残された恐怖
肌に触れる暖かな風は、すでに春の気配を感じさせるものだった。
澄んだ空の下ベンチに腰を下ろした秋生は、周りに漂う穏やかな空気の中、ひとり固い表情で地面を見つめた。
ここを訪れてようやく気付いた後悔は、今さら消し去ることはできない。
つくづく彼に関しては縁のある公園という名の場所は、彼の勤める会社の隣に位置していた。
待ち合わせにここを指定したのは自分なのだから何も言えない。
店で会うよりも外を選んだのは、彼と間近で接する勇気などなかったからだ。
細かく震える手を誤魔化すように握りしめた秋生は俯きがちに地面を見つめていると、自分の傍に近付く気配を感じようやく視線を上げた。
見上げた先にスーツを纏った柊永の姿があった。
2ヵ月ぶりの再会に怖れながら彼を視界に映すと、柊永は静かに秋生を見つめていた。
一度合わさってしまった互いの目は、秋生に逃げることを許してはくれなかった。
「遅れて悪い」
低い声で謝られた秋生は脅えるような目をようやく離し、ベンチから慌てて立ち上がった。
「……呼び出して、ごめん」
無理やり声を押し出すと、ちょうど目の前にある彼の胸元に視線を向ける。
それが秋生の限界だった。
距離のあるままベンチに並んで座った2人は、ただしばらく目の前を見つめた。
互いの間には周りの穏やかな騒音しか存在せず、そして秋生は言葉を怖れた。
秋生と柊永に会話など成立しないからだ。
それほどまでに2人は、言葉にならないほど壮絶な別れを経験した。
二度と彼の前に現れない、唯一できる彼への罪滅ぼしは、結局再び出会ったことで無残に消え去ってしまった。
「……変わらねえな」
静かに沈黙を破った柊永の呟きは、昔秋生の耳に残った響きのままだった。
柊永は今だ前を向いたままだが、確かに彼の呟きは隣の秋生に向けられていた。
彼がそう思うように、秋生にとってもそれは同じだった。
20歳までの柊永しか知らない秋生にとって、隣にいる29歳の彼の姿は確実に変化している。
元々大人びた彼の印象が今は青年のものではなく、年相応に成熟した男性でしかない。
けれど秋生にとってまぎれもなく柊永だった。
「陽大のことだろ」
「……うん」
切り出したのは柊永だった。
秋生が柊永に連絡を入れた時点で、自ずと知っていたのだろう。
2人がわざわざ再会するのに陽大以外の理由など存在しない。
「あいつのことは、しばらく任せてくれねえか」
思わぬ柊永の言葉に、ようやく秋生は彼の横顔にそっと振り向いた。
「今は好きなようにさせてやるべきだ。じゃないと納得しねえだろ、あいつは」
「……ごめん」
謝ることしかできなかった。
どんなに躊躇っていても、結局柊永の言葉に否定できないからだ。
秋生には今の弟を止めることはできない。
柊永の立場を考えれば受け入れてはいけない申し出であっても、秋生は彼に謝るしか術はなかった。
それに何より、柊永の性格を知っている。
彼は決めたことを決して曲げない。
柊永は陽大を受け入れると決めた。
そこに秋生との過去は必要ない。
「ごめん」
秋生は無意識に、もう一度その言葉を呟いていた。
それは秋生にとって陽大の為ではなかった。
過去の秋生が自ら捨てた彼に呟いてしまった、ちっぽけで、あまりにも陳腐な言葉だ。
「……いつまでそんな顔してんだよ」
ビクリと一瞬身体を揺らした秋生は、再び隣に振り向いた。
柊永はいつのまにか秋生を見ていた。
「気にすんな、俺はそんなやわじゃねえ」
彼はその目に柔らかい優しさを込め、秋生を見つめた。
あの日と同じだ。
壮輔と共にいた3年前、偶然すれ違ったあの日の彼だ。
秋生を見て笑った。許すために笑った。
今、彼は再び秋生に許しを示した。
呆然と瞳を揺らした秋生は、自分を許した柊永の目を見つめた。
逃げることができなかったからだ。
たった今、秋生を許した柊永が、合わせたその目をそらさなかったからだ。
互いの目が再び触れ合った今、それはあまりにも自然で、驚異で、隔たれた年月を一瞬で消し去ってしまった。
秋生の震えた瞳は明らかに今、彼に脅えていた。
逃がさない彼に恐怖した。
囚われた足にすべての力を与えぐらりと立ち上がると、震える身体をぎゅっと抱きしめた。
「陽大をよろしくお願いします」
秋生はベンチに座る柊永に背を向けたまま、ようやく言葉にして弟を頼む。
ただ一度も振り返らず、その場から逃げるように去った。
これですべてが終わった。
秋生が柊永と再び会うことはない。
彼が弟を受け入れた今、互いには何も残らない。
あれほど怖れていた再会を経て何も残してはいけない現実の中、秋生の心に新たな恐怖が生まれた。




