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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: 柊月エミ
最終章 希 望 へ
61/119

震える眠り



「秋生」


 小さな明かりが灯る中、男は最愛の女を呼んだ。


 いつの間にか隣で眠る女は呼ばれても気付くことなく、静かな寝息を立てている。

 女の寝顔をしばらく間近で見つめた男は、ようやく女に触れたい意志も思い出す。

 無意識に震える指先が女の丸い頬に触れた瞬間、全身に大きな震えを走らせ、一度失いかけた男の心は女によって生き直した。


 再び生き始めた男が間近で眠る女に触れながら、女が離れない現実を初めて実感する。

 強烈な歓喜に襲われた身体は再び大きく震え上がり、女の頬に触れる指先は感覚すら失った。

 女に触れているのにわからない指先を今度は怖れ、眠る女を震えながら抱きしめ始める。

 女の温もりと柔らかさを感じ取った身体に甘く切ない痺れが貫き、女の懐かしい香りを必死に吸い込む。

 女へのあまりの愛しさに頭の芯まで痺れ切った男はすぐに女への飢餓状態に陥り、胸の中の女を必死に掻き抱いた。



「……柊永」


 秋生は窮屈な締めつけで目覚めさせられた。

 柊永を宥めてるうちにいつの間にか眠ってしまった現実と共に、今は彼からきつく抱きしめられてる現実に気付く。

 あまりにも強い締めつけに彼の名を呼び根を上げた。


 眠る秋生を必死に掻き抱いていた柊永が苦しげな秋生の声で呼ばれ、我に返った。

 秋生の顔を覗き込むと、確かに目覚めていた秋生は苦痛そうに顔を歪めていた。

 柊永は秋生が逃げることをとっさに怖れ、今度は縋りつき抱き締める。


「秋生、秋生は諦めた。俺を離さないと諦めた。もう俺を離さない」

「柊永」

「秋生、離さないでくれ。もう絶対離さないでくれ。秋生、逃げないでくれ。お願いだ、どうか逃げないでくれ」

「柊永」


 縋りつかれる柊永から一心不乱に懇願された秋生は、宥めるために彼を呼ぶ。 

 けれど秋生はそれ以上宥めることなく、彼の両手が秋生の首に回された。


「秋生」

「…………」

「俺は本気だ。秋生を死なせられる。俺はこの手で秋生を殺せるんだ。でも秋生は死にたくない。陽大を残して、俺に殺されたくない。秋生は陽大の為に、これからもずっと生きなきゃいけねえんだ」

「…………」

「俺は今、秋生を死なせないことができる。秋生が約束すれば、俺の手は秋生を殺さずに済む。秋生は約束だけすればいい。秋生は絶対に俺を離さない。もう二度と俺から逃げない。秋生、俺に約束してくれ」

「……手を離して」


 最後に約束を強いられた秋生は怖れる声で解放を望む。

 頭を震わせ拒否されたので、仕方なく再び怖れる声を絞り出す。


「……柊永は私が離れなければ嬉しいの? 私が逃げないだけで安心する?」

「ああ、俺はそれだけでいいんだ。あとは何も望まない。秋生、それだけでいい」

「柊永に脅された私は本当にそれだけだよ。ただ傍にいるだけ。脅す人を好きにはならない」

「…………」

「私は陽大がいるから、柊永に殺されたくない。だから柊永の傍にいることもできる。でも私はそんな柊永を好きにならないから、もう一度考えてほしい。柊永はただ傍にいるだけで好きにならない私がやっぱり不満だと思うなら、手を離してほしい」


 秋生は脅す柊永を言葉で拒否し、手を離すよう静かにお願いする。

 見下ろす秋生に呆然とショックを受ける柊永は、それでも秋生の首だけ離さない。

 仕方なく秋生が首に掛かる彼の手を離し始めると、抵抗した彼はその手にわずかな力を加えた。


「秋生、やっぱり俺から逃げるつもりか」

「……そうじゃないよ。やめて」

「一度受け入れた俺をやっぱり後悔したのか…………秋生に逃げられれば死のうとして、秋生が逃げないよう殺そうとする俺が面倒になったのか。これからまた俺から逃げて、また他の男と一緒になるつもりか」

「私はそんなの無理だよ。柊永に殺されてしまう」

「そうだ、秋生には無理だ。もう俺しかいない秋生は二度と他の男を選ばない。もう俺にしか好かれない秋生は、また俺を好きになるしかねえんだ」

「それでも私は脅す柊永だけは好きにならないよ…………柊永、私は離れないから手を離して」

「…………」

「柊永、お願い」


 秋生はどんなに脅されても、そんな柊永を最後まで拒否した。

 彼からわずかに締められる首を解放するよう、最後は優しく彼を呼びお願いする。


 結局柊永は秋生に好かれない自分など耐えられず、とうとう秋生を離した。

 脅しを取り上げられた柊永が放心する姿を見上げた秋生は、一度受け入れた以上もう二度と彼を離せない自分を改めて自覚させられた。



「……お腹空いたでしょ」

「…………」

「何食べたい? 買ってくるよ」


 暫くしてようやくベットから上体を起こした秋生は状況を変えるため、彼に夕食を勧める。

 暫く放心したままだった柊永も、ようやく再び秋生を見つめた。


「……秋生」

「うん」

「どこにも行かないでくれ」

「コンビ二行くだけ」

「ずっと一緒にいてくれ。帰らないでくれ」

「……今日は泊まるよ」

「明日は?」

「一緒にいるよ」

「帰らないか?」

「明日は帰るよ。陽大が待ってるから」

「……秋生、また3人で一緒に暮らそう」

「え?」

「陽大が困らねえように、もっと広い部屋を借りる。秋生、明日新しい部屋を見つけに行こう」

「ちょっと待って。無理だよ」

「無理? どうしてだ?」

「……そんなこと考えてない」

「俺はずっと考えてた。陽大も絶対に喜ぶ。秋生だってそうだ。俺と一緒に暮らせば生活が楽になるし、ずっと困らない。俺はやっと秋生と陽大を養える」


 柊永はもう秋生を帰らせない為、一緒に暮らす提案を強引に押し切り始めた。

 一度は口に出し断った秋生もこれ以上は諦め、今夜は誤魔化すことを選択する。


「私お腹空いた。コンビニ行ってくる」

「俺も行く」


 そそくさとベットから降りた秋生はすぐ柊永の手に掴まる。


「じゃあ着替えて。そっちの部屋で待ってるから」


 一緒にコンビニへ行くことになると一度柊永の手を外し、隣の部屋へ向かった。





「一番近いコンビニってどこ?」

「こっちだ」


 すでに夜10時近くになりマンションの外へ出ると、柊永は秋生の手を握りながら近所のコンビニに向かい始める。


「秋生、明日スーパー行って食材買おう。うちには揃ってねえんだ」

「……いつも夕ご飯は何食べてるの? 外食?」

「食わねえ」

「え?」

「社食を食うから十分だ」

「お昼ご飯だけ? 朝ご飯は?」

「必要ねえよ」


 柊永に1日の食事は社員食堂で食べる昼食のみと教えられた秋生は、わずかに戸惑っただけで納得させられた。

 すぐに納得したのは柊永の家のキッチンが全く使われてなく薄々予想していたせいもあるが、彼が食に対して本当は全く頓着しないことを昔から気付いていたからだ。

 昔の彼を思い返してるうちにコンビニまで辿り着くと、手を引かれるまま店内に入った。



「秋生、何食う?」

「おにぎり」

「秋生の好きなシーチキンが残ってる」

「うん」

「あとは?」

「えーと…………昆布」


 秋生がおにぎりコーナーに少しだけ残っていたおにぎりを2種類選び終えると、柊永も同じ2種類を選んだ。

 さっき夜は食べないと言っていた柊永がこれから一緒に食べるつもりなので、密かに安心する。


「秋生、デザートも食おう」

「え?」

「プリン」

「今日はいいよ。遅いから」

「じゃあ俺と半分。あと必要なものあるか?」

「……大丈夫」


 柊永はおにぎりの他に秋生の好きなプリンも手に取った。

 秋生が結局遠慮できないと、柊永はレジへ向かってしまった。




「いただきます」


 再び柊永の部屋に戻った秋生はおにぎりを食べ始める。

 テーブルで向かい合う柊永はおにぎりに手を付けることなく、秋生を見つめ始めた。


「……何?」


 秋生が視線を気にすると、ようやく柊永もおにぎりを食べ始めた。

 2つ目のおにぎりを食べ始めた秋生は再び柊永に見つめられる。

 1つ目のおにぎりも中々食べ終わらない柊永を諦め、2つ目のおにぎりも食べ終えた。



「秋生、食おう」


 ようやくおにぎりを食べ終えた柊永がコンビニで一緒に購入したプリンを冷蔵庫から取り出し、秋生を誘った。

 柊永は本当に1つのプリンを一緒に食べるつもりらしく、スプーンで掬ったプリンを秋生に向けてしまった。

 素直に口を開くわけにもいかない秋生は困った表情だけ浮かべる。


「自分で食べるよ」

「どうして?」

「恥ずかしい」

「昔と変わらねえだろ。昔も俺が食わせた」

「……でも今は昔じゃないから、半分残して」


 昔のように食べさせられることを最後まで拒否すると、柊永はそれ以上無理強いしなかった。

 暫し気まずく俯いた秋生も顔を上げると、すでにスプーンを手離した柊永は無表情ながらも明らかに痛みを滲ませていた。

 自分の素っ気なさで柊永を傷つけた秋生はようやく後悔する。

 結局は慰めも謝りの言葉も掛けられず、テーブルに置かれたプリンを見つめた。


「……秋生、俺達は昔と変わらない」

「…………」

「俺達はただ暫く離れただけだ。これからまた一緒だから、秋生も昔と変わらず俺に頼れ。秋生、昔みたいに俺に甘えてくれ」

「……私達は昔ただ離れたんじゃなくて、別れたの。だから私はまだ頼ることも甘えることもできないよ」

「どうしてそんなこと言うんだ? もう俺達は付き合ってる」

「…………」

「これからすぐ一緒に暮らすし、俺は秋生と陽大を養う家族になる。秋生、俺達は結婚するんだ」

 

 秋生は今まで手つかずになったプリンばかり見つめたが、再びさっきの話をぶり返した柊永としっかり目を合わせる。


「私はそこまで考えてない…………これから一緒に暮らしたいと思ってないし、結婚なんて考えたこともない」

「秋生」

「ごめんね、私は一緒にいるだけで精一杯なの。今日離れたかったのは本当だから」

「…………」

「もしこんな私でも離れないことを望んでくれるなら、今まで通り迎えに来るだけにしてほしい。私は時々一緒に食事するくらいはできるけど、もうここに来ることはない。今回だけ…………ごめん。もう私に期待してほしくないから、はっきり言った」


 秋生はすでに結婚を視野に入れていた柊永を今のうちに諦めてもらう為、これ以上の深い付き合いを望まない意志を伝える。

 今度こそ決定打の痛みを与えられた柊永は、とうとう秋生を傷ついた目で責めた。


「秋生がこれ以上俺を受け入れねえのは、俺の家族に反対されるからだ。昔からそうだった…………だから秋生は昔も俺の家族に絶対会いたがらなかった」

「……そうじゃない」

「どうせ俺の家族に喜ばれないと諦めてるから、俺との将来も最初から諦める。秋生、そうだろ?」

「私が最初から諦めてるのは、柊永の家族が理由じゃないよ」


 秋生を責めるため声まで高揚させた柊永が、逆に最後まで静かに否定される。

 柊永はようやく秋生の本心を悟り、一瞬で高揚を冷ました。


「私のせい…………私は反対を押し切るほどの気持ちがないの。昔も今も柊永の為にそこまで頑張れない」

「……やめてくれ」

「私と柊永は同じ気持ちかもしれないけど、きっと重さが全然違う…………私は柊永の家族に喜ばれないなら、一緒にいることも諦められる。でも柊永に離されないから一緒にいるだけ。昔の私はもう少し欲張ってしまったから、柊永の家族にわざと会わなかった。今の私は少しも欲張る元気がない…………だから柊永も私に合わせてほしいの」

「もうやめてくれ、もう眠りたい。秋生、一緒に寝よう」

「…………」

「秋生」


 柊永にとって酷すぎる本心を伝え続けた秋生は、まるで現実逃避するように眠りたがった柊永には酷になれず、連れられるまま柊永と共にベットへ入った。



 秋生はわずかな明かりの中で目を瞑り、隣の柊永に抱き締められる。

 目を瞑っているだけで眠ることはできず、さっき必死に眠りを求めた柊永は秋生にわずかな震えを伝え続ける。

 彼の震えは秋生への脅えであり、昔の彼も脅えた夜は抱き締める秋生にわざと震えて怖がった。

 ただ目を瞑ったまま彼の震えを受け止め続ける秋生は彼の意図を昔からわかってるから、ただ静かに受け取るしかない。 


 彼は昔も今も秋生から消極的な愛しかもらえないから、代わりに沢山の同情を受け取るつもりなのだ。

 秋生に離されることを素直に脅えることで得られる秋生の同情は、彼を安心させてくれる。

 彼にとって秋生の同情はまったく屈辱ではないから、彼は堂々と秋生に脅える。

 そして昔散々脅えられた秋生が今夜も静かに受け取ることは変わらなかった。


 ひたすら目を瞑る秋生はようやく本当に眠りに就くまで、彼に脅えられ続けた。




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