心の叫び
弟の声で我に返った秋生は、玄関の上がり口に佇んでいる陽大へ無意識に視線を向けた。
呆然と立ち尽くしたまま動かない陽大は、目の前にいる男の背中を見ていた。
男の背中だけを見つめる陽大の目は少しずつ、怖れるように歪んでいった。
「……柊君」
再びその名を呟いだ陽大の唇は細かく震え、すでに顔色を失くしていた。
陽大は自分の声に反応を見せない男にゆっくりと手を伸ばした。
「柊君…………俺のこと忘れたの?」
男の腕を両手で掴んだ陽大は、今だ自分に横顔しか見せない男を脅えた目で見上げた。
「俺のこと、もう忘れたの? 陽大だよ」
男に懇願する声はすでに16歳の弟のものではなく、幼い少年でしかなかった。
痛々しく細める目に勢いよく溢れた涙が陽大の頬に幾重にも零れ落ちた。
「忘れないで、俺のこと忘れないで。俺は忘れてないよ。ずっと忘れてないよ。ずっと柊君を待ってたよ」
弟の心が、今まで我慢し続けた心の叫びが、その男を前にしてとうとう溢れ出た。
「柊君、俺サッカーやめてないよ。ずっと見ててくれるって、ずっと一緒だって約束したじゃん!」
しがみついた男の腕に顔を埋め泣く陽大の叫び声が、男の周りに悲しく響いた。
男のもう片方の手が、陽大の髪に触れた。
びくりと一瞬震えながら顔を上げた陽大は戸惑いの表情を浮かべ、男を見上げた。
自分の頭を撫でる男の大きな手は、かつて弟の憧れだった。
「……でかくなったな、陽大」
すでに遠くなった日、そして今も変わることなく弟の希望であった柊永は、あの頃と変わらぬ優しい目で弟を見つめた。
日曜日の朝、柔らかな光が差し込むキッチンで朝食の準備をしていた秋生は、傍に近寄った真由の姿をぼんやりと眺めた。
「くさい」
「……え?」
秋生はいつの間にか間近でのぞき込む真由の顔面にようやく我に返った。
「あ!」
握りしめたフライパンから見事に煙が上っている。
慌ててガスの火を消した秋生はフライパンの中で黒焦げとなったハムエッグにがっくりと落胆した。
「何ぼやけてんの?」
「ごめん、今作り直す」
焦げたフライパンを水に突っ込み丁寧に洗い直すと、再び冷蔵庫へ走った。
「……何か焦げ臭くない?」
たった今2階から降りてきた弟の第一声は、秋生の失敗で始まった。
秋生はクンクンと鼻を鳴らし顔を顰める陽大を誤魔化すため、新たに作り直したハムエッグをテーブルに置く。
「そういえば、朝3人揃うの久しぶりだね」
日曜日の朝、食卓に3人揃って腰を下ろすと、真由はたった今気が付いたように確認した。
秋生と陽大は思わず顔を見合わせ、苦笑を浮かべる。
「真由、それはね、休日真由が昼近くまで寝てるせいだと思うよ」
本当に気付いてないのか疑わしいが、真由は秋生の冷静な回答に、あ、そっかと笑い始めた。
「真由ちゃんが早起きなんて珍しいよね。いつも俺が起こしに行かなきゃ絶対起きないのに」
今朝は久しぶりに早起きした真由に対し、陽大は辛口だが褒めてあげる。
「昨日は久々に飲まなかったせいかな、スッキリ目覚めちゃったんだよね」
「だったら毎日スッキリすれば?」
「ちょっと陽大! 幸い便秘症じゃない私は毎日スッキリしとるわ! ていうか食事中に毎日スッキリとか言うな!」
「真由ちゃんは断酒を勧められると、すーぐ誤魔化すんだから」
「秋生、今日も仕事でしょ?」
「うん」
「買い物ついでにランチで寄るから。陽大、あんたも」
「……は?」
「荷物持ち、よろしく」
にっこり笑う真由に買い物の付き合いを頼まれた陽大は、たまらずうんざりした表情を浮かべた。
「遠慮しとく」
「なぜ?」
「俺にメリットないもん」
「メリット…………パフェとか?」
「小学生なら釣れるかもね。あいにく俺は高校生だからパフェじゃ釣られない」
「じゃあ唐揚げ?」
「あーもう! 真由ちゃんはめちゃくちゃ買い物長いから嫌だって言ってんの! 俺は付き合ってられないよ!」
「どうせ今日あんた部活ないでしょ。暇じゃない」
「俺も出掛けるから! ご馳走様」
陽大はしつこい真由から本気で逃げ出すためハムエッグを口に詰め込み、席から立ち上がった。
「……陽大、どこ行くの?」
秋生は朝から出掛けようとする陽大を見上げ、とっさに行き場所を尋ねる。
「柊君とこ」
秋生に振り返ることなく答えた陽大はそのまま玄関へ向かってしまった。
最後は弟の後ろ姿を黙って見送った秋生はわずかに肩を落とし、諦めの息を吐いた。
「……完全に開き直ってるね、あの子」
同じく出掛ける陽大を目だけで見送った真由は、再び秋生に向き直った。
「あんたのことだから止めるんじゃないかと思ってたけど…………放っとくんだ?」
秋生が真由に問われても答えることなく下を見つめていると、真由も納得したように息を吐いた。
「……まあ、あんな弟の姿見せられたら、いくら姉のあんたでも止められないよね」
ようやく真由の言葉で顔を上げた秋生が、今度は向かいの真由をじっと見つめる。
「ちょっと、別にわざとじゃないからね。途中、陽大の声で目覚めちゃったんだから」
「……別に何も疑ってないよ」
秋生にじっと見つめられた真由が慌てて釈明し始めたので、結局秋生は再び下を見つめた。
あの夜、柊永と再会してから、すでに2ヵ月が過ぎようとしている。
あの夜の後日、真由から詳しい事情を聞かされた。
職場の新年会のため店で飲んでいた真由は、すでに途中から泥酔状態だったそうだ。
意識も曖昧の中、偶然店に入ってきたのが柊永だったらしい。
真由は久しぶりに再会した彼とその場で話したことまでは覚えていたが、それから彼の車で送られたことは全く記憶にないそうだ。
「……うちに連れてきた私が言うのもなんだけど、まさか今さら木野君が出てくるとは想像してなかったな」
秋生と同じくあの夜を思い出した真由は、久しぶりに再会した柊永に改めて静かに驚く。
当然、秋生は彼女よりも深く驚かなければいけなかった。
どうして今になって柊永と再会してしまったのだろう。
避けなければいけない出会いは秋生にとって、そして柊永にとってひどく酷な現実だった。
けれど酷な再会が互いだけで済むなら、仕方のないことで終わる。
偶然の流れには決して逆らえないことを知っているからだ。
秋生はただこれからも柊永との偶然を望まないだけでいい。
問題は秋生と柊永の再会ではなく、柊永と陽大の再会に間違いない。
互いの繋がりは自分の意志で断ち切ることはできても、そこに弟が入ってくるとまったく話は別になる。
秋生と柊永に事情があるように、柊永と陽大にも2人にしか持てない繋がりがある。
そしてあの2人の繋がりに秋生は口出しできない。
柊永と再会して以降、陽大は暇さえあれば彼に会いに行く。
姉の秋生に隠すこともせず、平然と出掛けていく。
秋生が決して止められないことをわかりきってるから、姉の前で平気で彼の名を口にする。
そして秋生はそんな弟を黙って見つめることしかできない。
あの夜、柊永との再会で見せた陽大の姿は、秋生にとって言葉にならないほど辛く苦しいものだった。
姉が原因で柊永との別れを強要され、そして姉の結婚で更に苦しまされた弟の心が、柊永を前にして曝け出された。
そんな非情な姉が弟に許されるわけがない。
そして止める資格もなかった。
昔、柊永と共に暮らしたアパートを出てから、弟は変わってしまった。
笑顔を失くしてしまった。
姉に隠れて泣き、時々夜中にうなされるようになった。
しばらくしてそれでも落ち着き始めた陽大は、それ以降柊永の名を口にすることがなくなった。
姉の秋生には柊永への諦めに見えた。
それが間違いだったことにようやく気付いたのは、壮輔と結婚してからだ。
陽大は表面上穏やかに笑っていても決して壮輔に心を許さず、最後まで義兄とは呼ばなかった。
陽大にとって姉の隣りにいるのは柊永でしかなく、彼以外は決して心を許せなかった。
柊永と再び出会ってしまった今、すでに大きくなった陽大は姉の意志など関係なく柊永を手離さないだろう。
「……秋生。陽大のこと、木野君にこのままってわけにはいかないんじゃない?」
「…………」
「気まずいと思うけど、けじめとして一度あんたが木野君と顔を合わせるべきだよ」
秋生は下を見つめたまま、真由の言葉に頷きで答えた。
柊永と陽大のことに口出しはできない。
けれど秋生と柊永に辛い過去があった以上、弟の行動をいつまでも見守るだけではいかない。
柊永には今の生活がある。
別れてから9年という年月、秋生にはわからない柊永の過去がある。
そして柊永にとって、秋生と陽大はすでに過去の一部でしかない。
柊永は毎週自分に会いに来る陽大の存在に、おそらく複雑な心境だろう。
秋生が弟に対して何も言えない以上、柊永に対してもそのままというわけには決していかない。
真由の言う通り、けじめとして一度彼に会わなければいけない。
秋生はどんなに逃げたくても避けられない柊永との繋がりを前にして、諦めるしか道は残っていなかった。




