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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: 柊月エミ
第四章 救 い の 手
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震える沈黙




 しばらくソファに座っていた秋生は、いつの間にか帰宅した陽大が背後に佇んでいたことに気付く。


「お帰り」


 慌てて立ち上がり陽大と顔を合わせると、すぐにキッチンへ向かった。



 秋生は意味もなくシンクに手を付き、キッチンに佇み始める。

 そんな秋生に気付いた陽大は再び背後に近寄った。


「……今日、会ったの?」


 背後に感じる弟の問いに一瞬身体を固くした秋生は、静かに振り返った。

 陽大は感情を乗せない顔で秋生と見つめ合った。


「柊君に会ったんでしょ?」

「……うん」


 弟の2度目の問いかけに否定できなかったのは、すでに弟が知っていることを十分理解していたからだ。

 秋生が柊永の連絡先を陽大に尋ねた時点で、自ずと悟ったはずだ。

 そしておそらく陽大は、姉が柊永に会う理由もわかっている。


 ようやく諦めた秋生は一度伏せた視線を戻し、再び陽大と見つめ合った。


「……陽大、私は何も言わない。ただ、相手の都合もちゃんと考えて行動してほしい」


 せめてそれだけは陽大の姉として、柊永にしなければいけない礼儀だった。

 弟を止められないからと柊永に都合良く押し付けた無力な秋生は、少しでも弟の気持ちを宥めることしか残されていなかった。


「……ねえ秋ちゃん、どうして柊君と別れたの?」


 姉の忠告にしばらく黙っていた陽大が低く問いかけた。

 初めて問われた、そしていつか問われると覚悟していた弟の言葉に秋生の身体は強張り、顔色を失くした。

 覚悟していたはずの問いに、結局答えなど用意されてはいなかった。

 すべては1つの小さな嘘から始まった、秋生の罪でしかなかった。

 犠牲となったのは柊永と壮輔、そして小さい弟だ。


「じゃあ、どうして秋ちゃんは戸倉さんと結婚したの?」


 とうとう秋生は向かい合う弟を怖れるように目を閉じた。

 秋生にとって罪でしかない弟の容赦ない言葉は、決してこの場から逃げることを許してくれなかった。


「本当に戸倉さんが好きだった? 好きだから結婚したの?」


 答えなければいけない。肯定しなければいけない。

 それ以外の答えなどあってはいけない。

 けれど今の秋生に逃げ道は存在しなかった。

 弟の言葉に肯定することは弟だけでなく、過去の壮輔への裏切りだからだ。


 弟に脅え震える唇が、沈黙する秋生の答えだった。



「……秋ちゃんは、一体誰が好きなの?」


 さっきまでの強さを失くした弟の静かな問いはまるで恐怖に震える秋生を慰めるように、秋生の耳に優しく響いた。






「……はい、できた」


 早朝、畳に膝をついた秋生が見上げたのは、すでに疲れた表情を滲ませる真由だった。


「あ、こら。座るな」


 袴姿で床にへたりこもうとする真由の腕を引っ張り、無理やり立ち上がらせる。


「毎年こればかりは堪らないわ……来年からやめよう」


 うんざりと息を吐く真由は、確か去年も同じ弱音を呟いたはずだ。


「もったいないじゃない。子供達も喜ぶと思うよ」


 保育士として年に1度、卒園式の日に袴姿となる真由は、すでに7年間続けてるのに今だ慣れることはないらしい。

 そしてここ数年着付けを手伝う秋生にとって、真由の弱音は少しばかり寂しくも思える。

 ショートカットで背の高い親友に、この赤い袴は彼女の美しさをより引き立たせてくれる。

 一度も袴を着る機会に恵まれなかった秋生にとっては、彼女の袴姿に喜びと誇りを感じるものだった。


「さすがに躊躇う年齢になったってことかな…………あーあ、とうとう30才か」

「真由らしくないなぁ。大丈夫、今日も綺麗だよ」


 秋生はしんみりと年齢を実感した真由の呟きを吹き飛ばし、笑顔で励ました。



 真由の呟きを、傍で一番理解できるのも秋生だった。

 ふとした瞬間過去を振り返ってしまうのは、今年30才という節目のせいもあるかもしれない。

 今は傍にいない母親から始まった秋生の人生は同時に孤独も始まり、そして弟によって救われた。

 生きることで精一杯だった10代の頃も、その後訪れた2度の別れも、決して平凡とは一言で言えない秋生にとって辛い過去に違いなかった。

 そして今も過去に囚われている自分がいる。


 弟に問われた日、一言さえ答えなかった姉に対し、弟は何も言わなかった。

 そして弟も姉が答えられないとわかっていて、そう問うた。

 おそらく、壮輔と暮らしていた頃から気付いていたのかもしれない。

 そして今それを問うのは、柊永との再会が原因に違いなかった。





「じゃあ、お先に失礼します」


 秋生は今日の仕事を終えるため、店主の遠山に向かって声を掛ける。

 気付いた遠山はわざわざ厨房を抜け出し、レジ前で佇む秋生に近寄った。


「どうかしました?」

「……秋生ちゃん、最近何かあった?」

「いえ、特に何もないですよ」

「何か元気ないのよねぇ……時々ぼーっとしてるし。そういえば顔色も良くないわよ」


 遠山から覇気がないと疑われた秋生はジロジロと顔をのぞき込まれ一瞬たじろぐが、すぐに笑顔を浮かべる。


「多分、寝不足なんだと思います。昨日遅くまで起きていて、朝も真由の着付けで早起きしたから」

「……だったらいいけど、あんまり溜め込んじゃだめよ。秋生ちゃん、それでなくても1人で抱え込むんだから」

「店長、無理な時はちゃんと相談しますよ。その時は聞いてくださいね」


 秋生は最後まで表情を曇らせる遠山に再び笑顔を浮かべると、今日の仕事を終わらせた。



 遠山に挨拶して奥の休憩室に入ると、エプロンを外し帰宅の準備を始める。 

 すぐにコンコンとドアが叩かれ、短い返事で答える。


「秋生ちゃん、お客様」


 ドアが開き、再び顔を合わせた遠山から来客を教えられ、わずかに反応が遅れた。


「……真由ですか?」


 自分を訪ねる客など真由くらいしか思い浮かばず、とりあえず確認する。

 遠山は秋生に答えることなく、早くおいでと促した。



 顔を強張らせその場に凍りついた秋生は、突然店に現れたスーツ姿の男を見つめた。

 あの公園での再会から2週間ぶりに見る、柊永の姿だった。

 


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