません」


 遠山から手を掴まれながら後悔の謝罪を受けた秋生も急いで顔色を取り戻し、安心させる。

 秋生は再び席に落ち着いた遠山を改めて見つめた。


「店長、私は一昨日彼のお兄さんと話して、初めてとても後悔しました」

「彼をもう一度受け入れたこと?」

「はい。だから私はお兄さんにお願いされなくても、一昨日迎えに来た彼に別れを告げました」

「でも彼は当然拒否したんでしょ?」

「はい」

「秋生ちゃんは拒否されたから、諦めて彼と付き合い続けてるの? 一昨日彼は別れようとした秋生ちゃんを引き止めるために、家に泊まらせた?」

「いえ……私が彼の家族に反対されても別れることをやめたのは、もう別れたらいけないとわかったからです。一昨日彼の家に泊まったのは、私のことが必要だった彼を放っておけなかったからです」

「……そう。彼はどうしても秋生ちゃんと別れられないから、秋生ちゃんは仕方なく別れなかったのね。これからもずっと仕方なく付き合うから結婚なんてとんでもないし、当然幸せな気持ちになんてなれないのね」


 秋生は曖昧に教えた本心を遠山の口からはっきりとした言葉で確認され、黙ることで肯定するしかなかった。 


「でも私は秋生ちゃんのもう一つの気持ちも知ってるわよ。一度結婚した秋生ちゃんは壮輔さんを悲しませてとても後悔したから、もう二度と恋人を作るつもりもなかった。でも昔の恋人に根負けしてもう一度付き合った秋生ちゃんは、彼のことがちゃんと好きなのよね?」

「……はい、でも彼の希望を叶えたくない気持ちの方が強いです。彼には申し訳ないけど、私は今まで通りの付き合いしかできません」

「秋生ちゃんは絶対これ以上前に進まない。秋生ちゃんに特別教えられた私もこれ以上背中を押せない…………じゃあ後は彼が無理やり秋生ちゃんを引っ張るしかないわね」

「……店長」

「秋生ちゃんごめんね。私は秋生ちゃんより陽大君の味方だから、陽大君が大好きな彼の味方にもならなきゃ。それに彼は昔離れた秋生ちゃんを待ち続けて、やっと再会できた秋生ちゃんを根負けさせるほど根性のある人。私は根性ある男の人が好きだから、どうしても応援したくなっちゃうの。秋生ちゃん、私が彼を依怙贔屓するくらい許してくれない?」


 恋人に前向きではない秋生をあっさり諦めた遠山が、その代り彼の味方になる許可を求める。

 結局ただ黙ることしかできない秋生をそのままに、客席から離れた。

 昨夜に続き、秋生はようやく静かな溜息を吐いた。




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