夜の後悔
『真由?』
「うん」
夕方過ぎの七時前、仕事から帰宅したばかりの真由は玄関で着信音を鳴らしたスマホを取り出し、着信相手の秋生に応対した。
『帰ったの?』
「今帰った。秋生はまだ店?」
『………………』
「どうしたの? 今日は遅くなる?」
『……真由、今日は私、帰らない』
「え?」
『陽大のこと、お願いしていい?』
「ちょっと待ってよ、まず帰らない理由を教えるべきじゃない?」
秋生の突然の外泊宣言に慌てた真由だが、理由を問い正しても一拍置かれる。
『……言いづらくて』
「言いづらい…………もしかして、木野君?」
『うん』
「秋生、今日は木野君の家に泊まるってこと?」
『事情があるの』
「事情? ただ泊まるんじゃなくて?」
『今日は傍にいないと…………多分、明日も』
「木野君は今、秋生が離れたら不安な状態なの?」
『……うん』
「どうして?」
彼に関しては特に口が重い彼女に今度こそ黙られ、真由はすぐに追及をやめた。
「わかった、詳しい話はあんたが帰ったら聞くよ。明日の仕事はどうする? 休むなら、私が代わるよ」
『真由ごめん。本当はそうしてくれるとすごく助かる。休みなのにごめん』
「私が久しぶりに遠山さんの店で働きたいんだよ。秋生はとりあえず遠山さんに伝えといて。私は明日あんたの代りに店行くから、あんたは明日ずっと木野君の傍にいな。陽大にも簡単に伝えとく」
『うん……ありがとう真由。よろしく』
心苦しそうな声で礼を言われた真由はそこで通話を切る。
玄関に佇んだまま、秋生が離れられないほど不安定な状態の彼を考え始めた。
原因も探りかけたが、今は一度諦めようやく玄関から離れた。
柊永の部屋で真由との通話を終えた秋生は携帯電話を仕舞い、再び隣の寝室へ足を踏み入れる。
ベットまで音なく近付くと、柊永はまだ眠っていた。
彼の静かな寝顔を見下ろしながら、秋生は思案する。
彼が再び目覚めるのはいつなのか、そして目覚めた彼はどんな状態なのか。
今の彼をあまりよく知らない秋生にとって、彼の想像はただ難しかった。
それでも今夜は決して傍から離れられず、明日彼が正常な状態を取り戻しても離れることは叶わないとわかっている。
さっき彼の心を失わないため必死に助けた秋生はそのまま彼が眠った今、再び彼の傍にいる今後を思案するしかなかった。
心を失いかけるほど彼を拒絶してしまったせいで、今更後悔してるのだ。
九年ぶりに彼と再会し、陽大が再び彼を離さなくても、彼が自分に会いに初めて店を訪れた時点で拒絶しなければいけなかった。
最初に彼を拒絶できなかった理由は、今陽大を任せてる自分に拒絶する資格がないせいだが、過去に彼を捨てた負い目からでもある。
それからも会いに来続ける彼をやはり拒絶できなかった理由は、彼への同情と、本当は彼を拒絶したくない自分の欲だった。
今まで四つの理由で彼を拒絶できなかった秋生は今日ようやくそうしたせいで、彼の心を失くしかけるまで追い詰めた。
そして、これから二度と彼を拒絶できない自分を思い知らされる。
彼との関係は戦いと一緒だ。
これから長い戦いが待ってる秋生はベットで眠る彼を見下ろすことも辛くなり、目をそらした。
再び寝室を離れると、彼が普段過ごしてるリビングに佇み、改めて見渡す。
寝室と同じ広さの室内にはテレビと小さなテーブル、そしてソファが置かれていた。
ひどく簡素でほとんど色がなく、おそらく秋生だけでなく誰もが驚くほど寂しい部屋だった。
秋生はまるで孤独に溢れる彼の部屋から逃げ出すように、今度はキッチンへ向かう。
これから彼が目覚めた時に食事を用意できればと、小さい冷蔵庫を確認してみるが、中には食材一つ存在しなかった。
調味料も米びつも見当たらないキッチンは、彼が普段自炊せずに全て外食で済ませているか、出来合いの食事を購入してることが窺える。
本当に彼はここで暮らしているのかと疑うほど生活感のない家に改めて驚かされ、これから食材を購入するべきか悩み始める。
結局は彼が一度目覚めなければ行動できず、とりあえず今は諦めソファに座ることにした。
「……あ、店長に電話しなきゃ」
ソファに一時間以上座り続けた秋生はようやく思い出し、携帯電話だけを持って窓を開ける。
ベランダに出ると店主の遠山に電話を掛け、明日は欠勤する代わりに真由が店に出る旨を伝えた。
無事電話を切った後はすぐに部屋へ戻らず、ベランダから夜の外を眺めた。
柊永が暮らす三階建ての小型マンションは、秋生が暮らす真由の家から車で十五分程度の場所にあると把握できる。
傍に大きな図書館がある為、秋生もこの近辺に訪れたことが何度もあったお蔭だ。
そう考えてみれば、同じ市で暮らす彼と九年間のうち一度のすれ違いで済んだことは、逆に幸いだったのだろうか。
けれど結局九年経って彼と再会し、今こうして一緒にいるのだから、自分にとって彼は初めから決して切れない存在なのだろうか。
秋生はマンションの三階から外を眺めながら、彼との繋がりをぼんやりと振り返る。
暫くしてようやく我に返ったように、ベランダの手摺を離した。
再び部屋の中へ戻ると、寝室のドアが開いていることに気付く。
秋生は慌てて寝室を覗き込むと、すでに柊永はベットにいなかった。
部屋のどこにも見当たらない彼が外へ出たととっさに判断し、今度は玄関へ向かう。
廊下で立ち止まった秋生が驚きながら見つけた彼は、玄関ドアの前で蹲っていた。
まるで耄碌した状態の彼は蹲ったまま、よく見れば秋生の靴を胸に抱えている。
「柊永」
秋生は明らかに尋常じゃない彼に思わず恐るおそる呼び掛けながら、同じく竦む足で傍に近づき、彼が抱えている自分の靴をそっと取り上げた。
彼は秋生の靴を離されると、今度は目の前にある秋生の顔に朦朧とした目線を向ける。
おそらく秋生がベランダにいた時に目覚めた彼は秋生の姿が傍になく、玄関にあった秋生の靴を抱き抱えただけで身体も思考も止めたのだろう。
今再び秋生を見つけた彼は確かに秋生を呼んでいるのに、まだ声を忘れてるせいで秋生の耳に伝わらない。
「ベットに戻ろうね」
玄関で蹲る彼をどうにか立ち上がらせた秋生は支えながらゆっくり歩かせ、再びベットへ戻った。
「今日は真由ちゃんがキッチンに立ってる……」
「お帰り陽大、今日は久しぶりに真由ちゃんメシだよ」
「ゲエ……何で? 秋ちゃんは?」
部活を終えたあと七時半に帰宅した陽大は、めずらしくキッチンで夕食作りに格闘してる真由をげんなりと見つめ、慌てて姉の居所を確認した。
「今日は店に泊まるんだって」
「は?」
「遠山さんと一晩中、新作ランチの試作をするんだって」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、秋ちゃんにも電話で確認してみよ」
「陽大、忙しい姉ちゃんを邪魔するのはやめな。あんたは今夜大人しく真由ちゃんメシ食べてればいいんだよ」
「……真由ちゃん、本当は俺に嘘吐いてるんでしょ? 今日、秋ちゃんは店じゃなくて他の所に泊まるから」
「姉ちゃんが泊まる所なんて店しかないじゃん。あんたは私を疑い過ぎだよ」
「じゃあやっぱり秋ちゃんに電話してみよ」
「こら陽大、姉ちゃんを困らせるな」
再びスマホを取り出そうとした陽大はとうとう怒られると、真由の顔をマジマジと見つめ始める。
「何?」
「……そっか。やっぱ秋ちゃん、今日は柊君の家に泊まるんだ」
「…………」
「真由ちゃんが否定しなかった…………やった」
結局陽大は誤魔化す真由を見透かし、気まずげに黙った彼女に勝手に喜び始めた。
「陽大、確かに秋生は木野君の所にいるけど、喜ぶ理由じゃないんだよ」
「秋ちゃんは柊君とまた付き合い始めたから、柊君の家に泊まるんでしょ?」
「そうじゃないよ。あの二人は付き合ってないけど、木野君の体調が良くないから、今夜は秋生が看病するだけ」
「……柊君、具合悪いの?」
「うん、でもただの風邪だって。だから陽大は勘違いせず、明日姉ちゃんが帰ってきても何も聞いちゃだめだよ。わかった?」
秋生が帰らない理由を今度こそしっかり誤魔化した真由は無事陽大を黙らせると、再び夕食作りに格闘し始めた。
「柊君が風邪なんて絶対嘘だ…………はあ、心配」
真由の誤魔化しなど最初から見抜いている陽大は彼女の作った頓珍漢な夕食を食べ終えると、自分のベットに横たわりながら姉と彼を心配し始めた。
確かに真由は喜ぶ陽大を止めたのだから、今夜姉が彼と一緒にいる理由は明るいものではないのだろう。
では彼とまだ付き合いに至らない姉は、今夜どんな理由で彼の家に泊まるというのか。
悔しくも全く見当がつかない陽大は天井を見つめながら顔を顰める。
「そもそも秋ちゃん、柊君に応える気あるのかな……」
現在彼と一緒にいる姉の心情を考える前に、根本的な疑問をぶり返した。
姉がすでに四ヵ月近く前に偶然再会した彼と再び会うようになったきっかけは、間違いなく陽大だ。
陽大が九年ぶりに再会した彼と今度こそ離れなかったから、姉は仕方なく彼と改めて顔を合わせた。
陽大が週末のたび彼に会いに行くせいで姉と二人きりで会った彼は、それ以降明らかに様子が変化した。
それまで陽大が会いに行っても冷静に接してくれた彼は、気が付けば陽大をぼんやりと見つめていたり、陽大と一緒にいてもいつの間にか深く考え込んだりと、陽大に彼らしくない様子を度々見せるようになった。
彼が急に変わったのは姉と改めて会ったせいだと最初から悟った陽大は、今までの冷静だった彼が偽りだったことにも初めて気付いた。
今まで陽大に会う時は気丈に振る舞っていただけで、普段家で一人の彼は、気を抜けば姉のことしか考えられない今の彼に違いない。
そして彼は姉と改めて会ったせいで、陽大に対して偽ることも難しくなっただけなのだ。
その後間もなくして、彼はとうとう姉に会うことを我慢できず、仕事終わりの姉を送り始めた。
陽大がそれを知ったのは、二人が一緒に帰る姿を偶然帰り道で目撃したからだ。
次に彼と会った時、姉を送っているのか直接確認すると、彼は短い返事で肯定した。
陽大が二人は再び付き合い始めたと判断し心の中でとても喜んだのは、すでにひと月前だ。
今夜、真由から姉が彼の家に泊まったと認められた瞬間は更に喜んだが、すぐに姉は一筋縄ではいかないことを思い出させられた。
「秋ちゃんが柊君に応えたわけじゃなく、柊君の家に泊まる理由…………やっぱり柊君の体調不良? うーん、でも柊君って昔からめちゃくちゃ丈夫だしなぁ…………あ、もしかしていつまでも煮え切らない秋ちゃんに痺れ切らして、帰るなと必死に引き止めた? 柊君に懇願された秋ちゃんは同情して、仕方なく今日は泊まる決意をした? お人好しな秋ちゃんらしいけど、いざとなったら意外に潔い秋ちゃんらしくない…………でもやっぱそれしかあり得ない!」
暫し声に出し悩んだ陽大は、今夜姉が彼の家に泊まる理由は同情に違いないという結論に達し、横たわるベットから跳ね上がる。
「よーし、柊君その調子だ。頑張れ」
彼が積極的になったお蔭で必ず姉とよりを戻させようと闘志を燃やした陽大は、固く拳を握りしめながら彼を応援し始めた。




