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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: 柊月エミ
第四章 救 い の 手
52/119

平 穏



 遅い朝も通り過ぎ、すでに日が高くなった正午前、バタバタと階段を駆け上った陽大はすぐ手前にある部屋を勢いよく開けた。

 ひとつ呆れた息を吐くと、ベット上の白く膨れ上がった毛布めがけズンズン近寄っていく。


「いい加減、起きろ!」


 すでに今日3度目の怒鳴り声は数を追うごとに容赦なく威勢を増し、家中に響き渡った。

 陽大の怒鳴り声でようやくモゾモゾと毛布から見せた彼女の顔は腫れぼったく、耳を押さえながら苦痛に歪んでいる。


「……ウホウホ」

「ウホウホ? ゴリラ?」


 陽大が疑った通り、彼女特有のハスキーボイスはもはやゴリラの鳴き声そのものだ。

 ゴリラの彼女が再び逃げ込もうとする毛布を容赦なく引っ張り上げた陽大は、ポイッと床に投げ捨てた。


「朝はもうとっくに終わったよ! ほら、早く起きて!」


 妙齢の独身女性である彼女に対して遠慮するつもりなど更々ない陽大は、彼女の両手を掴みベットから無理やり持ち上げた。



「……ウホウホ」


 キッチンに立ち昼食の準備をしていた秋生はようやく起きてきた彼女に振り向くと、さっきの陽大と同じく呆れた息を吐いた。


「真由、一度鏡見たほうがいいよ。本当にゴリラだから」


 ボサボサの短髪に目が半分も開いてない彼女の浮腫み顔は、おそらく昨日の化粧も崩れ残ったままだ。


「それで、昨日は何時に帰ってきたの?」

「……何時だっけ……1時は過ぎてたか…………本当、陽大うるさい……」


 どうやら昨夜は午前様だったらしい真由は今だ陽大に文句をつけながら、フラフラと食卓の椅子に腰を下ろした。


「だったらもっと早く帰ってくればいいじゃん」


 後からリビングに入ってきた陽大は、真由の理不尽な文句に目を吊り上げ説教を始めた。


「だいたい何でいつも次の日まで引きずるほど飲むわけ? ていうか真由ちゃん何才?」

「ウホッ! 19才でーす!」

「ゴリラはもういいから。それにお酒は20歳になってから」

「……29才でーす」

「そうだよ、真由ちゃんは29才。健康を意識するのは当たり前なアラサー。もう全っ然若くないことちゃんと自覚して、お酒を飲む時は自制すること。わかった?」

「あー……マジで勘弁して陽大」


 陽大に呆気なくやり返された真由は二日酔いの頭を押さえ、テーブルに突っ伏す。

 すでに万年行事となりつつある2人のやりとりを今日も微笑ましく見守った秋生は、テーブルに水を置いた。



「陽大、そろそろ時間じゃない?」


 昼食をのんびり食べ終えた陽大に声を掛けると、やはり慌てて立ち上がった。


「ヤバい、遅刻だ。もう行くね」


 ジャージ姿の陽大はスポーツバックを肩に掛け、バタバタと音立てながら午後の部活に出掛け始める。


「真由ちゃん、今日は大人しくしてるんだよ。明日は絶対起こさないからね」


 リビングから出る前に一度振り返った陽大は真由にしっかり釘を刺した。


「はいはい、わかってますよ。少年、今日も頑張ってこい」


 真由は清々するように手を振り、ようやく出掛けた陽大の背中にげんなりと溜息を吐いた。


「あの子の口うるさい性格は一体誰に似たんだ……」

「真由限定じゃない? 私にはうるさく言わないし」


 確かに陽大は少し繊細で細かい所もあるが、基本のんびりしている姉の秋生に対し文句をつけたことはない。

 要するに真由があまりにもだらしないから放っとけないのだと思うが、あえて口にするのはやめておいた。


「陽大も心配してるし、しばらくは大人しくした方がいいんじゃない?」


 優しく忠告すると、真由は考え込むように顔を顰める。


「ちょうど飲み会シーズンだからね、そうも言ってられないんだな」

「そんなこと言って、昨日はただの合コンだったじゃん」


 もともと呑兵衛な真由の言い訳に突っ込むと、再びげんなりと溜息を吐かれた。


「あんたたち姉弟は本当手厳しいよね…………あーあ、選択間違ったかも」


 テーブルで項垂れ始めた真由の呟きに、秋生は思わず笑ってしまった。



 秋生と陽大が、秋生の親友である谷口真由と暮らし始めて既に2年が経過した。

 2年前、真由の両親が転勤のため家を一時離れることになり、実家で1人となった彼女が誘ってくれたのがきっかけだった。

 それまでアパート暮らしだった秋生と陽大は真由の厚意に感謝し、3人での生活を新たにスタートさせた。


「陽大もさ、サッカーばっかりやってないで彼女作ればいいのに」


 さっきまで項垂れていた真由はようやく遅い朝食に手を付けながら、今度は陽大の心配を始めた。


「あの子、女の子の話ってあんまりしないからね…………でも好きな子くらいはいるんじゃない?」

「見た目なかなかいい男に成長したんだから、結構モテると思うんだけどなぁ。ちょっと奥手すぎるかもね、あの子は」


 真由は普段口うるさい陽大に対し常に文句を言いながらも、陽大を可愛がっている。

 子供好きな保育士の彼女にとって小さい頃から成長を見続けた陽大は、やはり特別なのだろう。


「陽大の心配はいいけど、真由はどうだったの?」

「何が?」

「合コン」


 秋生から昨夜参加した合コンの感想を尋ねられた真由は、改めて振り返り始めた。

 思いきり顔を顰めた真由を見つめた秋生は、彼女の合コンが外れで終わったことを確信する。


「まあ、また次があるよ。諦めないで」

「ねえ……今度はあんたも行く?」


 突然目を輝かせた真由がニヤリと笑いながら、秋生にぐっと顔を近付けた。


「やばい、これから買い物行くんだった」

「こら、逃げるな…………ていうかあんた、今日仕事は? もう昼だよ」


 接客業の秋生は基本土日も働いてるが、真由は土曜日の今日家でのんびりしてる秋生に今頃気付く。

 

「昨日の夜は真由が12時過ぎても帰ってこないから、真由の二日酔いが心配で今日は仕事休んだの」

「秋生……マジで?」

「そんなわけないでしょ。今日は店長が旦那さんとツアー旅行に出掛けたから、臨時休業」

「あ、やっぱそういうこと……ガク」

「真由、心配したのは本当だよ。毎週二日酔いは避けること。わかった?」

「はーい、じゃあせめて隔週にしまーす」

「もう、真由は適当なんだから…………ふふ」


 万年呑兵衛の真由に説教した秋生は結局おかしくなり、最後は真由と一緒に笑い合う。

 ようやく買い物に行くため立ち上がると、真由に留守番を頼み出掛け始めた。

 




 3年前、秋生は壮輔と離婚した。

 それまで暮らしていたマンションを出た秋生と陽大は新たに2人での生活を始め、そして2年前同居人となった真由と共に現在に至る。

 離婚以降、壮輔とは一度も会っていない。


 彼が今どうしているか、気にならないわけではなかった。

 けれど彼を心配するのは既に秋生ではないことを、秋生も彼も互いが納得した上で別れた。

 互いの連絡先は知ってるが、おそらくこれから先も会うことはないだろう。

 2人の別れは必然だった。


 そして弟のためにも、離婚の選択は間違っていなかったと実感する。

 壮輔が秋生との生活に限界を感じていたように、弟にとっても3人の生活は辛いものだったに違いなかった。

 弟の苦しみはすべて秋生が招いたことだ。

 姉の為に我慢を重ね諦めるしかなかった弟は、秋生と壮輔の離婚を知ると明らかにほっとした表情を見せた。

 不安定だった弟が落ち着き始めたのも、壮輔と暮らしたマンションを出てすぐのことだった。

 今年高校生となった弟は相変わらず慌ただしい毎日を送っている。

 姉と、そして真由との生活に文句を言いながらも、以前より確実に笑顔が増えた。

 秋生の生活もそんな弟に合わせ、毎日慌ただしく過ぎていく。

 それでも今は落ち着いた態度を見せる弟に、以前のような心配はしなくなった。


 弟と真由、3人の生活がこれから先いつまで続くのかはわからない。

 けれど29歳になった今、先のことは考えずこの時だけを見つめる毎日も、秋生にはすでに自然のことだった。

 

 

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