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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: 柊月エミ
最終章 希 望 へ
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2人の朝




「今日は店休めるのか?」

「うん、真由が働いてくれるって」

「……そうか、悪かった」


 昨夜柊永の自宅に泊まった秋生は翌朝彼と共に目覚めた。

 土曜日の今日仕事休みの柊永はわざわざ仕事を休んだ秋生に謝る。

 柊永が心の中でとても喜んでることに気付いてる秋生はベットに彼を残し、寝室を離れた。


 結局昨夜は夕食のおにぎりを食べた後そのまま眠ってしまったので、すぐに洗面所へ向かう。

 歯ブラシがないため口はゆすぐだけにし、元々化粧してない顔を流水で洗う。

 タオルで水気を拭き取ると、洗面台の鏡に映した自分の顔を久しぶりにしっかり見つめる。


 今柊永の家にいる秋生は自分の容姿を自ずと振り返り始めた。

 秋生の年齢は今年30才になるが今まで一度も垢抜けたことがなく、子供の頃からの地味さは変わらない。

 薄作りの頼りない眉と小さな一重目だけじゃなく、ぼやけた鼻筋や丸い輪郭もすべて女性にとってコンプレックスになりえる。 

 少し厚めで紅要らずの唇だけ友人から褒められたことがあった程度だ。


 けれど柊永は昔、秋生の顔をとても愛した。

 秋生の眉と目はしつこく啄ばみ、秋生の鼻筋を舌でなぞり、秋生の丸い頬を美味しそうに吸いつき、秋生の唇に毎夜数えきれぬほどキスした。

 秋生の顔をとても愛した柊永は秋生の癖がある髪も思わず食べるほど愛し、秋生の弱々しい声で名前を呼ばれるととても喜んだ。


 昔の柊永は毎夜秋生の身体もとても愛した。

 秋生はきめ細かい白肌に恵まれたが身体は生まれつき決して細身ではなく、思春期を境に更に肉付きよくなった。 

 昔の柊永は肉付きよい秋生を毎夜裸にせずにはいられず、秋生の白肌すべてを愛し尽くした。

 昼間小さい陽大がいるお蔭でとても穏やかに秋生に接した彼は、陽大が寝た夜になれば秋生を愛する為に大きく喜び興奮した。


 秋生は柊永に初めて身体を愛された時、何も知らない高校生だった。

 同じく高校生だった彼に導かれるまま繋がり、それ以降は徐々に大胆となる彼の望みにも抵抗することなく受け入れ続けた。

 当時若くて無垢だった秋生がもし嫌がれば、彼は望みを諦め続けただろう。

 けれど秋生は常に受け身で消極的ながらも、彼の望みを一度だって嫌に思うことはなかった。

 彼の望みは当時の秋生にとって過激であっても、彼が秋生を愛する故でしかなかった。

 普段彼に我慢を強いてばかりだった秋生は、彼に応えられる行為はすべて叶えたかった。


 秋生は昔彼と付き合い始めた高校生の時より互いの心を知った中学生の時から、彼に深く想われる自分を自覚していた。

 とても正直な彼に好かれれば深く想われ続けると自ずと信じていたし、実際に彼と付き合い始めてからの秋生は深く愛された。

 秋生の消極的な愛など霞んでしまうほど、彼は秋生を愛してやまなかった。


 そして彼から深く愛される秋生は結局彼を手離す為、無残に捨て去った。

 秋生はそれから彼と再会するまでの9年間、彼にとても憎まれたのち潔く忘れられたと信じ続けた。

 しかし今思えば秋生は彼をわかっていたから、無理やり信じるしかなかった。

 彼にいつまでも愛されるとわかっていたから、そんな彼を追い払うように否定し続けた。


 暫く洗面台の鏡で自分を見つめながら昔の自分まで振り返った秋生は現実に戻り、ようやく洗面所から離れた。



「タオル借りた」


 部屋に戻った秋生がソファに座っていた柊永に声を掛けると、一度立ち上がった彼から露骨に安堵される。

 彼から今日1日離れない自分への期待を感じさせられ、まだ朝なのに彼の傍は居心地が悪くなる。


「ベランダ出てもいい?」

「ああ」


 つい逃げてしまった秋生は昨夜も出たベランダに降り、今日は朝の景色を1人眺め始める。

 結局すぐに彼が隣に並び、ベランダに出たことも後悔した。


「ここから図書館も見えるだろ」

「うん」

「よく行くか?」

「時々……漫画読みたい時とか」

「秋生は昔から図書館の漫画好きだよな」

「小説よりわかりやすいから」

「何度も借りるなら集めりゃいいんだ。俺の部屋は物がないから、いくらでも置ける」

「ううん、私は集めなくていいの」

「じゃあ俺が代わりに集める。秋生の好きな三国志とブラックジャック」

 

 いつのまにか目の前の景色ではなくベランダの手摺を見つめながら、秋生には呆れのような感情が生まれた。どうしたって彼は九年前の恋人の些細な好みまで忘れない。


「……集めないで。私はこれからも図書館で借りたい」

「ここに秋生の好きな漫画があれば、必ず読みに来たがる」

「ならないよ」

「秋生は今日もつれねえな…………やっぱり陽大に頼るしかねえか。来週は漫画揃ってるから、姉ちゃんも無理やり連れて来いって」

「……柊永、私のせいで陽大に頼らないで」

「秋生のせい?」

「陽大が柊永に頼るのは私のせいだけど、柊永はそうしないでほしい」


 秋生は再びベランダから見える図書館に視線を向けながら、隣の柊永に気まずい声を出す。自分のせいで陽大に頼る柊永を嫌がった。


「じゃあ俺は陽大に頼らねえよ。秋生だけに頼る」

「…………」

「秋生、頼む。これからもここに来てくれ」

「……時々、陽大と一緒に来る」


 基本、頑なな秋生にしてはずいぶん折れたはずでも、当然彼には中途半端にしか捉えられない答えだった。


「俺には秋生の気持ちがまだわからねえな。俺が陽大に頼れば嫌がるのに、秋生は陽大を頼っちまうのか」

「勝手でごめんね」

「構わねえよ、秋生は陽大頼りでいい。俺がねじ伏せる」

「……私を?」

「ああ、陽大をねじ伏せても意味がねえからな」

「…………」

「秋生、俺にねじ伏せられるなんて想像できねえか?」


 確かに柊永にねじ伏せられる自分を想像できなかった秋生は柊永に顔を覗き込まれ、思わず目を合わせた。

 特にからかいの色を浮かべてない彼にまっすぐ見つめられ、慌てて目をそらす。


「中入る」

「逃げるのか?」

「……うん」

「秋生の得意技だもんな。俺はいつも逃げられるしかねえ」


 決して嫌味を言わない彼の本音を聞かされても今は逃げることを優先し、ベランダから離れた。






「おはようございまーす」

「あら真由ちゃん、いらっしゃい」


 土曜日の朝9時前、今日は秋生に代わって働くため珈琲店を訪れた真由は、店主の遠山から明るく迎えられる。


「遠山さん、私今日は客じゃないよ」

「わかってるわよ。今日は真由ちゃんが働いてくれるんでしょ?」

「うん、よろしくお願いします」

「こちらこそよろしくね」


 遠山は昨夜秋生から電話をもらい今日は真由が働くと教えられたので、改めて今日一日共に働く真由と笑って挨拶を交わした。



「真由ちゃんが秋生ちゃんの代りに働いてくれるのは1年ぶりね」

「そういえば1年前は陽大の入学式があったっけ。はあ…………陽大が高校生になって、もう1年経ったのか」


 遠山と一緒にランチの準備を始めた真由はキャベツの千切りを任せられながら、ちょうど1年前も陽大の入学式に出席した秋生の代りに店を手伝った自分を振り返る。

 ついでに既に高校2年となった今の陽大も思い出せば、感慨深い溜息を吐かされた。


「秋生ちゃんは陽大君のために休む以外はずっと働いてるけど、今日は勤めてる幼稚園が休みなのにここで働いてる真由ちゃんも同じね。相変わらずプライベートが充実してない」

「遠山さんははっきり指摘するね…………私は充実したプライベートなんて求めてないから、休日も働いてた方が楽なんだよ。休日前の金曜日は羽目外しやすいけど、昨日は酒も少し控えられたしね」

「呑兵衛な真由ちゃんの恋人は相変わらずお酒ね。最近合コンは行ってるの?」

「合コン? ああ、1回だけ同僚に付き合わされたけど、私に近付く男は変態だったよ」

「変態?」

「がたいよくて一見気が強い私に苛められたそうなM男。あいにく私はSじゃないからね。あの日はM男を無視しながら酒だけしこたま飲んで、トイレで吐くと見せかけこっそり帰ったよ」

「あはは、見た目は長身スレンダーできつめ美人だけど性格は呑気で平和な真由ちゃんは、M男にとって期待外れね」

「そういうこと」

「でも真由ちゃん、いつまでも呑気で平和でもいられないわよ。真由ちゃんはいくら美人だって29才なんだから、そろそろ彼氏作りに本腰入れないと嫁に行き遅れちゃう」

「はいはい、そのうち1人暮らしになったら考えるよ」


 フライの仕込みをしながら真由とお喋りする遠山は、29才になっても恋人作りに熱心じゃない真由の呑気な発言に初めて手を止めた。


「真由ちゃん、1人暮らしって?」

「そのまんまだよ。私は2年前から親が単身赴任で留守の家を守ってるけど、ついでに秋生と陽大を巻き込んだんだ。でも3人暮らしはいつまでも続くわけじゃないから、そのうち私は初めての1人暮らしが始まるよ…………もしかしたらそのうちじゃなくて、間もなくかもね」

「……秋生ちゃんに恋人ができたから?」

「あれ? 遠山さんも知ってたんだ。秋生に聞いたの?」

「まさか! あの秘密主義な秋生ちゃんが教えてくれるはずないじゃない」

「そりゃそうだね。じゃあ遠山さん、秋生を迎えに来る木野君を見かけた?」

「……木野君? 真由ちゃんも秋生ちゃんの恋人と親しいの?」

「中学のクラスメイト」


 店まで秋生を迎えに来る彼を見かけるだけで詳しくない遠山は、真由の答えに驚きを露わにした。


「遠山さん、何でそんなに驚くの?」

「だって…………じゃああの彼、秋生ちゃんともクラスメイトだったの?」

「まあね」

「彼は最近秋生ちゃんと偶然再会して、アプローチしたってこと?」

「まあそんな感じじゃない?」

「……真由ちゃん、私を誤魔化そうとしてるわね?」

「そんなことないよ」

「わかった。あの彼、秋生ちゃんの元クラスメイトなだけじゃなく元彼なのね?」

「はあ…………遠山さん、秋生じゃなく私に確認するのやめてよ。また私は怒られる」

「また? 真由ちゃん、私のせいで秋生ちゃんに怒られたことあったの?」

「遠山さんは秋生が壮輔さんと離婚した真相だって、私に根掘り葉掘り聞いたじゃん」

「何言ってんの、あの時結局真由ちゃんは私に嘘教えたじゃない。秋生ちゃんが壮輔さんと離婚した理由は、食の好みが違ったからだって。あとで秋生ちゃんに確認したら、おかしそうに笑って否定されたわよ」

「私は秋生が教えたがらない私情を遠山さんに確認されたって、教えられないんだよ。結局私だってわからないんだから」

「真由ちゃんは秋生ちゃんと壮輔さんの離婚事情を知らなかったけど、秋生ちゃんと今の彼の関係くらいわかってるんでしょ? それだけでいいから教えてちょうだいよ」

「……本当にそれだけ?」

「それだけ」

「まあいっか…………確かに木野君は秋生の元彼だよ」

「秋生ちゃん、あの彼と中学時代付き合ってたの?」

「まさか、中学生の秋生は赤ちゃんの陽大に掛かりきりだったよ。木野君と付き合ったのは高1から」

「何年付き合ったの?」

「秋生が20歳前に別れたから…………4年だね」

「別れた理由は?」

「遠山さん残念、私もそこまではわからない」

「はあ……秘密主義な秋生ちゃんも、せめて親友の真由ちゃんにくらい白状すればいいのに。まあお人好しな秋生ちゃんのことだから見当つくけど」


 秋生と今の彼が昔も恋人関係だった事実まで真由に無理して教えてもらった遠山も、詳しい事情は予想だけで諦める。

 遠山が再びフライの仕込みを始めると、今度はキャベツの千切りを止めた真由から視線を向けられた。


「……遠山さん、秋生の別れた理由が見当つくの?」

「真由ちゃんだって秋生ちゃんのことよく知ってるんだから、見当つくでしょ?」

「…………」

「……まさか真由ちゃん、今まで全く見当つかなかったとか?」

「いや遠山さん、私はたとえ秋生の親友でも深入りを避けただけだよ」

「しょうがないわねぇ。今までどうしても見当つかなくて言い訳する真由ちゃんには、パッと一瞬で見当ついた私が教えてあげる。秋生ちゃんはね、4年付き合った彼を手離してあげただけよ。自由にしてあげたの」

「……はは、まさか。遠山さん、それは完全な誤解だよ」

「誤解? 真由ちゃん、私の見当が誤解だと思う根拠は?」

「高校生だった秋生は、元々木野君と付き合うつもりだってなかったんだよ。まだまだ手の掛かる陽大を抱えた秋生が木野君と付き合ったってデートもできないどころか、2人きりになることさえ難しいからね。でも正直者で一途な木野君に好かれて真っ直ぐアプローチされたから、結局秋生は木野君に負けた。秋生が木野君と付き合った4年間は普通の恋人同士とはかけ離れてた。2人は毎日必ず一緒にいるのに毎日必ず陽大も一緒で、陽大にすごく懐かれてた木野君は陽大のお父さんでもあったよ。木野君は毎日陽大の面倒見て忙しい秋生を助けて、高校卒業したらもっと秋生を助けるために3人で一緒に暮らし始めた…………木野君にとって毎日秋生を助けることは恋人になった義務や責任感じゃなくて、ただの喜びだった。でも毎日木野君に助けられる秋生は違う。毎日喜んでくれる木野君が辛くて、毎日木野君を独占するせいで木野君の家族にも大きな罪悪感を抱えてた。それでも秋生が木野君を4年間離せなかったのは、秋生から絶対離れてくれない木野君のせいだよ。秋生はようやく木野君を自由にするため離れたんじゃなくて、自由を望まなかった木野君をなぜか無理やり離すしかなかったんだ」

「……じゃあ真由ちゃんは秋生ちゃんに事情が出来て、彼と無理やり別れるしかなかったと思ったわけね?」

「まあそうだね。でも私は親友でも深入りできない性格だから、秋生の事情はわからずじまいだよ」

「真由ちゃんはいつもわざと秋生ちゃんの事情に深入りしないのよね……」

「え? 遠山さん、何か言った?」

「ううん、何も。じゃあ真由ちゃん、秋生ちゃんの話はまた後で聞かせてちょうだい。そろそろランチの準備を急ぎましょうか」

「はいはい」


 とりあえず今は遠山に解放された真由はキャベツの千切りを再開し、遠山と共にランチの準備作業にいそしんだ。



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