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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: 柊月エミ
第四章 救 い の 手
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救いの手




 店の裏口から外に出た秋生は今日も店の前で待つ彼が視界に入ると、歩みを止める。

 一度立ち止まったまま動かない秋生に気付いた柊永は、自ら歩み寄った。

 その顔にはわずかに心配の色が滲んでいる。


「どうした」


 完全に優れない秋生の顔色に気付いたのか、それとも今だ自分の姿を映さない秋生の目に何かを感じたのか、柊永は見透かすように秋生の顔をのぞき込んだ。


 わずかにそらした目で柊永を感じ取った秋生は、逃げるように一度固く目を閉じた。

 再び目を開いた時、今度はまっすぐ彼を見つめた。

 ようやく触れ合った視線に、柊永は明らかに安堵した。


「どうした、秋生」


 表情を和らげ、優しく問いかけた柊永は、固く握りしめられた秋生の手に触れた。 

 その瞬間、一切の接触を拒絶するように振り切られ、柊永の手はそのまま静かに落ちた。


「……もう、ここに来ないで」


 驚くほど低い呟きは、温度ない冷めたものだった。

 秋生はわずかな感情も見せず、冷静に柊永を見つめた。


「ごめん……忘れて」


 一度受け入れた手を残酷に振り払った秋生は、この些細な一言で再び柊永を突き放した。

 秋生がそらさず見つめた柊永の目に、一瞬で絶望が滲み湧いた。

 今、自分の手で底に突き落とした柊永の姿をすべて見つめた秋生は、その恐怖にせり上がるような吐き気と眩暈を覚えた。

 

「誰に言われた」


 重く呟いた柊永にさっきまでなかった酷い怒気を感じ取り、秋生はわずかに怯んだ。


「……兄貴か」


 確信に近い口調だった。

 おそらく柊永の兄は、秋生に会う以前から彼を止めていたのかもしれない。

 ただ首を振って否定すると、柊永は秋生の両腕を力任せに掴んだ。


「嘘を吐くな。秋生、何を言われた」


 柊永は我を忘れ、容赦なく秋生を追い詰めた。

 ただされるままの秋生は掴まれた腕の激痛だけに思わず顔を歪ませる。

 そんな秋生に気付きわずかに冷静を取り戻した柊永は、ようやく力を緩ませた。


「俺の問題だ。何も気にしなくていい」


 さっきまでの怒りを隠した柊永が再び秋生の目をのぞき込み諭した。

 まるで安心させるように笑みさえ浮かべる。


 秋生は再び柊永の目をまっすぐ見つめた。


「二度と、会わない」


 短い呟きで永遠の別れを告げた秋生は、腕に握られた彼の手が一瞬ぶるりと震えたのをこの身の揺れで感じた。

 隙をつくようにそれを振り払い、すべての情を捨て背を向けた。

 

「さよなら」


 最後の言葉はかするような小さな呟きであり、秋生ができる限界だった。

 けれどおそらく柊永には届いたはずだ。


 いつもと同じ帰り道を、背後の柊永を置いて歩き始めた。

 

 遠い日、彼を手離し無残に捨て去ったあの日で終わるはずだった。

 再び出会い、秋生はまた彼を捨て置いた。 


 柊永の兄の言葉通り、今ならまだ間に合う。

 今の2人は、まだ互いの手しか知らない。

 あとわずかでも深入りしてしまえば、今日のようにはいかなくなる。

 再び柊永が駄目になる。

 それがわかっているから、秋生は今日彼を再び手離すしかなかった。

 秋生の気持ちなど、どうでもよかった。

 彼を別の意味で永遠に失くす恐怖に比べれば、そんなものいくらでも捨てられる。

 それを過去にしてしまった秋生は、一度は自分を許し感情のまま彼の手を取った自分がただ怖ろしかった。



 足早に立ち去り、すでに遠くなったはずの秋生が再び腕を捕われた。

 今度は決して引き離せないそれに確実に狼狽をみせた秋生は、とっさに振り返った。

 背後を映す前にぐらりと身体が揺れたのは、柊永がその手で引きずるように連れ去ったからだ。


「待って、お願い」


 腕を掴まれた秋生がついていくのもやっとなほど、柊永は先を行く。

 焦りを含んだ秋生の懇願も聞き入れてはくれなかった。


 普段通らない騒音の激しい大通りまで辿り着くと、そこに停車していた連なるタクシーの1台に無理やり押し込まれた。


「……お願い、やめて」


 すでに走行を始めた車内で説くように隣に囁いても、柊永は秋生の手を握りしめ、わずかも離すことはなかった。

 嫌でも感じる彼に纏う空気が底知れぬものを伝えてきて、見えないそれに怯んだ秋生は隣に振り向くことさえできなかった。


 

 目の前にそびえ立つマンションを怖々と見上げると、再び歩き始めた柊永の手に抗えず続いた。

 記憶もままならないほどにそのドアの前まで辿り着き、背中を押され中に足を踏み入れる。

 背後で響いた静かに閉まるドアと施錠の音に、秋生は怯えの中に諦念を交ぜ息を震え出した。

 すべてを閉鎖した柊永は握りしめた秋生の手を引き、部屋の中へ進む。

 一見さっきまでの熱を失くした柊永の態度に秋生の心はわずかに緩んだが、次の瞬間視界に映ったそれに気付き秋生の顔は蒼白となった。



「柊永」


 9年の時を経て、秋生の唇が紡いだ彼の名は震えを帯びえ、自分をベットに縛りつけた男に恐怖した。

 両腕を囚われ、わずかの振動も許されない秋生を、柊永はただ見下ろしていた。


「秋生、俺を見ろ」


 唯一の抵抗となった秋生の目は、圧し掛かる柊永から逃げるために固く閉じられた。

 闇に逃げ込んだ秋生の頬に包まれた感触は、確かに柊永のものでしかない。


「俺を見ろ」


 じわじわと加えられる頬の痛みが限界までくると、固く閉じた目をようやく震え開いた。

 容赦なく見下ろす柊永に、自分から逃げ出した秋生への壮絶な怒りと憎しみが色濃く滲んでいる。


 互いの目が触れ合った瞬間、突然柊永の目に1滴落ち沁みたのは、自分だけを見つめる秋生への果てしない歓喜だった。


 秋生以外すべてを葬り去った柊永は、自分を見つめる秋生の目を愛おしむように唇で触れた。

 ビクッと全身を震わせ顔をそらすと、それを許すはずがない柊永は秋生の頬をきつく引き戻し、強引に唇を奪った。

 息もできぬほど奥深く含まれ、舌を絡めとりきつく吸い上げ舐めとる。

 思わず呻きを上げた秋生の声さえも、己のものだと唇で掬いとり身体に取り込む。

 秋生の心、身体、細胞、髪の毛一本さえも見逃さない、飲み込んでいく。

 この最愛の女のすべてを自分におさめなければ、もう生きてはいけない。狂ってしまう。

 一度手離し、他の男のものとなった秋生がようやく戻ってきた。

 再び奪われるくらいなら、今度こそ躊躇なく男の息の根を止めてやる。

 

「秋生」


 自分が紡ぎだす愛しい女の名前すらも、柊永は愛おしむ。

 秋生へのすべての愛を込め、囁く。


 

 柊永が秋生にわずかな隙を与えた。

 ようやく柊永の唇から解放された秋生は、一切を拒絶し顔を背けた。

 身体だけを拘束されたまま心は許さず、最後の力を振り絞り、柊永が紡いだ愛を拒絶した。

 突き返した。

 

 互いの間に、音すら存在しなくなった。

 不気味にも感じる静寂は、それでも秋生を一瞬解放させた。

 

 そむけつづけた頬に落ち滲む感触が、秋生の拒絶をあっさりと奪った。

 見上げた柊永の目から止めどなく流れ落ちる涙が、絶望が、秋生を静かに濡らしていく。

 

「……秋生、行くな…………俺を置いて行くな……」


 漆黒の中に秋生を失った孤独がとうとう決壊し、底深く落ちた。

 止まらない、秋生にしか止められない。



「……柊永……柊永……」


 震える手を伸ばし、名を紡ぎ、たった今秋生の前で壊れていく柊永を引き止める。

 頬に手を這わせ、目に触れ、包み込むように抱きしめる。



 秋生はとうとう気付かされた。

 最初から間に合うはずなどなかったのだ。

 

 遠い日、秋生が捨て置いたせいで絶望の淵を彷徨っていた柊永が、再び秋生と出会い手を取られ、ようやく救われたのだと。

 秋生が帰ってくることだけが、柊永を引き止めていたのだと。


 ようやくそれに気が付いた時、たった今壊れゆく柊永を諦めてはいけなかった。

 

 


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