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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: 柊月エミ
第四章 救 い の 手
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始 動




「いいじゃない、合コン」


 出勤後の午前9時過ぎ、店の厨房でランチの仕込みを始めた秋生は、店主の遠山から突然掛けられた言葉に手際よく動かしていた手を止めた。


「……何ですか、急に」


 先週真由とした合コン話をとっさに思い出し、同じく合コン発言をした遠山を思わず訝しがる。


「昨日真由ちゃんが合コン行ったって言ってたじゃない」


 秋生は遠山に合コン発言の原因を教えられ、ようやくそうだったと思い出す。

 昨日店に遊びに来た真由は確かに遠山相手に報告していた。

 その時接客で忙しかった秋生は2人の会話を何気なく耳に入れた程度だったので、すっかり忘れていた。


「秋生ちゃんも行けばいいじゃない。誘われたんでしょ? 合コン」

「もう……店長までやめてくださいよ。それでなくても真由がしつこいのに」


 秋生は合コンを連発する嬉しそうな遠山に向かって素直にうんざりとした表情を浮かべる。


「真由ちゃんはね、きっと秋生ちゃんが心配なのよ。まだ若いのに、このまま枯れちゃうんじゃないかって」

「心配されなくても、まだ枯れるつもりはありませんよ…………ただ合コンが嫌なだけで」


 合コンなど生まれてこのかた未経験な秋生にとって、まさに縁も興味もない話だ。

 元々出会い目的で初見の、しかも複数の男性と向かい合うなんて、想像するだけでも気疲れしてしまう。


「合コンが嫌? 贅沢ねえ。秋生ちゃん、いい? 合コンは若い子だけの特権なのよ。若くなきゃ誘われないから、参加もできないの」

「合コンって年齢制限はないんじゃないですか?」

「50代の私は誰にも誘われたことないわよ」

「……店長、旦那さんがいらっしゃるのに、誰かに誘われたら行くつもりですか?」

「当たり前じゃないの。合コンは誘われさえすれば、参加するもしないも自由よ。つまり旦那持ちの私も自由に参加できるってわけ」

「そうですか……じゃあ私は合コンに誘われても辞退したいと思います」

「……秋生ちゃん、もしかして陽大君に遠慮してる?」


 つい今まで合コンを熱く語った遠山が突然心配げな表情を浮かべ、秋生に尋ねた。


「……陽大ですか?」

「あのね、一緒にいる秋生ちゃんは気付きにくいと思うけど、陽大君だってもう高校生なんだからね。少し前と同じじゃないわよ」


 秋生は遠山の意味深な言葉に、思わず黙り込んでしまった。


 おそらく遠山は壮輔とのことを言ってるのだろう。

 今まで詳しく話したことはなかったが、陽大の気持ちに関しては薄々気付かれていたのかもしれない。


「もう少ししたらあっという間に成人よ。今の陽大君に遠慮して恋を諦めるのは、まだ早すぎるんじゃない?」 


 最後は遠山に優しくアドバイスされた秋生は、ようやく笑みを浮かべた。


「そうですね、陽大のことはよくわかります。多分私が思ってるよりも、ずっと成長したと思います」


 もう中学生の頃の陽大ではない。

 あの頃わからなかったことも、たとえ理不尽に感じることも、今の陽大はちゃんと理解できるかもしれない。

 遠山の言う通り、彼の環境すべてにおいてそうだろう。


 けれど陽大にとって姉のことは心の成長と別問題である事実も、秋生は気付いてる。

 仮に秋生がまた同じ過ちを繰り返したとしても、陽大はおそらく以前と変わらない。

 ただ姉に言葉で伝えないだけで彼の内に秘め、我慢し続けるのだろう。

 それだけは秋生も十分理解している。


 もうあんな思いをさせてはいけない。

 それが秋生にとって弟にできる唯一のことなのかもしれない。






「水本君」

「……何?」

「今、暇だよね?」

「弁当食べてるけど……」

「食べたら校庭来て」

「何で?」

「いいから、じゃあね」


 昼休み、教室で弁当を食べていた陽大は突然クラスの女子生徒に話し掛けられ、校庭に呼び出された。

 女子生徒が離れていく姿を目で追い掛けたのは陽大ではなく、一緒に昼食を摂る友達の卓巳だった。


「ねえ陽君、あの子校庭で何したいんだろ?」

「さあ……告るんじゃない?」

「え? 告る?」

「女子がわざわざ男子を呼び出したら、普通告白でしょ」

「そうなんだ。俺てっきりあの子は陽君とサッカーしたいのかと思った」

「卓君……嘘でしょ?」

「ううん」


 女子が男子を校庭に呼び出せばサッカーすると信じる卓巳を当然疑った陽大は、素直に肯定され呆然と驚く。


「きっと卓君の心はまだ小学生くらいにピュアなんだね……いや、幼稚園児?」

「ねえ陽君、告られた後はどうするの?」

「普通は付き合うか付き合わないか、どっちかじゃない?」

「陽君はあの子と付き合うの?」

「ううん」

「そっか、よかった」

「……卓君、俺が付き合わないと嬉しいの?」

「だっておかしいじゃん。2人とも好きじゃないのに」

「え? 2人?」

「陽君はあの子が好きじゃないし、あの子も陽君が好きじゃないから」

「……何でわかるの?」

「わかるよ、俺好きな人いるし」


 陽大は男女の恋愛にからきし疎いと思い込んだ卓巳から、すでに恋してると教えられる。

 ついさっき卓巳を甘く見たせいで、思わず黙らされた。


「まあ俺は片思いだけどね」

「……卓君は告んないの?」

「うん」

「ずっと付き合えなくていいの?」

「困らせるよりマシ」

「……校庭行きたくなくなった」

「何で?」

「好かれてない女子に告られる俺って、バカみたいじゃん」

「陽君、頑張れ」

「ねえ……卓君は好きじゃない女子に告られたら付き合える?」


 陽大は恋愛事に関しては自分より遥かに大人だった卓巳に最後素直に質問する。


「ううん」

「……そうだよね」


 卓巳に否定された陽大はこれから告白されるだろうクラスメイトの女子生徒ではなく、姉のことを考えた。






 コップに水を汲み勢いよく飲み干した陽大は隣にいる姉の視線に気付き、訝しげに振り向いた。


「……何?」

「ううん、また大きくなったなぁと思って」


 実感が籠った姉の言葉に突然頭を掻き毟ったのは、おそらく照れ隠しだろう。


「あれ? 真由ちゃんは?」

「今日は遅くなるって」

「……また?」


 さっき帰宅したばかりの陽大は真由の不在理由を教えられ、呆れたようにげんなりする。


「先週あれだけはめ外したのに、全然反省してないじゃん」

「今日は職場の新年会だって。そういう時期だから、仕方ないんじゃない?」

「別に行くのは構わないけどさ、何で毎回あんなに飲むんだろ。本当懲りないよね、真由ちゃんって」


 不満げにぶつぶつ文句を垂れる陽大の気持ちもわからないわけではない。

 自分の限度を知らない真由はいつも何かしらはめを外し、そして一番被害を被るのは陽大だ。

 こればかりは秋生も弟に同情するしかなかった。


「陽大、今日は真由いないからグラタン食べようか」

「グラタン? いいね!」


 今夜もおそらく不憫な思いをさせる弟にせめて好物のグラタンでも食べさせようと思い立つと、案の定喜ばれる。


「茶好きで白嫌いの真由ちゃんと暮らしてる俺達って、グラタンなんて食べられないもんね」

「私はグラタン我慢できるけど…………茶好き? 白嫌い?」

「真由ちゃんの好物は唐揚げ、かつ丼、激辛カレー。真由ちゃんが苦手なのはグラタン、シチュー、カルボナーラ。見事に茶好きと白嫌いじゃん」

「すごいね陽大、真由のことよく知ってる」

「別に俺は真由ちゃんだけに詳しいわけじゃないよ。秋ちゃんは白好きで緑嫌い」

「……え? そんなことないよ。私は好き嫌いないし」

「白はモヤシ、緑はメロン」

「…………」

「つまり貧乏性ってこと。秋ちゃん、当たり?」

「グラタンなーし」

「嘘嘘、外れ外れ」


 つい調子に乗った陽大が最後は姉から好物を取り上げられそうになり、必死に取り繕い始める。

 結局姉弟は真由不在の夕食で久しぶりのグラタンを堪能した。 



 

 リビングの固定電話が鳴ったのは夜11時を過ぎた頃だった。


「秋ちゃん、出る?」


 電話の傍に近寄った陽大はソファに座る秋生に一度確認する。


「うんお願い。真由はいないって言って」


 普段固定電話は真由の留守以外に秋生と陽大が触れることはなかった。

 結局11時を過ぎても帰宅しない真由は、今日も遅くなるのだろう。

 

「……ねえ秋ちゃん、真由ちゃん今、家の前にいるみたい」


 電話に出たばかりの陽大は今だ通話中らしい受話器に手を当てながら、真由の帰宅を曖昧に報告した。


「え? どういうこと?」

「この電話の人、酔っぱらった真由ちゃんを家まで送ってくれたみたい。今家の前で電話してるって」


 陽大はわずかに戸惑いの表情を浮かべながら、真由が帰宅した詳しい事情を姉に話す。

 ようやく理解した秋生も慌てて傍に置いたカーディガンを羽織った。


「陽大、電話の人に今すぐ迎えに行きますって伝えておいて」


 秋生は受話器を握りしめたままの陽大に伝えると、小走りで玄関へ急いだ。




「すみません!」


 玄関ドアを開けた秋生はすぐさま謝った後、外灯の明かりを頼りに目を凝らし始める。

 家の庭に見知らぬ車が停まってあることに気付き、すでに秋生がいる玄関に向かって歩く2人連れを見つける。

 よく見れば泥酔してるらしい真由が、隣の男性に両腕を抱えられ歩かされている状態だった。

 玄関前で2人の姿を遠目に確認した秋生はそのまま駆け寄ろうとした。


 結局一歩も動けなかったのは、真由を介抱する男の姿をはっきりと見つめたせいだ。

 玄関ドアを開けたまま凍りついたように動きを止めた秋生は、すでに目の前まで近付いた男の顔を見上げた。


 顔色を失くした秋生の目はその男を見つめ、そして男の目も秋生を見つめた。


 ただ互いを見つめたまま声さえない2人の姿は、一見異様にも思える。

 けれど2人だけはそれが自然であることを知っていた。


 どのくらいそうしていたかはわからない。

 男だけを見つめる秋生は時間の概念さえ失ってしまった。

 

 互いしか見ない目を最初に外したのは男の方だった。

 失礼と一言呟いた男は秋生の脇を通り抜け、玄関に足を踏み入れる。

 互いの服がわずかに重なった瞬間ぶるりと震えた秋生の身体は、ようやく男から解放された。


 酔い潰れた真由を玄関の上がり口に横たわらせた男は、再び秋生に振り返った。


 

「……柊君?」


 男の背中に向かって尋ねたのは、弟だった。

 弟の声に男の身体が微かに震え、止まった。


 

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