瞼の残像
今日も店の前に現れた柊永は秋生の姿に気付くと、その目で静かに見守った。
一度止めた足を再び歩み始めた秋生の隣に、柊永も並ぶ。
視線がない、言葉がない、触れ合わない帰路は、以前と何も変わらない。
前だけ見つめる秋生とそれにならう柊永は、互いに意識だけを向け、果てなく感じる暫しの時を共に歩む。
すでに日常と化した2人の道は、互いに他を望まなければ変わることはなかった。
一瞬、歩みを止めたのは秋生だった。
そのわずかともいえる静止は、秋生にとって意識ないものだった。
何も変わらなかった帰路に、初めてわずかな変化を見せたのは秋生の迷いの心だった。
気付かぬほど些細な一瞬の静止は、再び歩を踏んだことで秋生の記憶から消し去った。
再び前を見つめた瞬間、秋生の身体に痺れのような震えが走った。
歩みを忘れた足は、凍りついたようにその場に囚われた。
秋生の手に痺れを与えたその温度は、柊永の指先だった。
秋生のわずかな心の変化を見逃してくれなかった柊永は、秋生の手を静かに握りしめた。
いつもと変わらない2人の道で、初めて互いが歩を止めた時、2人の時間も止まった。
そして確実に流れ続けた2人の時は、凍りついた秋生の身体をようやく溶かし始めた。
再び歩みを始めた秋生に、柊永も並んだ。
互いの離れることない手の温もりは、秋生の柊永への応えであった。
その日、店に現れた1人の男を、秋生は確かに知っていた。
「……水本 秋生さんですか」
ドアの前に佇むその男は、傍に来た秋生に迷うことなく問いかけた。
わずかに戸惑いながら自分を尋ねる男を確認した秋生は、次第に顔を強張らせた。
面識のない男だった。
確かに知らない男のはずなのに、秋生はその男を知っていた。
男は一番奥の客席に座り、秋生も向かいに腰を下ろした。
表情を固くしたままわずかに下を向く秋生に、男は静かな視線を向けた。
「……木野 柊永の兄です」
彼は同様に固い表情を浮かべ、目の前の秋生を見つめた。
「はい」
短く答えた秋生はようやく顔を上げ、彼と視線を合わせた。
兄弟であっても雰囲気の異なる、柊永よりはるかに柔らかい印象だった。
9歳違いということもあって大分落ち着いているが、顔の特徴にわずかに柊永に通ずるものがあった。
そして秋生だからこそ、それに気付くことができた。
「気を悪くしたら申し訳ないです…………あなたのことは以前から知っていました。弟の友人からも話は聞いてます」
柊永の友人とは、瀬名のことだろう。
秋生と柊永の事情を知ってるのは彼しかいない。
秋生が沈黙したままそこまで話を聞くと、柊永の兄は明らかに表情に緊張を滲ませた。
「単刀直入に言います…………弟と別れてやってください」
彼は秋生に向かって深く頭を下げ、初めて声を強くし懇願した。
すでに覚悟していた秋生であってもこの瞬間、痛みで目を閉じた。
「……私達家族は今まで2度、あいつを失いかけました」
彼の低く発した声に、微かな震えが帯びていた。
秋生の身体から静かに血の気が引いていった。
とうに顔色を失くした秋生は、ようやく彼の唇を見つめた。
「1度目は、あなたと別れた直後です…………それから弟は生きることをやめてしまいました。普通の生活ができるようになるまで、1年以上かかりました」
過去の壮絶さを物語るように、悲痛の響きが向かい合う2人の周りを渦巻いた。
「一見、立ち直ったように思えた時期もありました。それが間違いだと気付いたのは、あなたと別れてから3年後です。弟は再び同じ選択をとりました」
再び響いた悲痛の声は秋生を支配し、呼吸の意味さえ忘れさせた。
「今度もしあなたと何かあった時、弟は立ち直れません。そして私達もこれ以上引き止める自信がない。お願いです……今ならまだ間に合うはずです。弟から手を引いてやってください」
救いを求めるように秋生を見つめた彼は、最後に再び深く頭を下げた。
すでに生気を失くした秋生は、虚ろな目で彼の姿を眺めた。
今の秋生には柊永への罪の意識さえも麻痺するほどに、自分を失くし周りを失くした。
生きる価値を失くした秋生の心に唯一残ったのは、柊永だけだった。
朦朧とした意識が目の前の眩しい照明によって、無理やり現実に引き戻された。
反応するように上体を起こし、視界を広げる。
休憩室のソファで横になっていた秋生はどうしてここにいるのか、それさえも記憶になかった。
激しい眩暈を感じ、頭を押さえしばらくじっと耐えていると、休憩室へ近付く足音がどうにか耳に響いた。
「秋生ちゃん、目覚めた?」
休憩室に入った遠山はすでに起き上っている秋生に近付き、気遣わしい表情を浮かべた。
まだ言葉の出ない秋生は視線だけを遠山に向けた。
「覚えてる? 秋生ちゃん、さっきのお客様が帰ったあと真っ青な顔でうずくまっちゃったのよ。どう? 具合は」
「……はい」
弱々しい声を押し出すと、遠山はとりあえず安堵の息を吐いた。
「今日はもうこのまま帰って休みなさい。今タクシー呼ぶから」
「……いえ…………店長、しばらくここで休ませてもらえますか?」
徐々に顔色を戻しつつある秋生がお願いすると、遠山は考え込むように黙った。
「……もしかして、あの彼が来るから?」
「…………」
「その方がいいかもしれないわね。彼に送ってもらいなさい」
秋生に優しく微笑みかけた遠山はゆっくり休みなさいと最後に声を掛け、休憩室から離れた。
残された秋生は、再びソファにゆっくり身体を預けた。
目の前の眩しすぎる照明から逃げるように顔をそらす。
光を失わせた瞼に今も離れることなく映す彼の残像を、この一時だけは消え去ることがないよう固く目を閉じた。




